第37話

 「柊椰様…早く、帰ってきて」


 麻希達の前で涙を溢そうものなら、返って彼女たちの怒りを煽る。泣かないと強情だと言って、また責められた。

 幾晩も窓のない部屋で過ごし、日々を耐えてきた。

 なのに、出逢ったばかりの柊椰の存在が、自分の中で予想以上に大きくなり、別れたばかりなのに彼に会いたくなった。 

 帰りは待たなくていいと彼は言ったが、到底眠れそうになかった。

 暫く縁側から外の様子を窺っていた。月が真上に昇り西に傾きかけた時、あの夜と同じように低い庭木の影が動いた気がした。


「と」


 帰りは明け方近いと言っていたが、予定より早く帰ってきたのだろうかと声を掛けようとした。


「グルルルル」


 低い唸り声が聞こえ、杷佳は身を固くした。

 

「え…」

「グルルル」


 唸り声はまるで野犬のよう。

 低い立木をがさがささせながら、それは闇から這い出てきた。

 暗闇で、しかも運悪く雲が月を覆っていて、その全容をはっきり捉えることはできなかったが、野犬にしてはかなり大きい。しかも四つ足の獣にしてはその輪郭は奇妙だった。

 まるで、二本足の生き物…人間が四つん這いになって這っているような形。

 その時、またも風がさーっと吹いて、雲が流れ赤く空に掛かる月が庭を微かに照らした。


「ひ」


 杷佳は思わず声を発した。

 ぽっかりと空いた黒い二つの穴が杷佳に向き、削げ落ちた鼻とどす黒い肌、まばらに生えた草のように抜け落ちた頭髪。破れて雑巾のようになった衣服を身に纏った、人らしき生き物が月に照らされて輪郭を顕した。

 が何なのか。杷佳の持っている知識からは、すぐに言葉が浮かんでこなかった。

 ただわかるのは、それが異質だということ。


「グルルルル」


 唸り声を発しながら、はゆっくりと闇から這い出てくる。しかもそれは一体だけではなかった。最初に現れたものと頭の部分は良く似ているが、同じくボロボロの衣からは、しなびたヘチマのようなものが二つ垂れ下がっている。それが女性の胸だと気づいた時には、二体は蜘蛛が這うようにガサガサと杷佳に向かって這い寄ってきた。


「き、きゃああああ」


 何とか声が出せたものの、腰が抜けてすぐには動けなかった。

 

 人気の無い広い庭に、杷佳の悲鳴が響き渡る。

 しかしその声に反応する者は誰もいない。

 北辰家の別宅にいる人々は、皆深い眠りに誘われ朝が来るまで目覚める者はいない。

 柊椰がそうなるように術をかけたからだ。

 杷佳だけが、なぜか彼の術が効かず、こうして夜の静寂しじまの中、一人彼の帰りを待っていた。

 

「あ、ああ」


 立ち上がれず、お尻を摺りながら部屋の中へと後ずさる。どこに逃げればいいのかもわからず、とにかく体をばたばた動かす。

 しかし、二体の異形のものはそんな杷佳に向かって、草むらを掻き分けながら近づいてくる。


「やめ、こ、来ないで」


 弱々しい声で訴えるが、そんな杷佳の声などはなから聞く気がないのか、それとも聞くための耳がないのか、近づく速度をますます上げて、縁側のすぐ手前まで辿り着いた。


「う、ああ」

 

 腐臭が杷佳の鼻を刺激する。腐った肉の匂いが異形から漂ってくる。

 眼球があっただろう眼窩がんかには、真っ黒な穴があるだけなのに、明らかにそれらは杷佳の姿を捕捉している。

 唇の周りの肉が無くなり、歯茎が剥き出しになった口が、ニタリと笑う。

 しなびて垂れ下がった胸らしきものがある方が、肉が僅かに残った腕を杷佳の素足に伸ばした。


「いや」


 恐怖で動けないまま、足を何とか動かして亀が甲羅に手足を引っ込めるように、丸くなった。


「杷佳!」


 柊椰の声が聞こえ、はっと目を見開くと、空からさっと影が舞い降りてきた。


「ぎゃああああああ」


 さっと風が走ったかと思うと、耳をつんざくような叫び声が聞こえ、杷佳に触れようとした方の異形が目の前でのたうち回っていた。


「ひいい」


 縁側に肘から先の骨が見える腕があって、杷佳は思わず後ろに体を引いた。

 ガタンと後頭部が障子にぶつかる。先ほどの風は、柊椰が振るった太刀が起こしたもので、その一刀が腕を切り落としたのだった。


「牛頭、馬頭」


 続けざま、もう一体の首を切り落とした柊椰が叫ぶ。


「あい」


 どこからともなく現れた牛頭達が異形に手を翳すと、それらは忽ち青白い炎に包まれ始めた。


「これで百体だな」


 残った腕を刀の先に突き刺すと、青白い炎に燃える体の方に放り込んだ。


「あ、あ」


 何が起こったのか。自分の身に何があったのか。杷佳は蒼白になりながら、柊椰の動向だけを眺めていた。


「杷佳、大事ないか?」


 刀を鞘に収めそれを牛頭に預けると、縁側に膝を突いて柊椰が身を寄せてきた。


「若様、花嫁様の足」


 馬頭が杷佳の足首を指差す。そこは先ほど異形が触れた場所だ。


「まだ残っていたのか。馬頭頼む」

「あい」


 柊椰に言われ、馬頭が杷佳の足首に向かって手を伸ばすと、残った肉片に青白い炎が立ち上がる。


「ひっ」


 火傷する。その考えが杷佳の脳裏を過った。


「大丈夫。熱くはないはずだ」





 

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