第26話
悲鳴を上げようとした杷佳に、手袋を嵌めた男の手が伸びる。
そのまま口を塞がれ、布団の上に押し倒された。顔のすぐ横に男が手をつく。
杷佳の頭の中は真っ白になり、ただ覆い被さる男を見つめた。
長い男の黒髪がパサリと流れる。
白と黒の着物を着た男は、目を細め杷佳に囁く。
「静かに。大人しくしていてくれ。何もするつもりはない」
男の表情には悪意は見えないが、俄に信じ難い。何しろ夜中にこっそり忍び込むような人物なのだから。
「声を出さないと約束してくれれば、手を放す」
ここで逆らえば、どうなるかわからない。そう思って、杷佳は軽く頷いた。
「よし」
ゆっくり男の手が離れるが、態勢はそのままで杷佳の様子を窺っているようだ。
「すまない」
怯える杷佳の表情を見て、男は心底すまなさそうに謝った。
「……ど、どろ」
「泥棒ではない」
か細い声で言いかけた杷佳の言葉を、男が遮る。
「牛頭、馬頭、どういうことだ? 術が効いているのではないのか」
杷佳に視線を向けたまま、男が問いかける。
「……わからない」
先程の子供らしき声が聞こえ、男の背後左右から牛の頭と馬の頭をした子供がこちらを覗き込んできた。
(被り物?)
「わからないだと?」
先程見えたのは見間違いではなかった。
「いつもと同じようにしたよ」
「そうだよ」
「術は完璧」
「うん、完璧」
とても精巧な造りだと思った。まるで本物そっくりだ。しかし、被り物を被っているなら、口は動かないはず。
なのに、体は人と同じで牛の頭と馬の頭をした彼らの口元は、声に合わせて動いている。
(まさか、本物?)
「ひ…」
その異様さに、杷佳は空気を吸い込んだ。
「悲鳴は上げるなと言っただろう」
もう一度男の手が伸びてきて、杷佳はビクッと身を強張らせた。先程はいきなりだったが、叔父達に殴られていた記憶が蘇った。
恐怖に目を見開く杷佳に、伸ばしかけた男の手が止まる。
「……そう怯えるな。危害を加える気はない」
「花嫁様…僕たち怖い?」
「若様、いじめてる?」
そんな杷佳の様子を気遣わしげに見る牛の頭と馬の頭をした子供が、杷佳と男を交互に見比べている。
「いじめてなどいない」
男が憮然とした顔で、口を尖らせる。
まるで自分が悪いと言われている気がする。
「ご、ごめんなさい」
ついいつもの癖で謝った。
「……謝るな。それだと俺が責めているみたいだ」
「ご…ごめ」
またもや謝りかけて、杷佳は唇を噛んだ。
ふう~っとため息を吐き、男は片手で髪をかき上げた。
突然のことに、男の顔をじっくり見ていなかった杷佳は、その整った顔立ちに初めて気づいた。
柳のような眉、切れ長の黒い瞳。すうっと通った鼻筋に形の良い唇、そしてすっきりとした顎の形。不審者であるのに、思わず見惚れてしまいそうになった。
「ど、泥棒でないなら、何を…」
しかし杷佳は、はっと我に返った。
男の目的が物取りでないなら、ここにいる目的は何なのか。
それに奇妙な頭をした子供。
よもや怪異の類ではなかろうか。
この世にそんなものが存在するのかどうかはわからなかったが、杷佳が知らないだけかも知れない。
恐ろしくもあったが、目的がなければこんな真夜中に忍び込むことはない。それが何であれ、北辰家に仇なすつもりであるなら、自分の命ひとつで皆を守れるならばと、杷佳は覚悟を決めた。
「北辰柊椰」
「え?」
「この家の一人息子に嫁いだらしいな」
どこから聞きつけてきたのだろう。この家では周知の事実だが、答えていいものか杷佳は躊躇った。しかし、先程から牛と馬の頭をした牛頭と馬頭も、杷佳を「お嫁様」と呼んでいる。
彼らは既に杷佳のことを知っているということだろう。
「病から亡くなったことは知っている。『冥婚』のことも」
彼女が躊躇う理由を察し、男がすべて知っていると話した。
「腹が立っただろう。死人が相手だと聞かされて」
男の表情には杷佳への同情が浮かんでいた。
「驚きましたが、怒ってはいません」
「『冥婚』だぞ、相手は既に亡者だぞ、そんなのが夫なんて、馬鹿にするにも程がある。気を遣っているなら、今ここで怒れ。責めはしない」
なぜか男の方が怒りを見せている。少し荒げた声に、杷佳の体が震えた。
「…すまない」
またもや杷佳を怯えさせたことに、男が謝った。
「若様怖い」
「花嫁様、怖がっている」
「うるさい、だから謝っている。お前達が入るとややこしくなる。外に出ていろ」
二人に責められ、男は嫌そうな顔で文句を言って二人を追い出してしまった。
「若様ひどい」
「若様ひどい」
追い出された二人は恨みっぽくそう言って出て言った。
「それで、怒っていないのか」
「あの、本当に怒ってはいません。むしろ私のような者をこうやって迎え入れてくださり、有り難いと思っています」
夜中に忍び込んできて、怪しいとしか言いようがない相手だったが、杷佳は嘘偽りなく答えた。
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