【冬・1『胃痛』】

 胃が痛い。

 その直接的原因は目の前の小娘にあるとして、ならば彼女が眼前から消え失せればこのストレスもまた消滅し得るかと問われればそんなことはないはずだ。全ては僕の持つ、瓶の裏にこびりつく青カビのような精神性が悪い。そう思っていないとやってられない。

 一介の性根の暗い男子高校生が、一人でコーヒーを啜るには高級感に溢れ過ぎている。身体の末端が冷たい。汗は延々と止まらない。目の焦点も定まらない。痙攣する膝の筋肉が煩わしい。コーヒー飲んだらすぐ帰りたい。しかし緊張で舌の神経が縮んでしまったのか味は無い。もはや白湯である。ブラック白湯という矛盾した液体が口内を泳いでは痛む胃の底へと沈んでゆく。

 そんなカビ菌の擬人化とは対照的に、夏夜は幸せそうに頬を抑えケーキをフォークで掬っては口へと運ぶ。一口二口、三四が込みでまた五口、まだ行くか。僕とは胃の出来が違うのだろう。いろんな意味で。

「あ、エッグタルトも追加していいですか?」

 筋骨隆々の店長を呼びつけ、退路を断ってから確認を取る。鬼の威を借る卑怯者の姿がそこにはあった。黒豆のように丸っこい瞳が期待に瞬く。あまりに丸いものだから、何処かへ転がって行かないものか心配になる。

「ああ、好きにするといい……金は鳴海先生に貰っている」

「お金持ちなんですねえ励一君。やっぱりお医者だから?」

 学徒の身において医療行為で生計を立てているのならば素晴らしいことだ。正に値千金の才覚の持ち主である。千円札を5枚取り出すとき、財布を持つ手が震えていたのはきっと僕の幻覚だったのだろう。

 夏夜は運ばれて来た甘味を一口に平らげ、満足そうに目じりを下げる。しかしメニューをめくる夏夜の手は止まらない。まさかまだ喰らう気か。この世の全てを平らげるつもりかこの子供は。

 苦痛の時間は延長された。


 徒労を終わらせ病室に戻る最中、すれ違った鳴海先生の亡霊の如き衰弱具合に若干の面白さを覚え、声を掛けた。

「お困りですか」

「……ダイジョブだよ?」

 嘘だ。頬はこけ、肌は荒れている。髪の毛はよれよれと頼りない。見れば目に光もない。

「人助けならなんでもしますよ。僕は」

 例えそれが鳴海励一という、人の助けを必要とするのかもわからない人間が相手であったとしても、それだけは自信を持って口にできた。アバラを割らんとばかり胸を張る。

 鳴海先生はたっぷり三十秒間、胃の辺りを激しく擦りながら考え、考え、思考の末に青くなった額を床に着けた。

 何故だ。

「すまん……頼む……」

 鳴海先生が僕に頼み込んだのは、喫茶店でバイトをしている知り合いが、ちゃんと働けているのか見てきて欲しいということだった。

 果たして土下座で頼み込むようなことだろうか。

 その知り合いがわからないと言うと『バイトは一人しかいないし一目見たらわかる』、とのことだった。

 三も四も年下の生意気なクソガキにペコペコと頭を下げる鳴海先生の必死さを、むやみやたらに無下にするほど、生意気なクソガキたる僕も不義理なつもりはない。

 そもそも、こんなのに関わってくれるだけで本来ならば有難いことなのだ。

「近場なんですよね、その喫茶店って。わかりました」

「ああ。ほんとすぐそこ。金も渡す。頼む……! 行ってきてくれ……!」

 これ以上首の上下運動を許すと彼の脊髄が外れそうだったので、さっさと了承する。

 人助けになるならば僕がやらない理由はない。人の為になるならば、誰かの笑顔につながるのならばなんだってする。自分にはそれしかできないのだから。

 なんだって、しなければいけないと、

 あの時あの瞬間に、僕は確かに誓ったのだから。


「あの野郎……」

 前言撤回だ。こんなことに関わらせるとは生来ながらさぞ度し難い性格をしているに違いない。

 思い返してみれば入院患者にこんなことを頼むだろうか。僕を働かせないために無理矢理用事を作ったのかもしれない。やはり喰えぬ。喰えたものではないあのおじにいさん。

 入店と同時に感じた、常連と店員が協力して作り上げたであろう完成された洒脱さと、拒絶にも似た威圧感に気圧され、眩しさに縮まった薄目で席をそろそろと探すと、カウンターには既に二人組の客がにこやかに筋骨隆々の巨人と談笑していた。その真横にコンニチハする勇気は当然無い。

 しょうがないので抜き足差し足深草兎歩で店内最奥のパーテーションに囲まれた四人席の一番隅に腰を落ち着ける。背後と右方に壁が在ることがあまりにも心地いい。埃のような誇り無き精神性は、自然と四隅に所在を選ぶ。盛り塩をする際にはさぞ邪魔だろう。悪霊と区別がつかない。

 肺に染み込む香ばしい豆の香り。空間を調律する穏やかなメロディ。医院の座り心地が死滅している縁起の悪い椅子とはかけ離れた柔らかなクッション。

 慣れない。

 居心地のいい場所に自分がいるという事実が気持ち悪い。

 しかして店内でゲロるわけにもいかないので、心頭滅却の志で只管に脳内念仏を唱える。あみだあみだあみだくじあたりがはずれであんたらかんたら。そうして無意味に舌を運動させていると、みるみるうちに空気中に唾液が揮発して口内が干上がってゆく。

 そして史上稀な緊張で内臓器のリズムを乱しながら、掠れ上擦った声でどうにかコーヒーを注文しようとしたら夏夜さんが出てきた時には、またいつもの悪い夢かと頬をつねってみたが惜しいことに夢ではなかった。

 夏夜さんは、袖と裾を絞った明らかにオーバーサイズのカッターシャツに、校章の付いたリボンと学生スカートという、中学生としては至極真っ当な服装に重ねて、紺のエプロンを身に着けていた。

 そして先日とは違って、鋭いアクセントのような紅い眼鏡を掛けていた。

 注文を取りに来た彼女の営業スマイルがすっと萎んだ時の電流の如き気まずさと『あの野郎一目見たらわかるってそういう意味かよ』という二つ、ないしそれ以上の種類のマイナスな感情の奔流は僕の脳波をぐるんぐるんとかき乱し、なんと声をかければいいんだ、家出娘に対する声のかけ方なんて知らない。知ったことではない。そんなもの学ばなかったしこれだから柔軟性の無い教育はどうたらこうたらと生涯を通じて学んできたことが少ないことをわざわざ露呈させてまで自分に責任が無いことを証明しようとするこの薄汚さが顔面に気味の悪い表情として張り付いてしまったときの後悔の念と言ったら、どうしよう。

「あなたは……確か……勇気さん」

「違う」

「励一?」

「だいぶ離れたな」

「久善?」

「それにいたっては誰だ」

「いっつもその席に座ってパソコン打ってる怪しい変人ですね。今日は外で知り合いと会うらしいです」

 お盆を体に抱えた夏夜さんが、僕の尻を指さして言った。

「それは、その……大丈夫なのか?」

 ふいに臀部に痒みを感じた。久善なる人物が座っていたとされるこの席から、何かお肌に良くない成分が滲み出ている気がしてならなかった。

「いい人ですよ。態度は悪いけど誰にでも一緒だし」

「そうか」

「言ってしまえば夕さんと似たようなもんです。陰キャですね」

「……そっか」

 じゃあ僕と同じでロクデナシだなと笑顔で返せる人間になりたかった。

 鳴海先生がおっさん呼ばわりされているのは大層愉快だったが、いざ僕に手番が回ってくると相応に響くものがあった。

「店長休憩いただきまーす」

 コーヒーを静かに卓に置くと同時に、夏夜さんは高く声を張り上げる。

「いいよーん」

 軽い。

 店長と呼ばれたカウンターの向こうの大男は談笑を切り上げて野太い声で返事をする。僕が勝手に感じていた威圧感とは大違いの反応だった。やはり人は見かけで判断するものではない。

 善人に決まっている。

 だってあの形相で善人でなかったらバランスが取れていない。

「ちなみにそのコーヒーわたしが淹れたんですよ、美味しいでしょう」

「おい何故座る。休憩室とかないのか」

「え、美味しくなかったです?」

「いや美味いけど、だから座るなって、おい何故メニューに手を伸ばす、オイ」

「美味しいでしょうそうでしょう、練習しましたもの。ま、わたしコーヒー飲めないんですけどね」

「子供だな」

「ここから一列頼んでいいです?」

「そんなに注文しても食べきれないだろう。胃の配分を考えないと栄養過多で皮下脂肪と内臓脂肪がどうたらするぞ」

「あんま早口でぼそぼそ喋られると聞き取りづらいです。ちなみにわたしはここの二階に住んでますので。お店の冷蔵庫に入れておけば無問題」

 ついでのように人の欠点を指摘するな泣くぞ。

「夕さんはケーキとか頼まないんですか?」

「鳴海先生の金だからそんな無駄遣いはできない」

 言外に出費を抑えるように促してみたのだが伝わっただろうか。

「あ、じゃあわたしが二人分食べますね」

 伝わってねえな。

「……家出しているとは聞いていたが、ここに住んでいたのか」

「ご心配なく。店長は見た目と違っていい人ですし、部屋はちょっと狭いですけど住めば都だし。服は励一君が古着何枚かくれたし、下着は」

「いいよ言わなくて。聞きたくもない。だからシャツがブカブカなのか」

「えーこれ可愛くないですか?」

「僕に人並みの感性を期待するな」

「別にしてないけど、似合ってるでしょ。可愛いでしょこれ」

「僕は容姿で他人を判断しない人間だ」

「ヒト語下手くそです?」

 生きること全てが下手クソなのだから、その言葉は一部にしか刺さらない。

 しかし問題があるとすれば心臓の付近に突き刺さったことだった。もっと上手に生きることができていたのであれば、きっと全身の包帯ももう少し減っていただろう。

「なんで……そんな落ち込んでるんですか」

 目を細め、夏夜が逃げるように身体を退く。自分から吹っ掛けておいてなんだ貴様。消費者庁に通報するぞ。

「どんな言葉が人を傷つけるかなんて、傷付けた後にしかわからないものなんだ」

 それはこの身を以て知っている。

「はぇー」

 はぇーじゃねえよ今僕結構大事なこと言ったぞ。

「ちなみに適当なこと言って人との会話を中途半端なところで切るのも陰キャに見える一因だと思いますよ。ディシズアドバイス」

「……そっか」

 この感情は一体何物なのだろうか。

 僕は自分のことが嫌いだ。

 だから、誰かに対して言い訳をするつもりは無いし、自分の犯した罪や欠点には自分なりに向き合いたいと思っている。何を言われようと、客観的な視点からのアドバイス、指摘、感想、批評批判罵詈雑言殺害予告呪言は僕の礎と成り得る。

 埋めるべき欠けた部分を示してくれているのだからありがたいはずだ。

「なんかもうちょっと子気味良いウィットに富んだ話題提起はできないんでしょうか」

「ハイ」

 乾いてゆく。何かが。明確に。

 したり顔のチビに説教されるのがここまで不愉快だとは。

「しょぼくれてますねぇ……止まない雨はないんですよ。元気出しましょうよ」

「終わらない晴れもない」

「ナナメに構えてますねー」

 終わらないものはない。この会話もいつか終わる。いつか終わるのだから今終わっても結果は変わらないだろう。予定よりも早く終わってしまって不都合に成り得るのは、休み時間と人生だけだ。帰っていいか。

 くねくねと身体を斜めに構えた夏夜の動きが煩い。

 人間、臓器が老いると脂肪分の多い肉が喉を通らなくなると聞く。

 それに似た感覚があった。萎びた人間に、この喧しさは辛いものがある。

「……眼鏡」

「はい?」

「前会った時は眼鏡掛けてなかったはずだが。目、悪かったんだな」

「これは変装です!」

「は?」

 思いのほか良い食いつきに面食らい、つい聞き返す。浅瀬で狙わぬ大魚が釣れた。

「変装です!」

「はぁ」

 そんなデカくてハキハキした声が聞き取れなかったわけが無かろう。

「いつ親どもが来るかわかりませんからね。わたしなりの対策です。励一くんが使ってないのを借りました」

 親どもて。

 言って夏夜は、にやにやと周囲に目配せをする。僕も窓の外を眺めてみた。いい天気だ。お天道様の僕への当てつけだろう。

 しかし、長い付き合いがある訳でもない僕でも、一目見て夏夜だとわかったのだから、生まれてからずっと同じ時を過ごした親がわからないわけがない。親の愛を舐めるな。

 ひょっとして馬鹿なのだろうか。

 しかし、やはりそう長い付き合いがある訳でもないというのに、個人的な癇癪で他人を文字通り馬鹿にしたとて人間関係が円滑に進むとは思えない。このこどもの人と友好関係を築きたいという衝動は、僕の中には微塵たりとも存在しないが、現状を殺伐とした思考で無為に木阿弥の如く絡まらせることには意味が無い。

 曲がりくねった思考の道を行ったが、結果を申せばこの子を馬鹿と断ずるにはまだ早いと言うことだった。手遅れになる前に見定めねばとまじまじと夏夜を見つめてみる。美味そうにケーキを頬張って目を細めた後に「あげませんよ」と言われた。取らねえよ馬鹿。

 馬鹿が。

「おい」

「……なんです?」

 きちんと呑み込み終わってから返事をする。行儀が良いのだろう。

「君、ちょっとウキウキしてないか?」

 それは今日一日、ずっと気になっていたことだった。

 この店で不本意にもかち合って以来、彼女の声はずっと上ずっていたし、口角もふんわりと上がっていた。それが素ならばエネルギー効率の悪い疲れそうな生態だが

 降りしきる氷雨の中僕を諫めた彼女の声は、もっとずっと沈んでいたはずだ。

 それが僕に声を掛けるという罰ゲームの途中だったならば別途言って欲しい。

「そんなことないですよぉ、へっへ」

「そのにやけ面を治めてから嘘を吐け」

「まあまあ落ち着いて。うだうだ言っても良いことなんてありませんよ。もっと命の恩人には敬意を抱いていただかなくては」

「はい?」

 コーヒーを持つ手が中途半端な位置で停止した。まるで身に覚えが無い。

 僕の命の恩人は別にいるはずだが、敵意の間違いだろうか。

「あれぇ、忘れたんですか? あの日あの時あのまま外で寝てたら凍死にしろ餓死にしろ孤独死にしろ何かしらで死んでましたよ?」

 言われてから眉をひん曲げて脳の引き出しを荒らし、ぐちゃぐちゃに仕舞われた記憶を掻きわけ続けると、一つだけ思い当たるものがあった。

 おそらく、愛しい地面と破局したあの時のことだろう。

「それをほら、凍死しないように励一君に教えたり、餓死しないようにこうやって一緒にケーキを食べてあげて」

 言って見せつけるように大口を開けてタルトをまるかじりにする。目を細め、頬を押さえる様は大変に幸せそうだった。どう見ても付き合いで食べているようには見えない。勝手に食っているだけではないか。

「ほんでほどくひひないひょうにいっひょにいひぇあふぇふぇふんでふはは」

「食ってから喋れ行儀が悪い」

「……それで、孤独死しないように一緒にいてあげてるんですからもっと感謝してくださいよ感謝。ほらほらセイサンキューへいへい」

 台詞と厚かましさが増えていた。

 病室で会った時から思っていたが、妙に自信家で生意気で、どうにも彼女からは世間知らずな風を感じる。どうせ初めての親への反抗に浮足立っているだとか、そんなところだろう。

 中学二年生の反抗期と言えば妥当な時期にも思えるが、こうして目の当たりにすると想像以上に幼稚だった。

 親の庇護から離れようとして、自立の意志を求める時期と書けばそれは正しく、勇ましく見えるかもしれないが、要するにそれは、自分のことだけを考えていても親が面倒を見てくれる時期とも換言できた。

 呑み込む前に次の甘味を口に放り込み、もこもこと咀嚼し、やはり幸せそうな顔で笑う。にっこにこだ。まじまじと見ると華奢だった。視線に気づいた夏夜が首を捻る。

「なんスか?」

「いや、その細身の何処に食べたものが溜まっているのかと」

「糖分として頭に回ってます。だから頭いーんですねぇ」

 なるほど、まさか本気言っているわけでもあるまい。

 カップから立ち上がる白い湯気が、零れた息と混ざる。

 鎖も重しも、自分を縛り付けるその全てを──何も考えず。

 寂しさだって露ほども残さず平らげて。幸せそうに。楽しそうに。全くもって羨ましい。

 だが同時に、それを眩しいとも感じていた。

 微笑ましく、幸福そうな人間を見ることなど何時ぶりだろうか。

 人の笑っている顔が好きだったはずなのに。人の泣いている顔があまりにも嫌いで、

顔を、目を。真っ直ぐに見ることすら、彼方に置き忘れてきてしまった。

 向き合うなんて恐ろしいことは。

 大切に思っていれば、思っているほど、僕たちを遠ざけるのだろう。

 ──どうでもいいことから逃げるようにカップに手を添える。この場にそんな思考は相応しくない。

 水面に映る自分は黒かった。そして飲み干したカップには何も残らない。

 当たり前の事なのに少し怖くなって、細く息を吐く。

 何時から飲めるようになったんだったか、思い出すことは最早できないけれども、飲みたいと思った理由は簡単に思い出せた。

 きっと誰かのように、大人になりたかったのだろう。何者かに成り上がって、何時か何かができる人間になりたかった。何処までも曖昧だ。

 そして何処までも──ガキだ。





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