6 不思議な魔女・②

「この世界において、名前は重要な意味を持つの。相手の本当の名前を知っていれば、相手の意思を奪うことだって出来るし、その人生だって奪える……魔術師としてのレヴェルにもよるんだけどね」

 私は言った。その時にはもう、私の中ではこの大きな魔女に対して、微塵も警戒心を持ってはいなかった。

「私の名前はリリィ。師匠がつけてくれたんです。……本当は別に名前があったらしいんですけど、忘れてしまって……」

 魔女のテレサはにっこりと微笑んで言った。

「氷の監獄島に囚われていたんじゃ無理はないわ。私だって忘れたと思うもの」

「ヒエルキナ監獄をご存知なんですか?」

 魔女は笑顔で「もちろん」と言った。

「ヒエルキナ監獄はヒエルキナ大陸の東、内海とスリム海の『ちから』を強く受ける街。住民達は皆死神達の奴隷で、一つの街がまさに魂の草刈り場とでも言うべき場所になっているわね。何でも、あそこで作られて使われる物は全て、生者の生きようとする意欲を削ぐような力を持っているらしいわ。言わずもがな、氷の監獄島に使われている素材なんかも、そう。……あなたみたいに、自力で感情を取り戻すような子は、本当に珍しいのよ?」

 魔女が手を伸ばしてきて、私の頭を触った。大きくて柔らかな、そして師匠とはまた違う温もりに感じられた。

 時間が少しずつ溶け出して、辺りに流れ出ていっているみたいだった。このテレサという魔女と話をしていると、色々な事がどうでも良くなっていくような、奇妙な安心感を覚えるのだった。テレサはとても話をするのが上手で、こちらがして欲しいタイミングで相槌を打ってくれて、私はすぐに調子に乗って、言わなくてもいいような事を気づけば話してしまうのだった。

 私の口は止まろうとはせず、師匠の事について詳しく聞きたいと思い、喋り続けた。

「師匠とはどういうご関係なんですか? 師匠って、ここにいる前はどこにいたんですか?」

 テレサは優雅な動作でお茶を飲みながら、例の謎めいた美しい微笑を口元に浮かべながら言った。

「あいつとは古い仲でね。でも、今はこの話はやめておきましょう。誰が聞き耳を立てているかも分からないから……」

 私は驚いて言った。

「ここには私と師匠以外にはいませんよ?」

 魔女は謎めいた微笑を見せながら言った。

「リリィ、お嬢さん。この世界にはね、あなたの知らない物が沢山あるのよ。誰かにとっては良い、誰かにとってはすごく悪い、そんな情け容赦のない色々な物事がね……あなたにもいずれ、分かる時がくるわ。そう、それはそんなに遠い話じゃない。だから……今は、我慢。あいつの話は、あいつが話したい時まで待ってあげて? きっと自分から話し始めるから。あいつはそういう奴なのよ。こっちが欲しい欲しいと求めたとしても、あいつが良いと判断した時にしか、話そうとはしないの。これまでもそうだったし、多分、これからもそうなのよ……」

 私の眼には、テレサの横顔はとても寂しそうに映った。彼女も師匠の事を求めた時期があったという事なのだろうか? その時の師匠は、一体どういう対応を取ったのだろうか。この、今目の前に座っている一人の魔女が、寂しくてたまらない表情を浮かべるぐらいには、辛辣な態度をとっていたのだろうか? いずれにしても、私には分からない事だ。分かろうと思う事自体が許されていない気がした。

 私とテレサはそれ以降、言葉少なになった。二人で黙り込みながら、お茶を啜り、ただ燃え続けている暖炉の炎を見つめた。何も言わない時間が続いた。暖炉の炎が燃え続け、やがて窓から差し込んでくる陽の光が弱くなり始めている気配を私は感じ取った。

 そんな時、唐突に師匠が帰ってきた。

 私とテレサは殆ど同時に振り返り、唖然としている師匠の顔を見た。左手に下げた買い物袋はパンパンに膨れ上がり、右手には大きな木の棒のような物を持っている。

「おかえり、シス」魔女がそう言った。

 師匠が家に上がる前に、靴を泥落としで落としてから、漸く入ってきて、その眼を疑わしげに見開きながら魔女の方を見ていた。

 テーブルに買い物袋を下ろしてから、師匠は言った。少し荒い口調だった。

「テレサ。来るならそうと知らせてくれれば良かったのに。驚くじゃないか」

「『秘密の手鳩』を飛ばしたのよ? でも、あの子が道に迷っていたなら、それは私のせいではないわね。結界が強すぎるんじゃないかしら? ほら、魔術書だってちょっと焦げてる」

「それは元々だろう。お前、鳩を飛ばしたって言ったけど、学院からどれくらい距離があると思ってるんだ。そんなに簡単に着く訳がないだろう。普通に郵便屋に手紙を任せたら良かったんだ。魔術じゃなしに」

「それで無事に届くと思う? あなたが姿をくらませたのは、私たちの眼からも届かないようにする為じゃなくって? 私があなたの居場所が分かったのは、あなたが一方的な手紙を匂いをつけて送ってきたからよ。それが分かるのが誰だか分かっていて、学院に送りつけてきたんだわ。そうでしょう」

「それは……」

 師匠が珍しくたじろぎ、言い淀んでいる。そんな彼の姿を見るのは私にとっては初めての事だった。師匠は大抵の事には冷静沈着で、動揺するのを見るのは大嫌いな野菜を前にした時ぐらいのものだ。

 それなのに今は、何十年来の天敵を前にしたというぐらいには動揺している。視線は落ち着かずにどこかへと揺れ、彷徨い、落ち着き所を探していた。やがてその泳いでいる視線は何故か私へと止まり、私に助けを請うかのように言うのだった。

「……そうだ。お前に贈り物があるんだ。折角感情記念日を迎えたのに、何もないのはやっぱり良くないと思ったんだ。どうだろう、俺は気が利く男だとは思わないか。なあ、テレサ?」

 テレサは腕を組んで呆れたような口調で言い返した。「私に聞かないでくれるかしら」

 師匠は再び私に目線を移し、哀願するような瞳を向けてきた。その瞳は相変わらず澄んだ藍色をしていて美しかったけれど、今はそれ程私の眼には魅力的には映らなかった。

 私は言った。

「……師匠、多分、テレサさんには色々と言わなくちゃいけないことがあるんじゃないですか? 師匠が帰ってくるまでの間、私、彼女と色んな話をさせてもらったんです。興味深い話が、幾つもありました。……でも、いざ師匠の話となると、彼女、とても辛そうにしていて。師匠、一体、彼女に何をしたんです? こんなに素敵な女性が、あんな表情を浮かべさせられるだなんて。私、ちょっと納得がいかないのですが」

 師匠の美しい藍色の瞳が、鈍く光り、それから間を置いてから、彼は俯いて言った。

「……それはお前には関係のない話だ」

 私は同じく腕を組みながら俯いている魔女のテレサの方を見やり、それから言った。普段の意趣返しも少しばかり込めながら。

「いや、そりゃあ私には関係がないでしょう。いつもそうですよね。師匠は私にはご自分の話はしてくれない。私には色々と問いただす癖に……」

「それは教育や訓練も兼ねているんだ。分かってくれとは言わない。ただ、俺はこれからはやり方を変えていこうとは思っているんだ。実際、皮肉は言わなくなっただろう? 悪口だって言わなくなった。もう悪戯にお前の感情を刺激する必要がなくなったと判断したからだ。それは前にももう話した事だろう? ああ、もう……本当に、何故今になって

突然来たんだ。テレサ」

 その言葉で、今度はテレサが声を張り上げる番だった。師匠は彼女が口を開き始める前から、しまったという表情を浮かべていたが、もう遅かった。彼女は話し始めていた。

「何故今になって突然、ですって? あなたが学院や協会に何も言わずに姿をくらませたものだから、皆血眼になって世界中を探し回ったのよ? それこそ協議会のメンバーだって、『地脈』を操る子が一人監獄から脱け出したと知ってから、あなたの仕業だと思って探し回ったわ。あの時だけは世界中の協会に所属する魔術師達が結託したわね。あなたという一匹狼を捕まえるために、たったそれだけの為にどれだけの犠牲が払われたか。あなたはいいでしょうよ。誰にも見つけられない奥地を開拓して、保護した少女を弟子にして毎日悠々自適に暮らしてた、とそういう事でしょう? 私達がどれだけ大変な思いをして、闇の連中を追っ払いながらあなたの事を探したと思ってるの?

 ……あなたはリリィちゃんを救い、更には一人で感情を取り戻させる事にも成功した。正直に言って、表彰程度じゃ済まされない程の偉業だわ。でもね、あなたは組織に所属しているのよ。それに自分の立場が分かってるの? 既に脱退しているとはいえ、元協議会の一員が勝手に雲隠れだなんて……」

「それは代わりにお前が入って決着がついた話じゃないか。お前だって協議会には入りたがっていたのだし。俺はてっきりお前が入りたがっていたから、俺が抜け出して喜んでいたとばかり思っていたんだけどな」

「喜んでなんていられると思って? あなたの代わりに入ったとは言っても、役職も役割も全く違うわ。私はあなたとは違って末席。あなたと違ってただの席の埋め合わせなのよ。タイミングの問題だったのよ。もしも他によりふさわしい誰かがいたら、入っていたのは私じゃなかった筈よ」

 師匠は肩をすくめながら言う。「それも含めて実力と言うんじゃないのかね」

「それでも私は……納得がいかなかった。何も言わずにどこかへ消えてしまって、まるで尻拭いをさせられているような気分だったわ。あなたはこんな田舎町の山奥に別荘を建てて、悠々自適に楽しく暮らしていたんでしょうけどね」

「それは違う。それなりに大変だったのは確かだ。ことリリィに関して言えば、殆ど賭けだった……とりあえず、立ち話はもうやめにしないか。ココアが飲みたいし、山道を散々歩いてきて足も痛むんだ」

 師匠が悪びれた様子も見せずにそう言うので、テレサはふん、と首を振って向こうを向いてしまった。

 私は二人に対して少し悪いような気持ちを抱いていた。二人が話をするように仕向けたのは私だし、ただ、私は二人に喧嘩をして欲しかった訳ではないのだ。ただ少しだけでもいいから、胸を開いた正直な話をして欲しかっただけなのだ。

 二人は私を挟んで、お互いに顔を合わせようともしない。仕方なく私は間に入る事に決めて、両手を打ち鳴らし、二人に向かって言った。

「じゃあ、続きはとりあえず、甘いものでも飲みながらにしましょうか」

 二人は何も言わなかったが、頷くことだけはして、めいめい別の方角を向いて別のことをしていた。師匠は手持ち無沙汰に指を折り曲げて爪を引っかけたりして、テレサの方は壁に掛かった師匠の下手くそな絵を怪訝な目で眺めたりしていた。

 私は今のうちにと、その間に湯を沸かして、ココアを淹れる準備をした。茶菓子が少しだけ残っていた筈と思い、引き出しを漁り、ささやかながらそれも用意した。

 やがて湯が沸き、私は湯気の立つ三人分のマグカップをテーブルに置いて、二人を呼んだ。


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