第35話
「初めて庭で会った時のことを、覚えているか?」
「はい」
「あの夜も、私は邸にいる全員に、起きないよう術をかけていた。だが、なぜか君はただ眠っていただけで、術は効いていなかった」
「そうだったのですね。でも、あんな夜更けに、何をされていたのですか」
いきなり部屋に現れた柊椰。あの時はそれが彼が誰かわからなかった。
あの時から既に、彼は床から抜け出していたことになる。
「これからも、私は毎晩出かけなければならない。それが約束だからだ」
「約束?」
杷佳の問いに対し、彼は答えをくれなかった。それも牛頭や馬頭のことと同じで、杷佳には話せないことなのだと察した。
「私に術が効いていれば、ここまで話す必要もなかったのですね」
「そういうことだ」
彼に取って都合の悪いこと。説明できないことを隠すため、彼は邸にいる者達に術をかけているのだ。彼に取っては想定外のこと。だから話せる範囲で、こうやって話してくれているのだ。
「夜になれば、私は牛頭達と共に出かける。帰りは夜明け前になるだろう。だから君は私の帰りなど待たずに、休んでいなさい」
「まるひと晩出歩いて、柊椰様のお体は大丈夫なのですか?」
「心配してくれているのか。優しいな、杷佳は」
顔を綻ばせ、柊椰は優しく彼女を見つめ返す。
見るほどに整った顔立ちの柊椰が微笑めば、それだけで杷佳の胸は熱くなる。
「と、当然です。柊椰様は病み上がりなのです。それに、わ、私はあなた様の」
「花嫁だからな」
柊椰が杷佳の台詞を先に口にする。
「心配してくれてありがとう。だが、牛頭達がいれば大丈夫だ。無茶はしない」
一体何のために一晩中出歩くのか。「大丈夫だ」と言われても、心配が消えたわけではない。
「香苗さんも、普通に出かけて事故で亡くなりました。人は、突然いなくなることもあるのです」
「香苗?」
「室生の家で、私に優しくしてくれた最後の人です。用があって外に出て、そして車に轢かれて帰らぬ人になりました。彼女の供養のため興得寺に行って、そこで見越様にお会いしました」
思えばあれが始まりだった。そう思えば、この婚姻も香苗が繋いでくれた縁かも知れない。
「叔父達の手前、表立っては難しかったでしょうが、私のことを娘のように可愛がってくれました。彼女の供養を頼んだ夜、夢枕に彼女が立って、自分との縁は切れたが、新しい縁があると、そう言ってくれました」
「きっと、それは私との縁だな」
「私もそう思います。でもあれは、夢だったのでしょうか」
「杷佳が夢でないと思えばそうでないし、夢だと思えばそうなのだろう」
「夢とは思いたくありません」
「怖くないのか、幽霊だぞ?」
「大切な人なら、幽霊でも会えればうれしいです」
「そうか。なら、私が幽霊になって会いにきても、杷佳は喜んでくれるか?」
「え?」
驚いて杷佳は目を丸くする。
「柊椰様が、幽霊? そ、そんな縁起でもないこと…ようやく病が治ったばかりなのに、冗談でも酷すぎます」
「酷いか。杷佳は私が死ぬのは嫌か?」
「当たり前です。会ったばかりなのに。柊椰様には、もっともっと生きていただかないと。病が治ってこれからではありませんか」
驚きから杷佳は少し怒り気味に訴えた。もう大事な人を失いたくない。香苗の死を経験したばかりなのに、柊椰がいなくなるなど、考えたくもない。
「すまない。だが、人の命は有限だ。その香苗さんのように、突然死を迎えることもある。それは生きるものすべての
「それはわかっていますが、そう仰るなら、私だって、どうなるかわからないと言うことですよね」
「そうだな。では、この話はもうやめよう。これ以上杷佳を怒らせたくはないから」
「わ、私は怒ってなど…」
「怒っていないのか?」
そう言われ、自分が柊椰の言ったことに対し、苛立ちを覚えたことに気づいた。
ずっと室生家では身を縮こまらせて、感情を押し殺して生きてきた。香苗が向ける気遣いに細やかな幸せを感じることはあっても、恐怖以外の感情が自分の中に浮かぶことは久しくなかった。
「と、柊椰様がおかしなことを仰るからです」
良くも悪くも、柊椰は杷佳の心を掻き乱す。でもそれは悪いことではない。
「悪い。杷佳は素直だな」
こんな風に気兼ねなく話が出来るのも、祖父を亡くして以来だった。
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