第36話

 早めの夕餉を済ませ夜の帳が降りると、柊椰を牛頭達が迎えにきた。


「若様、お嫁様、こんばんは」

「こんばんは」

「こ、こんばんは。牛頭さん、馬頭さん」


 袴姿が商家の丁稚のような二人に、杷佳は丁寧に挨拶をした。


「若様、これ」


 牛頭がどこから取り出したのか、太刀を柊椰に渡す。

 

「うん」


 柊椰は初めて会った時と同じ白と黒の着物を身に纏い、着物なのに革手袋を嵌めている。

 それを横から掴むと、柊椰は鞘から刀身を半分ほど引き抜く。

 良く磨がれた刃が、蝋燭の灯りにきらりと光る。


「では行ってくる。いつものように、帰りは待たなくていい」

「はい。どうかご無事で」


 何と声を掛けて良いかわからず、それだけ言う。


「ありがとう」


 彼は微笑んで牛頭達を伴い、闇の中に姿を消した。


「どうかご無事で」


 彼らが消えた闇を見つめ、杷佳は手を合わせて祈った。

 こうやって柊椰を送り出すようになって、五日ほどが経っていた。

 三日前に雨が降った夜も、柊椰は出かけていった。

 一晩中どこかにいき、夜明け前に帰ってきては、昼まで寝て過ごす。という日々を過ごしていた。

 杷佳は縫い物をしながら、彼の帰りを真夜中過ぎまで待つ。しかし起きていると柊椰が気を使うため、途中で横になってまんじりともせず夜を明かす。

 柊椰が昼近くまで寝ていることについて、まだ病み上がりだから、徐々に体を慣らしていけばいいと、言って柾椰達はそれを受け入れている。

 一体どこへ何をするために行くのかわからないが、太刀を持って行ったということは、それが必要なことなのだろう。

 見た目は子供だが、牛頭達が見かけとは違うことはわかる。そうでなければ夜の外出に同行させるわけがない。

 ざあーっと生温かい風が吹き、庭の木々がざわざわと靡く。空に昇った月は、良く見慣れた白いものではなく、赤みがかっている。

 いつも月に見える餅をつくウサギはいない。代わりにそこに見えた影は、どこか睨んでいる人の顔にも見えた。

 それが自分を折檻する叔父達の顔と重なり、杷佳の体が震えた。

 北辰家に来てからの穏やかな日々が、一瞬にして消え去り、繰り返し罵倒され、時には体を痛めつけられた日々が蘇って、きゅっと身を固くして目を閉じた。

 

 どうしてそんな記憶が蘇ったのか、理由はわかっている。

 今日、初めて杷佳は柊椰の母、楓に対面した。

 二人きりで会いたいという彼女の希望で、杷佳は一人で彼女に対面していた。


「お初にお目にかかります、杷佳と申します」


 楓は柊椰に長らく付き添っていたことで、自身も看病疲れから寝込んでしまっていた。

 常磐からそのことを聞いて、見舞いをと杷佳が申し出たが、それは不要だと柾椰や常磐、柊椰に言われたため、床上げをしてからの対面となった。

 脇息に左肘を置いてもたれかかった楓は、挨拶を済ませ開け放たれた障子の外で縁側に正座する杷佳を、暫く黙って見つめていた。

 

「あなたが…」

 

 病み上がりで少し痩けた頬の楓が杷佳を見る目は、決して優しくは無かった。


「よりにもよって…」


 静かな部屋に、そんな彼女の呟きが聞こえた。

 杷佳のことを心からは歓迎していない、そんな空気が彼女がひしひしと伝わってきた。


「旦那様も柊椰も、あなたを実家に帰すつもりはないそうです。私も鬼ではありません。あなたがご実家で辛い目にあったいたということは、耳にしています。そのような場所に帰すのは可哀想だとはわかっています」


 だが、息子の嫁として認めたわけでは無い。はっきり言わなかったが、彼女の心の声が聞こえてくるようだった。


「お心遣い感謝いたします」


 杷佳は再び頭を下げた。


「柊椰が、あなたのことを痛く気に入っています。常磐も気立ての良い子だと褒めていましたから、普通なら喜んでもいいのでしょうが、これまでは選択肢がありませんでしたが、今後はどうなるかわかりません」


 もう下がって良いわ。

 ほんの十分ほどの対面だった。

 

「大丈夫だったか?」

「ええ」


 部屋に戻った杷佳を心配して、柊椰が尋ねた。

 笑顔を無理矢理作ってそう言った。

 それが嘘だとわかっていたようだが、柊椰は杷佳の気持ちを察して何も言わなかった。

 背に腹は代えられないと杷佳を迎えたが、この先もっと良い相手が見つかれば、簡単に放り出されるかも知れない。楓の気持ちもわかる。自分が親だったら、杷佳のような者を嫁に欲しいと思わないだろう。

 そんな不安が、その夜杷佳を包み込んでいたのだった。

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