第13話

 智之に叩かれた頬の腫れは三日ほどで引いたが、麻希に踏みつけられた手の傷はなかなか癒えなかった。

 ぱっくり割れた関節の傷は、水仕事をするたびに滲み、傷口からは血が滲んだ。

 縫い物をする時には、血が付かないよう切り裂いた布を巻いた。

 その傷もようやく癒えた頃、意外な話が舞い込んできた。


「杷佳、お前に縁談の話が来ている」


 その日の夕刻、いつもより早くに家に戻ってきた智之に、杷佳は部屋へ来るようにと言われた。


 あの日以来、杷佳は息を潜めて暮らしてきた。

 香苗の代わりに女中頭になったのは、朝子だった。

 朝子は麻衣が嫁入りの時に連れてきた女中で、麻衣に忠実で、麻希を猫可愛がりし、杷佳には殊更厳しかった。


 いずれ一人娘の麻希が婿を取り、室生家を継ぐだろう。そうなっても、杷佳の暮らしはずっとこのままだろうと思っていた。

 もし、麻希の夫になる相手が、杷佳のことを受け入れなければ、どこかへ奉公に出されるのではと、恐怖も感じていた。


 なので、智之が口にした言葉は、杷佳に取っては意外なものだった。


「え…あの…今、なんと…」

「聞こえなかったか。お前は嫁に行く」


 やはり聞き間違いではなかったようだ。


「で、ですが…私はまだ十七になったばかりで…」


 いきなりのことに、杷佳はどう言ったらいいのかわからない。

 

「昔はもっと若くに結婚していた。今は少し遅くなったが、十七は決して早くはない」

「そ…そうかもしれませんが…その…お相手はわたしのことを…」


 自分は人とは違う。たとえ叔父が室生家の娘だと取り繕ったとしても、自分の姿を見れば相手は怯むに違いない。


「あちらはお前の父親が誰かわからないことも、その髪のこともご存知だ」

「え!」


 驚いて杷佳は顔を上げて、叔父の顔を見た。


「不服か?」


 縁談話に喜ばない杷佳に、智之は不機嫌そうに言った。


「い、いえ…そのような…その…お相手は…」

「北辰柊揶とうや殿と仰る。歳は今年二十歳だそうだ。北辰家は室町時代から続く武家で、かなりの財力もある。柊揶殿はそこの嫡男で一人息子だ」

「北辰…柊揶様…」


 それを聞いて心の中でまた驚いた。てっきりもっと年上の老爺が相手かとも思った。しかもお金持ちで嫡男。

 それがなぜ曰く付きの自分の相手なのか。

 叔父が杷佳の幸せを願って、いい縁談を持ってくるとはとても思えない。

 ならば、今叔父が杷佳に伝えた内容以外の、何か裏があるのかも知れない。


「あ、あの…それでその北辰様とは、いつお会いすれば…」


 自分に拒否権ないことはわかっていた。しかし、相手はわからない。

 いくら杷佳の生まれについて耳にしていたとしても、実際自分を見たら、やはり違うと断られるかも知れない。

 そうなったら、叔父たちはどうするだろうか。


「それが、向こうは婚儀を急がれている。嫁入り道具も何もいらない。身ひとつで来てくれればいいとのことだ」


 持参金も嫁入り道具も不要となれば、叔父がこの話に飛びついたのも頷ける。 

 室生家から嫁入りするとなれば、相手もそれなりのものを期待されてもおかしくない。

 なのに、身ひとつで来ていいとなれば、断る理由はなくなる。


「わ、わかりました。謹しんでお受けいたします」


 杷佳にはこの話を受けるしか選択肢はない。

 ここで断れば、きっと叔父は何様だと怒り狂うだろう。

 相手がどんな人か、北辰家がどんな家かまるで見当はつかなく、不安しかなかった。

 ここでの暮らしも大変だが、嫁ぎ先がここより酷い場合もある。

 しかも、ここを出て一度嫁げば、どんなに辛くても帰る場所はないだろう。


『仏様は、越えられない試練はお与えになりません。私との縁は切れてしまいましたが、きっと新たな縁が繋がれるでしょう』


 杷佳の夢枕に立った香苗の言葉が頭を過った。


 もしかしたら、香苗は夢枕でこのことを言いたかったのかも知れない。

 そう考えると、不安に押し潰されそうな杷佳の心が少し軽くなった。


「ではすぐに支度をするように」

「……え?」


 また間抜けな返答をしてしまい、あからさまに智之が顔を顰める。


「言っただろう? あちらは大変急がれていると」

「は、はい…では…一度ご挨拶に伺ってまいります」


 すぐに顔合わせだとは思わなかった。すぐに着替えて出かける支度をしなければと立ち上がった。

 とは言っても、杷佳の手持ちの着物はあまり良いものはない。それでも仕事着で行くのは失礼だろう。

 

「何を言っている」

「あ、あの、北辰家にご挨拶を…」


 吉日を選んで顔合わせをしている間がないとは言え、挨拶はすべきだろう。

 挨拶にも来れないのかと、悪い心象を与えて恥をかくのは室生家の方だ。


「急いでいると言っただろう。祝言は今夜だそうだ」 

「こ、今夜…祝言…?」 


 自分の耳がおかしいのだろうか。叔父は祝言は今夜だと言っている。


「そうだ。ああ、それと祝言はあちらの関係者だけで行うそうだから、こちらからは誰も行かないので、そのつもりで」

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