第12話
「痛い…」
手の関節は擦り切れ血が滲み出ている。
土間で正座し続けたため、冷えが骨にまで伝わってくる。
正座する杷佳を、他の使用人たちが入れ代わり立ち代わり様子を見に来ては、クスクスと嘲笑していった。
大抵がいつも麻衣や麻希に媚びへつらっては、杷佳のことを馬鹿にし、あれこれ自分の仕事を押し付けてくる者たちばかりだ。
人使いの荒い麻衣たちに、皆普段から鬱憤が溜まっている。
その捌け口が杷佳だった。
杷佳が麻衣たちに折檻されているのを見て、楽しんでいるのだった。
他の者はそれを遠巻きに見て、眉を顰めるが助けてはくれない。
「香苗さん」
薄暗い土間に座り、杷佳は香苗の死が未だ信じられなかった。
杷佳がこの家で頑張れたのも、彼女がいたから。
祖父は彼女の母親の小百合がどんなに素晴らしい娘だったか、折に触れて語ってくれたが、杷佳にはピンと来ない。
十月あまりお腹にいたとしても、自分を生んですぐに亡くなった母親より、香苗の方がよほど大事だった。
それでも、今日お寺で供養をしてもらえたことで、杷佳は少しでも香苗のために何か出来た気がしていた。
夕食が終わる頃、ようやく智之から赦しが出た。
しかし今日いっぱい食事抜きの仕置は継続された。
幸恵がくれた干菓子のお陰で救われた。
ほうほうの体で部屋にたどり着き、布団を敷くのももどかしく、杷佳はバタリとその場に突っ伏した。
『…さん』
ふと声が聞こえた気がした。
「え…?」
誰か来たのかと、頭を上げて部屋の入口を振り返った。
「だ、誰?」
杷佳の部屋を尋ねる人など、香苗以外は誰もいない。
その香苗も今はこの世にいないのだ。
暫く様子を窺うが、誰も引き戸を開ける気配がない。
『…さん』
また声が聞こえたが、その声は引き戸の向こうからではなく、部屋の中から聞こえたように思えた。
「……?!」
そう思って引き戸から顔を反らすと、仄かに光るものが目に写った。
杷佳はガタンと飛び起きて、引き戸まで下がった。
「な、ななな、何?」
まるで蛍が群れとなって飛び交っているようだ。
窓のないこの部屋で、虫が入ってくるはずがない。しかも今は初春で、蛍が飛び交う時期はまだ先だ。
『…さん』
飛び交う光から、今度ははっきり声が聞こえた。
「だ、誰?」
その声に聞き覚えがある気がして、怯えながらも杷佳は暫くその光を見守っていた。
『杷佳さん』
今度ははっきりと聞こえた。
「…か、香苗…さん?」
信じられず目を瞠った杷佳の前で、やがて光は人の形を取り、香苗の姿が現れた。
「香苗さん」
これは夢か。信じられない思いで、杷佳は光る香苗に向かって手を伸ばした。
しかし、伸ばしたその手は香苗の体をすり抜け、空振る。
『杷佳さん』
空振った杷佳の手を見て、香苗は悲しそうに首を振る。
「香苗さん。わたし…」
『ごめんなさい。突然、お別れすることになって』
謝る香苗に、ふるふると杷佳は首を振る。
「香苗さん。香苗さんは悪くない。でも、寂しい…もう…もう会えないの?」
智之や麻希に痛めつけられても泣かなかった杷佳の目に、涙が溢れ出す。
『ごめんなさい。もっと側にいて、お護りしたかったのに…』
涙で声が詰まり、杷佳は何も言えなくなる。
『ありがとうございます。杷佳さん。私のためにお布施をしてくれて』
「そんなの…そんなこと…わたし…わたしにはそれしか…」
涙で引きつりながら、杷佳は自分に出来ることはそんなことしかないと言い続けた。
『杷佳さん、仏様は、越えられない試練はお与えになりません。どんなに過酷だと思っても、自分で命を断ってはいけません』
「香苗さん…でも、でも…わたし…香苗さんがいなくなったら…」
心細さに杷佳は押し潰されそうになる。
『大丈夫です。私との縁は切れてしまいましたが、きっと新たな縁が繋がれるでしょう』
「新たな…縁? それは何?」
『……です』
「え?」
目の前の香苗の姿が薄れてきた気がする。それと共に声も聞こえ難くなった。
「まって、香苗さん!」
薄れていく香苗の姿を掴もうと、手を伸ばした。
「え…」
ビクリと杷佳の体が震える。
「香苗さん」
折り畳んだ固くて薄い布団から杷佳は顔を上げた。
「ゆ…夢…?」
四畳半の狭い室内を、杷佳はキョロキョロと見渡す。
香苗が幽体となって自分に会いに来てくれたと思ったが、それは自分の夢だったのだろうか。
「香苗さん…ありがとう」
たとえそれが香苗に会いたいという自分の願望が見せた夢だったしても、夢の中で香苗に会えたことに杷佳は感謝した。
しかし、最後に香苗は何と言ったのか聞き取ることが出来なかった。
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