第7話 限りないすれ違い
永遠に続くかのような静寂――打ち破ってくれたのは、第三者だった。
ラファイエット侯爵の後ろ、壁際に、ずっと無言で控えていた男性である。側近、執事のような者だろうか。静かに歩み寄ってきて、控えめな位置で一礼した。
「恐れ入ります。フィンドル様、こちらをどうぞ」
彼が差し出したのは一枚の書状。フィンドル伯爵とベルメールお嬢様が目を見開いて熟読する。内容が気になったが、盗み見るまでもなく執事さんが話してくれた。
「ラファイエット侯爵とご令嬢との婚約を破談とする証文です。慰謝料につきましては、失礼ながらひとまずこちらで提示させていただきましたので、ご査収いただき……」
「マ、ままま、待ってくれ!」
今更慌てて叫んだのは伯爵である。お嬢様はポカンと口を開けたままだ。
「どどどどどどどういうことです!? まさかベルの男遊びの噂を聞いて!?」
「噂?」
「あああああなんでもないです忘れてください!」
ラファイエット侯爵は、困ったように眉を垂れさせた。呆然としているベルお嬢様を一瞥し、小さく嘆息する。
「……ご令嬢の噂については、全く知らないわけではない。だが今回の婚約破棄はそれとは関係ない。いや、それこそ俺はあなたを責められない」
「ど、どういうことでしょうか?」
やっと口が利けるようになったお嬢様が問い返す。侯爵は目を伏せた。
「ほかに好きな女性ができた」
――がちゃんっ。私は紅茶を盛大にひっくり返した。一瞬、気が遠くなってしまったらしい。ひどく大きな音が鳴ったはずだけど、誰も気にもしなかった。
「だから、この慰謝料だ。俺の一方的な不義理で破棄するのだから、詫びるしかない。申し訳ない」
「……あ――」
なにか言いかけたお嬢様を、伯爵が無理やり顎を掴んで黙らせる。破談の証文を裏返し、手の平を置いて封じる。応じかねる、という意思表示だった。
「好きな女、ですか。それはどこの姫君で?」
「名前は分からない。家もどこにあるのだか」
「平民の娘ということですか。それではその、身分があまりにも釣り合わないのでは」
「いや……あの夜会にいたということは、どこか由緒正しい貴族の令嬢のはずなのだが……何せ手がかりらしいものがこんなものしかなくて」
そう言って彼は、懐からハンカチーフを取り出した。折りたたまれたそれを、慎重な手つきでそうっと開く。中にはひん曲がった金属片と、硝子のかけらが入っていた。
そ、それは……。
「これは、俺が原因で砕いてしまった、彼女のアクセサリーだ。地面に落ちていたのを、明るくなってから拾い集めた」
「こ、こんな屑硝子で、人を探し出そうと……」
「お待ちくださいティモシー様! それじゃあわたくしと別れてすぐに、彼女と結婚なさるわけではないのですね?」
お嬢様が叫んだ。ツッコミどころが多々ある発言だが、執事さんは何も言わず、伯爵は頭を抱えている。侯爵は静かにうなずいた。
「ああ。まず見つけ出すのに何年かかるかわからない。それにもし再会できても、彼女が応えてくれるかどうか」
「ではその彼女が見つかるまで、わたくしを恋人にするというのはどうでしょう?」
「――うん?」
侯爵と、後ろの執事さんが素っ頓狂な声を漏らす。私は慌てて、お嬢様に駆け寄った。
「べ、ベルお嬢様っ」
「ああもちろんわたくしと結婚し、そのあとで彼女を愛妾にしてもよろしくてよ。それだったら誰も損をしませんわ。お父様はあなたの義父という地位と資産を手に入れる、わたくしは素敵な恋人を手に入れて、あなたは二輪の華を両手に持って」
「お嬢様!」
「ご安心ください、わたくし夫の女遊びを許さぬほど狭量ではございませんの。そうですね――週に五度、わたくしの部屋に来てくださるならば、残りは愛妾とお過ごしになっても」
「ていやあっ!」
私はお嬢様の脳天に薪割り――もといチョップをたたき込んだ。お嬢様は「あいたぁっ!?」と頭を抱え、その声で伯爵が我に返る。
娘をドツいた侍女(わたし)に、「ありがとう!!」と礼を言って、再び侯爵へと向き直った。
「娘の発言は忘れてください、婚約破棄のショックで心ここにあらずのようですから。えー、事情は了解いたしました。侯爵様は今、娘以外の女性に心を奪われてしまっているのですね」
「……うん」
侯爵は俯き、頬を染めた。
「奪われたというか……どちらかというと、入ってこられたという感じだ。……今までなかった、なくて当たり前だったところに、ポッとこう……明かりが宿ったような……」
「あ、いえそういうことが聞きたいわけではなく」
でしょうね。
「突っ込んだことをお尋ねいたしますが、彼女とは男女として、その、どの程度の仲で?」
「男女の仲? ……そうだな……深い仲、というか」
なにがだ。手も繋いでないわ。
「俺の中の、深いところに……」
「……? つまりは、いわゆる体の関係が」
「そう、彼女とは激しく体をぶつけあった」
ああ、そういえば出会いは衝突から始まりましたね。飛び出して来たあなたとぼんやり歩いてたわたしとで盛大に。痛かったです。
「なるほど。それで名を聞かずに別れたとなると、一夜のゆきずりということですか」
「そうだな」
なんか違う。たぶんきっと絶対に、お互いに認識がズレてる。
その誤解の上で伯爵は、目をぎらりと光らせた。侯爵の朴訥とした人柄を見抜き(たぶんその想定より真実はもっとずっとアレな人だが)あえて強気でいくことにしたらしい。前のめりになって、証文を手の平でバンと叩いた。
「ならば、ベルメールの妄言も一理はあります。上級貴族が、男女色恋の惚れた腫れたで結婚相手を選ぶのはレアケース。ほかに想うひとが現れても、婚姻は事前の婚約証が優先される。一方的な破棄は、たとえ上位の爵位でも簡単ではございません」
「……ああ。だからこうして慰謝料を提示している。足りなければそこのロイと相談して上乗せを」
「必要ありませんよ。この時点で相場の三倍です」
執事さんはきっぱりとそう言った。
「もとより、ベルメールお嬢様が相手では破格すぎるところ。むしろ一方的に破棄したうえでこちらから慰謝料請求が出来るほどに」
「そ、それはどういう意味ですかなっ」
「言葉通りの意味でございます。おやお父様はご存じない? でしたら詳しくお話いたしましょうか。こちらとしてもあまり、ラファイエット様の御耳を汚したくはないのですがね」
「ぐ、ぐぬぬっ……」
おお、伯爵に押し勝ってる。
執事さんは二十代半ばくらい、細長くいかにも文官といった体型で物腰柔らかな感じだけど、もしかしたら性格はキツイのかもしれない。いや、侯爵がああいうひとだから、秘書はこのくらいキツくないと執務が回らないだろうな。
本当に詳しく話すつもりだろうか、なにやら分厚い書類を持ち出した秘書さん。
「やめろ、ロイ」
と止めたのは、侯爵だった。
ベルメール嬢と、伯爵にもう一度しっかりと頭を下げる。そして低い声で言い切った。
「顔も分からない女に恋焦がれたといって信じていただけないのは仕方ない。だが真実、俺の中に彼女の存在が燻っている。こんな状態で他の女性を娶るなど……そんな不誠実なこと。俺には出来ない」
彼の瞳に強い光が灯っていた。そうすると、彼への印象が一変した。顔立ちの美しさや穏やかな性格への好印象は吹き飛んで、ぞくりとするほど威圧されたのだ。
そして思い出す。そうだ、このひとは軍人。人並み外れてぼんやりした性格だけど、その手で何人もの人間を斬って来た戦士なのだと――。
突然、お嬢様が立ち上がった。扇子で口元を隠してはいるが、目元はぴくぴくと痙攣している。いけない、これは激怒して暴言を吐き散らかす前兆――かくなる上は、今度こそ完全沈黙させるしか!
私がそう決意し再び薪割りダイナミックチョップを叩き込むための『氣』を溜め終える直前、お嬢様は立ち上がり、高笑いした。
「ほーっほほほほほほ! それならなんにも問題ありませんわティモシー様!」
「ベルメール嬢?」
きょとんとするラファイエット侯爵に、お嬢様はとびっきりの笑顔――とびっきり邪悪な笑顔を向けて、言い放つ。
「わたくしたち、やはり運命の赤い糸でつながってましたのね。あなたが恋焦がれた女性、その正体こそがこのわたくし、ベルメールですもの!」
「――……え?」
「………………え?」
先ほどとは真逆に、今度はラファイエット陣営が目を点にする。
私は、声を出せなかった。ただ胸中で絶叫する――。
ええええええええええ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます