プロローグ ある生と死2

 女神像が見下ろしている先には炎が揺れていた。幾人が女神に乞うように倒れ絶命している。それを女神像が哀れに思うことはもちろんないだろう。


 その足元に寄りかがりながら青年は軽く息を付いていた。白い衣服――神官服の脇からはジワリと赤い血が滲んでいるのが分かる。それは留まることを知らず身体全体を濡らしていくのが分かった。


「うーん。死ぬかなぁ。これ」


 (出来ればオレが皆を見送りたかったけれど無理そうだな)


 この国に所属する神官はすべからく治癒術と言う特殊な力を使う。神に彼らが持つ『祈り』を捧げる代わりに人を治癒する力を貰うのである。その術があれば助かるかも知れないが、生憎彼は神官の端くれであったがその力を持っては居なかった。周りの神官たちはもはや事切れていて彼を助ける者は誰もいない。


 ……尤も元々そんな事に期待もしていないが。


「にしても、ってえな」


 なんでこんな事になったか考えたが、そんな反芻もはや意味がない。反省も後悔も活かすことは出来ないのだから。それは生きていく者の役目なのだろう。


 痛みを軽く吐き出した後、彼は持っていた錫杖をかんと小さく鳴らして地面に立てた。切っ先につけた小さなベルが軽く鳴る。それは炎が増したこの場に不釣り合いな程の軽さと清廉さをもつように思えた。


 その同時だったか一陣の澄んだ風。それは炎をすり抜けて彼の頬を軽く掠めていく。冷たい、何処か澄んだ水の様な感覚であった。


 閉じていた瞼を上げれば、その銀色の双眸が捉えたのは淡い人の姿。それは人の形を保っていたが、人でないのは確実で蜃気楼の様な、そこにいる様でいない。触れられるようで触れることなとどできない。その子細もどこかぼやけて見えた。


 彼は薄い唇を歪め、ヘラリと笑って見せた。相手の表情は誰が見ても霞んで見えない。


「んやぁ、久しぶり。何年振りだっけ?」


『二十年ほどだ――主よ。終わりか?』


 この世界に似合わず涼やかで低い声であった。男性のようであり女性のようである。その視線は彼の着ずに落とされるているように見えたが『それ』が何かをすることは無かった。


「ああ。そのようだ。オレはここで終るだろうね。まったく、残念だよ」


 茶化すように笑ってはいるが、微かに後悔が滲むのは気のせいではないだろう。しかしながらそれを声に出すことはしなかった。


 周りはこれほど熱いのに次第に血を失って冷たくなる手。それを確認する様に動かしてから再び『それ』を見る。


「それでさ。『約束』を覚えているか?」


『あぁ。忘れることは無かろうよ。主の願いを一度だけ叶えるというものだ。……命尽きるときに』


 思い出した様に『今か』とぽつりと付け加えた。端的に『それ』は人間ではななかった。故に命と言うものがよく分からないのだ。


「そうだな」


『我に出来ることなら叶えよう。我が主よ』


「では」


 ふぅと彼は息を付いて天井を見上げる。美しい絵画が描かれている天井は罅が入っているように見えた。そのうち崩れ落ちるだろう。


「オレが保護した姉弟の願いを叶えてくれ。アイツらが幸せに暮らせるように手伝ってやってくれ――それが願いだ」


 ずっと昔。拾った姉弟は今頃どうしているだろうと彼は想いを馳せる。子供の頃から決定づけられた世界の中で自分自身として救ったものの一つ。


 鮮やかな緑の双眸が記憶の中で蘇る。それは彼に取って幸せな記憶の一つであった。


『……なぜ?』


 理解できない。そう言うような言葉にふと彼は口を歪める。


「野暮だな。そんな事は聞くものではないぜ? いいから。今までオレの人生を文句も言わずに掛けたんだ。命さえも――だから、頼む」


『……』


 真っ直ぐな銀色の視線。その向こうで炎が爆ぜる。熱気だけが増していく世界に動くものはいない。彼らを覗いては。


 かたんと小さな音を立てて錫杖がてもとから滑り落ちた。それを拾う気力も力ももう残ってはいない。もはや見つめているだけで命が、すべてが削られていくように思えた。


 それでも。


 『それ』は彼の前に静かに佇んでいる。乞うようにもう一度だけ彼は力の限り声を紡いだ。


「頼むよ」


 同時に劈く様な轟音と共に倒れたのは近くの柱でその柱と共に壁が崩れていく。まるで責を切ったかのように。もはやこの場所すべてが崩れるのは時間の問題であった。


 一拍おいて静かに声が響く。


『了解した……我が主の願いだ叶えよう』


 少しだけ躊躇した言葉のように聞こえたが、それだけで充分であった。彼はホッとしたように笑うと「ありがとう」と小さく呟いて目を閉じる。すべての力が抜けていく、耳に届くのは炎の爆ぜる音と、ガラガラとなにかが崩れていく音だけだ。


 それもいつか静寂に変わっていたが。


『我が主――聖王よ。今までご苦労であった。汝の献身に礼を述べよう』


 その労わる様な声が届く事は彼に届く事は永遠にない。ただ一度だけ細く小さく鐘が鳴っただけであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る