シジマノエ
ツムグ
第1話
シジマノエ
その言葉を最初に耳にしたのは、大学時代の恩師である佐伯幸三教授の葬儀の時だった。
葬儀会場の一角で、周囲のざわめきが次第に薄れる中、私はある会話の断片を捉えた。
「シジマノエが…教授もきっと…」
ふとした瞬間、その聞き慣れない言葉が私の心に引っかかった。普段なら流してしまうような会話だったが、その時だけはなぜか気になり、私はその場にいた女性に思わず声をかけてしまった。
「すみません、今の『シジマノエ』って…?」
黒目がちな女性が驚いたように顔を上げ、私を見つめた。彼女はおそらく教授の教え子の一人だろう。まだ学生のように見える。大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、少し戸惑った表情を浮かべていた。
「ああ、すみません。突然話しかけてしまって。私も10年前に教授にお世話になっていた早乙女といいます。」
「えっ…OGの方だったんですね。」女性は少し安心したような表情を見せた。
「ええ、教授の研究室でお世話になっていました。それで、その『シジマノエ』って何か特別なものなんですか?」
彼女は一瞬考えるように視線を外し、黒いバッグから小さなメモ帳を取り出した。
「えっと…」彼女は何かを書こうとしたが、筆記具が見当たらない様子だった。
「ごめんなさい、これしかないけど…」私は香典用の薄墨の筆ペンを手渡した。
「ありがとうございます。」彼女はゆっくりと筆を走らせ、「シジマノエ」と書きつけた。
その文字を見つめる私に、彼女は少し戸惑いながらも続けた。「正直に言うと、私も詳しくは知らないんです。ただ、教授が研究していたテーマに関連しているらしいって…他の学生から聞いただけなんです。もしかしたら、古い信仰とか…そういうものかもしれません。」
「古い信仰…」私はその言葉に反応した。教授が古代の民間信仰や土着信仰について研究していたことを思い出した。だが、教授が『シジマノエ』という言葉を口にしたことは一度もなかった。
「本当にすみません、これしか言えなくて…」彼女は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「いえ、十分です。『シジマノエ』という言葉、何か引っかかるんです。」
彼女は小さく頷き、会話はそこで途切れた。
その後、葬儀が進行する中でも、私はどうしてもその言葉が頭から離れなかった。
「シジマノエ」という不気味で謎めいた響き。それが何を意味するのか、この時はまだ全く分からなかったが、その言葉だけが私の記憶に深く刻まれ、まるで何か重要なものを象徴しているかのように感じた。
第一章 - シジマ
「早乙女先生、次のクライエントです。」
たぬき顔の看護師、佐山が静かに言葉をかける。忙しい診療室の中で、彼女はいつも穏やかな雰囲気を保っている。早乙女はペンを置き、デスクの前で姿勢を正した。
「ありがとうございます。お呼びしてくれますか?」
佐山は静かに頷き、待合室へと歩いていく。早乙女は深呼吸し、次の患者に備えた。患者ファイルには「東雲あかね」という名前が記載されており、簡単な紹介文が書かれていた。
症状:無音恐怖症
「無音恐怖症か…」と早乙女は心の中で繰り返した。音に対する過敏症や恐怖症は珍しくないが、無音恐怖症は特異だ。通常、音に対して過剰反応を示す人が多いが、逆に静寂に恐怖を感じるというのは興味深い。
しばらくして、佐山があかねを診察室へと導いた。あかねは、どこか無表情で、焦点の定まらない瞳をしていた。髪は肩にかかる長さで、制服姿のまま椅子に静かに座った。
「東雲あかねさんですね、よろしくお願いします。早乙女です。」早乙女は穏やかに言い、あかねに安心感を与えるように微笑みを浮かべた。
あかねはかすかに頭を下げたが、視線はどこか遠くを見ているようだった。
「今日はお話を伺ってもいいですか?」と早乙女が静かに促すと、あかねは小さく頷いた。
「……無音が怖いんです。」
それがあかねが最初に発した言葉だった。彼女の声はかすれ、震えていた。
「無音が怖い、と感じるのですね。どんなときにその恐怖が強くなりますか?」早乙女は優しく問いかけた。
「夜…家が静かになると、誰かが私を見ている気がして…音がないと、すごく怖くなるんです。まるで、何かが近づいてくるみたいで。」
あかねは手を震わせながら、視線を下に落とした。彼女の表情には、単なる不安を超えた、強烈な恐怖が浮かんでいた。
「何かが近づいてくる、と感じるんですね。それは、無音のときに特に感じるのですか?」早乙女はさらに掘り下げた。
「はい…静かになると、頭の中で誰かが囁くんです。『しじまの中にいる』って…」
その言葉を聞いた瞬間、早乙女の心に電流が走った。「しじま」という言葉。佐伯教授の葬儀で耳にした「シジマノエ」という言葉が、突然彼女の頭の中によみがえった。
「しじま…その言葉、どこで聞いたか覚えていますか?」
あかねは首を振った。「分かりません。ただ、夜になると聞こえてくるんです…その声が…」
治療方針についてあかねと相談し、軽い睡眠導入剤を処方した後、彼女は静かに診察室を後にした。彼女の後ろ姿がドアの向こうに消えるまで、早乙女は見送った。彼女の背中には、不安と悲しみが滲んでいるように見えた。
数人のクライエントとの面談を終え、閉院時間が近づく。日が沈み、クリニックは次第に静寂に包まれていく。
早乙女は書類を片付けながら、ふと背後で佐山がモップをかけている音に耳を澄ませた。静かな診療室に響くモップのかすかな音が、普段よりも大きく感じられる。
佐山がモップを止め、思い出したように口を開いた。
「さっきの女の子、無音恐怖症でしたっけ?」
「ああ、あかねちゃんね。」早乙女は書類を整理しながら返事をした。
「無音恐怖症って、初めて聞きましたよ。そんなのあるんですね。」
「まあ、聞き馴染みはないかもね。でもね、恐怖症って学術的には200種類以上もあるっていう説もあるんだよ。」
早乙女が微笑みながら答えると、佐山は驚いたのか、持っていたモップを床に落としてしまった。慌てて拾い上げ、彼女は照れくさそうに笑った。
「そ、そんなにあるんですね…でも、確かに静かな場所って独特の雰囲気がありますよね。あの、なんていうか…不安になる感じ。ちょっと怖いかもしれないです。」
「佐山ちゃん、無音室って知ってる?」
佐山はモップを止め、首をかしげた。「無音室…ですか?」
「そう、音を完全に遮断した部屋。世界一静かな部屋とも呼ばれていて、そこで過ごすと人は自分の心臓の音や血液の流れる音まで聞こえるんだって。静寂すぎると、不安や恐怖を引き起こすことがあるらしいの。」
佐山はその説明に驚き、目を丸くした。「そんな場所があるんですね…それはちょっと怖いかも。」
「そうでしょう?無音って、単に音がないだけじゃなくて、もっと深い何かが隠れている感じがするのよ。あかねちゃんも、無音が普通以上の恐怖を感じさせているのかもしれない。」
早乙女は、あかねの診察で感じた違和感を思い返していた。彼女の言葉には、単なる恐怖ではなく、得体の知れない存在を意識しているような節があった。そして「しじま」という言葉。佐伯教授の葬儀で耳にした「シジマノエ」が頭の片隅に引っかかっていた。
「それにしても、あかねちゃんが言ってた『しじまの中にいる』って…どういう意味なんでしょうね。」
佐山が何気なく言った言葉が、早乙女の心をさらにかき乱した。
「……『しじまの中にいる』」
その言葉の重みを感じながら、早乙女はクリニックの静寂に耳を傾けた。
早乙女は電車の揺れに身を任せ、瞼が重くなるのを感じていた。仕事の疲れが積もり、体の緊張が少しずつ解けていく感覚が心地よい。気づけば、視界が暗転し、静かな夢の中へと引き込まれていた。
どこか遠く、薄暗い森の中を歩いている。木々が生い茂り、足元の草が湿っているような感触が伝わってくる。いつのことだろう、なぜここにいるのだろうと考えるが、答えは出ない。森の中は静かすぎて、まるで音そのものが奪われたかのような異様な感覚が広がっていた。
誰かが何かを囁いている――しかし、その声はとても遠く、不明瞭で、何を言っているのか分からない。声は風に乗って流れ去ってしまうようだ。森の奥に進むにつれ、何かが後ろからついてきているような気配を感じたが、振り返っても誰もいない。ただ、静寂だけがまとわりついてくる。
ふと、目の前にぼんやりとした影が見えた。何かがこちらを見つめている気がする。だが、その輪郭ははっきりせず、霧のようにぼやけている。誰の記憶だろう?それとも、ただの幻想か。目を凝らして見つめようとするたびに、その影は遠ざかり、静寂だけが広がっていく。
その瞬間、足元の枯れ葉が音もなく崩れる。まるで大地そのものが自分を飲み込もうとしているかのような感覚――次第に視界がぼやけ、全てが静かに消えていく。
「……!」
早乙女は電車の振動に揺られながら目を覚ました。目の前には、いつもの通勤電車の景色が広がっている。車内には人々が座り、スマホを眺めたり、会話をしたりする音が淡々と流れていた。
夢の中で感じたあの静寂と異様な感覚が、まだ体にまとわりついている。いつから眠っていたのか分からないが、心臓が速く脈打っているのを感じた。夢の内容は曖昧で、何が起きていたのか、誰がそこにいたのかはっきりしない。だが、あの静寂の中に「何か」があったことだけは確かだった。
早乙女は小さくため息をつき、窓の外に目をやった。車窓の外には、夜の街が流れていく。どこか安心感を覚える喧騒に戻ってきたことを感じながらも、夢の中の静寂が妙に頭から離れなかった。
「なんだったんだろう…」
呟きながら、次の駅の到着を告げるアナウンスに耳を傾けた。
その夜、シャワーを浴びて疲れを流し、リビングへ戻ろうとしたとき、スマホが震えた。画面を見ると、母親からの電話だった。少し躊躇したものの、彼女はスマホを手に取り、耳に当てた。
「真莉ちゃん?もう、いつも電話に出ないんだから!」
開口一番、母親の甲高い声が響く。
「だから今出たじゃん」と早乙女は軽く笑いながら応じた。
「遅いわよ!何してたの?」
「仕事だよ、さっき帰ってきてお風呂入ってたところ。」
「まあ、お疲れ様。ちゃんと湯船にも入ったでしょうね?真莉ちゃん、いつもシャワーで済ませるじゃない。それじゃ疲れ、取れないわよ!」
「はいはい、ちゃんと入ってますよ。」もちろんそれは嘘だった。彼女はいつもシャワーだけで済ませていた。
さすが母親。すべて見透かされているかのような言い方に、苦笑いが浮かんだ。
「それで、要件は何?」
「あ、そうそう!今年のお盆は帰ってくるの?」
その言葉に一瞬間を置いた。実家にはもう何年も帰っていない。特に理由があるわけではない。ただ面倒だったのだ。確か、祖母の葬儀以来だろうか。
「おばあちゃんの葬儀以来でしょう?もう今年で5年よ。そろそろ一度、線香の一つでもあげにきなさいよ。」
「んー…」早乙女は気のない返事をしたが、その瞬間、突然頭の中にノイズ混じりの声がよぎった。
『シ……マ……』
夢で聞いたあの曖昧な囁き声だ。無意識に声が漏れた。
「……シジマ?」
「え?なに、真莉ちゃん?」母親が驚いたように聞き返した。
「あ、ごめん。なんでもない。」
早乙女は慌てて話を逸らした。夢の中で聞いたあの声、そして「シジマ」という言葉が、何かに繋がりそうな気がするが、どうにも思い出せない。
「とりあえず、お盆はクリニックもお休みでしょ?帰ってくること、考えておいてね。」
「うん、わかった。おやすみ、お母さん。」
電話を切ると、彼女はソファに腰を落とした。シャワーで温まった体が少し冷えていく感覚がした。
「そうだ…夢の中で確かに『シジマ』って聞こえた…でも、あれは何だったんだろう?どこかで聞いたことがあるはずなのに、思い出せない…」
彼女は頭を抱え、目を閉じた。祖母の家、あの静寂、そして「シジマ」という言葉が断片的に頭の中に浮かんだが、意味は掴めない。ただ一つだけ確かなのは、その言葉が何か重要なものを示しているということだった。
次第に、胸の奥に小さな不安が広がり始めた。
翌朝、早乙女は飛び起きた。スマホを見ると、すでに9時を過ぎている。毎朝7時にセットしているアラームが鳴らなかったことに気づき、驚いた。
「遅刻だ……あ、今日は火曜日か。」
火曜日はクリニックの休診日だった。ほっとしてソファに崩れ込んだものの、どこか不安が拭えなかった。今までアラームを聞き逃すことなど一度もなかったのに。
スマホをぼんやり眺めていると、ふと着信があったことに気づいた。
「え、着信?嘘でしょ、これも気づかなかった?」
着信相手は小峯橙子、大学時代からの親友だ。慌ててかけ直すと、橙子はすぐに電話に出た。
「あ、真莉?寝てた?」
橙子の明るい声が聞こえたが、なぜか少し遠く感じた。
「ううん、大丈夫。それよりごめん、全然気づかなくて。」
「真莉が電話にすぐ出ないなんて珍しいね。ちょっと心配しちゃったよ。」
「うん、スマホの調子が悪いのかも。音が鳴らなかった……かもしれない。」
「え、そうなの?買ったばっかりなのに?」
「そうなんだけど……。」
早乙女は曖昧に返事をしながら、心の奥で違和感を覚えていた。橙子の声が遠く感じたり、着信に気づかなかったのは、スマホの故障ではないように思えた。
橙子が咳払いし、明るい声で話を切り替える。
「実はね、ついに彼氏ができたの!」
橙子の声が急に大きく響き、電話越しに自分で拍手する音が聞こえた。
「ええ、すごいじゃない!おめでとう!相手は?」
「えっとねぇ…学校の先生でぇ……」
その瞬間、橙子の声が突然、エコーのように響き、まるで遠くから聞こえるように変わった。声が反響している。何かが音を歪めているようだった。
「え?」
「どうしたの、真莉?」
次の瞬間、橙子の声は再びクリアに戻った。早乙女はスマホの不調かと思ったが、それにしても奇妙すぎる。
「ねえ橙子、私今日休みだから、お茶でもしない?」
気を取り直して提案するが、一瞬のエコーのような感覚は消えず、心の中で不安が広がり続けた。
吉祥寺に美味しいコーヒーが飲めるカフェがあると、以前雑誌で見かけた。ちょうどいい機会だと思い、橙子を誘った。待ち合わせ時間は13時。だが、思っていたより30分も早く着いてしまった。
手持ち無沙汰な気持ちでスマホを取り出し、ふと思い立って「しじま」と検索する。結果にはこう書かれていた。
・静まりかえって、物音一つしないこと。静寂。
・口を閉じて黙りこくっていること。無言。
「静寂、無言…?」
難しい顔で検索結果を再び眺める。夢で聞いた、あの曖昧な囁きが何かを暗示しているかのようだった。
「静寂、しじま。シジマノエ、シジマノ。しじまの中にいる……」
彼女は額に手を当て、頭の中でつながりを見つけようとしたが、その意味はつかめなかった。苛立ちを感じ始めたその時、突然肩に手を置かれ、早乙女は短い悲鳴を上げた。
「ま、真莉?ごめん、そんなに驚くとは思わなかった!」
後ろにいたのは、橙子だった。早乙女より驚いた様子で、困ったような笑みを浮かべている。
「駅を出たらすぐ見つけたから、ずっと呼んでたのに、真莉ったら全然気づいてくれなくて!」
橙子は肩を叩く前から呼び続けていたらしい。早乙女は照れ笑いを浮かべ、橙子に謝った。思考に没頭し、声に気づかなかったのだろう。
二人はカフェへ向かって歩き始めた。交差点で信号が青に変わるのを待つ間、橙子がふと尋ねた。
「私、結構声が大きい方だと思うんだけど、それでも気づかないでスマホで何見てたの?」
確かに、橙子は小柄で童顔だが、声だけは大きく、それがコンプレックスだった。早乙女はそのギャップが橙子の魅力だと思っていた。
「えっと、橙子。シジマノエとか、シジマって言葉に聞き覚えない?」
「シジマ?」
「たぶん、静寂って書いてシジマって読むんだと思うんだけど……」
信号が青に変わり、橙子が数歩先を歩き出した瞬間だった。「あ!」と声を上げ、振り返りながら早乙女に何かを言おうとした。
「シジマって昔、真莉が……」
橙子が視界から弾けるように消えた。
鈍い音が響き、世界がスローモーションになった。背後で叫び声が上がり、歩行者たちは青ざめた表情で立ちすくむ。だが、その声は遠く、まるで別の世界から聞こえるかのようだった。
横断歩道の中央には、白い軽トラックが停止していた。その下には、トラックのタイヤに巻き込まれた橙子の華奢な身体がぐちゃぐちゃに捻じれていた。
血まみれになった手足が不自然な角度で曲がり、頭部はトラックの下敷きになって顔は潰れ、形が分からなかった。鮮血がアスファルトに染み渡り、まるで人形のように無残に壊れた橙子の姿がそこにあった。
意識が状況を理解する前に、早乙女の視界は暗転し、全てが闇に包まれた。
シジマノエ ツムグ @kamisakana1
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