下町

 ユーリス山脈を背にし、雄大な大河が街を割るように流れていた。扇状地帯に作られた大規模な都市の中心にはこの世界最古と言っていい『大神殿』が存在している。運命の女神『デアリス』を祭るその大神殿は街のどこからでも見えるように小高い丘の上に立っている。まるで見守るかのように――。



 石畳の街を青年――いや少年だろうか。その容貌は幼さを微かに残している。煤と埃で薄汚れたシャツ。目深に被った鼠色の帽子からは黒い髪が漏れ出ている。灰色の双眸は日に当たるとキラキラと銀色にも輝いているように見えた。


 粗末な革靴は年季が行き過ぎているために底がパカパカと遊んでいたがそれを気にすることはない。彼は街の隅に展開している屋台に向かうとパッと顔を上げた。


「おばちゃん、いつものやつ二つ!!」


 些か子供っぽいことは気にする様子はない。彼はじゃらりとポケットから小銭をカウンターに置いた。それを屋台の女将は嬉しそうに目を細くする。恰幅の良い中年の女性であった。


「おや、アドラーじゃないか。久しぶりだねぇ。おばちゃん寂しくて泣いちゃいそうだったよ」


 口は動かせどテキパキと注文の品を女将は作っていく。それを見ながらアドラーはへへへと些か照れた様に笑う。


「ん、おばちゃんに会いにオレももっと早く来たかったんだけど、仕事が忙しくてさ」


「仕事ねぇ――神官だったかい?」


 言いながら女将はここからでも見える大神殿に目を向けた。ここから大神殿は遠い。であるのにあれほど大きく、美しく見えるのは実際そうであるからだと知っている。とても美しいこの街の、この国の自慢であった。


 その大神殿に務めるのはこの街の人間にとってそう珍しく無い事である。人口の半数以上は関わっているだろうか。ただそれほど神官は多くは無い。その多くはない神官の一人が薄汚れた少年(アドラー)だと女将が聞かされた時は摘ままれているのだろうかと思ったほどだ。


 まぁ今でも怪しいと持っているのは内緒だが。ともかくとして注文の品を軽く薄い紙に巻いてアドラーに差し出していた。それを一つ手に取って、もう一つは下げていた汚らしい鞄に入れようとしている。それを慌てて止めてから厳重に紙に巻いて入れてもらった。本人はなぜなのかよく分かっていないようである。


「ありがとう? あ、そうそう。知っての通り神官は毎年その数を減らしているうえに海外にも派遣してるだろ? 足らなくて。オレまで酷使されてるってわけ」


「ああ。確かに、海外は戦争が多いからねぇ。何ともきな臭い世の中だよ」


「だろ?」


 言いながら肉汁がジワリと出るパンを美味しそうに頬張っている姿はどう見ても神官には見えなかった。清貧を良しとする神官は買い食いなどしないし、殺生は悪としている。つまり肉はたべないのだ。そのため女将に言わせると『もやしの様な体格ばかり』で女将でも余裕で勝てそうと思っている。それは成長途中であるアドラーにも言えることであった。


「で? 今日はどこに行ってたんだい? リャヒの所か……ユウラの所か……」


 ぱくっと再びパンを頬張ってから飲み込んでからアドラーは肩を落とす。


「ゼラフのおっちゃんの所だよ。でも居眠りしちゃって追い出された」


 そんなつもりは無かったのだろう。心底反省しているようだ。ぽつりと呟いた声に哀愁が混じっていた。


「そりゃあご愁傷様だ。ゼラフは難しいからねぇ――暫く根にもたれるのを覚悟しておいた方がいい」


「追い出すときに蹴られた上、剣を投げつけるんだぜ……死ぬかと」


「ん、鍛冶屋だしそんなものだけは沢山あるから仕方ないねぇ。寝ているアドラーが悪いね。まぁ、これを機会に鍛冶屋に入り浸るのはやめた方が良いとおばちゃんは思うけど? どんなに頑張っても鍛冶屋になれないんだからさ」


 神官であるのになぜか『鍛冶屋志望』の変わった人間である。それは良いのであるが、神官は通常辞めることは出来ないものだ。その死亡以外は管理される。例えば罪を犯せば神官専用の牢獄があるくらいには――。尤も神官を辞めて何かになりたいなどアドラー以外に聞いたこともない。


 諫めたつもりはなく、提案であった。言葉自体はきついが別にそれで諦めるとは思っていない。大体はこのくらいのきつさはこの辺りの特徴でもあった。


 アドラーは少しだけ口元をへの字に曲げてから口を開いていた。もちろん傷を付くとかそんな繊細な心は持ち合わせていない。


「良いんだよ。だって、夢見るのは自由だろ? オレは剣が好きなんだ。振るうのは好きじゃないけど」


 そうは言っても剣を振るえなければ善し悪しが分からないので振るう事が出来ないわけではないというのを女将は知っている。


 はは。と女将は笑った。

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