5 不思議な魔女・①
傍から蜘蛛の糸が垂れて、私はその先に大きな黄色と茶褐色の筋が入った女郎蜘蛛を見た。パッと見た時、それは不吉の象徴のように見えた。これから産卵を控えているのか、その腹は大きく膨れ上がり、破裂せんばかりだった。顔はにやけているような笑顔を小さな顔に張り付かせていて、私は一瞬背筋に寒いものを感じ取ったが、やがて無視してすぐに忘れ去った。その時の私は不思議と調子が良く、この世の全ての事象が許せる気がしていたのだった。
あの日以来、師匠は私に優しくなった……と、思う。
私が大癇癪を起こしたあの日、いや、感情の奔流を物にぶち当て尽くした日、と言った方が正確だろうか。師匠は私に対する態度を更に変化させた。以前はもっと、もっと頻繁に皮肉の言葉を口にしていた。私が何かヘマをやらかした時には、私の神経に触るような事を必ず一言か二言か口にした物だった。
それが今では、何も言わないどころか、褒めることさえする。
あの日、私が感情記念日を忘れて、思い出したことで、師匠は初めて、私に対する胸の内を明かしてくれた。それは本当に嬉しいことだった。私が師匠にとって本当に価値のある存在なのだと、世界が証明してくれたような気がしたからだった。
私は不思議とニヤけてくる口角を意識しながら、井戸に桶を放り込んで、桶が垂れた先にある暗闇を見た。暗闇はじっとして、あの日以来『闇の虫』も出て来ていない。
なんだかつまらないな。と、そんな調子のいいことまで心の中で呟けるぐらいには、私は本当に調子が良かった。
今日は師匠は街にお使いに出ている。時々、用事があるとかで留守にするのだが、その頻度は最近更に増している気がする。私が付いていこうとしても、つまらない用事だからとか何とか言って、結局連れて行ってはくれない。もう諦めてはいるのだが。
桶を上げて、振り返った時、私は体を硬直させた。
大きな女がそこには立っていた。
真っ黒な装束を纏った得体の知れない空気を醸し出す、そう、あの女郎蜘蛛のような……そんな底知れない恐怖を讃えた空気感だ。女は笑顔を見せると、懐に抱えた大きな本を重そうに揺らし、ゆっくりと私の方へと歩いてきた。大きな歩幅で、地が揺れるかと思った。
女は桶を持って立ち尽くしている私を遥か彼方から見下ろしながら、言った。意外にもハスキーな声だった。
「こんにちは、リリィちゃん」
私は束の間、返事が出来ず、声がカヒュ、という掠れた音を出した。私は間を作り出す為にわざと咳き込んでから、改めて女の顔を見上げた。
大きい。私の1・5倍はある。いやもっと。小柄な師匠よりも遥かに大きい。彼女は一体何者なのだろうか。
私が返事をしないでいると、女が近づいてきて、優しい口調で言った。
「それ、重たいなら持とうか? 嫌ならいいけど」
私は反射的に首を振っていた。「いや、いいです。自分で持てます」
女は感心したように鼻から息を吐き出しながら言った。「そう」
「そうです」
私は何を言っているのだろうか? さっさと立ち去ろう。いや、待て。この女は明らかにこの家を目指して来た。お客という事か? だったらもてなすのが礼儀というものじゃないか? いかん、頭が回っていない。さっさと動き出さないと、ほら、また女が心配そうな顔をこちらに向けて来ている。早く動き出さないと。
目まぐるしい思考の中導き出された答えは、驚くほど標準的で、溢れ出てきた声は、驚くほどか細かった。
「え、えー……、こちらへどうぞ……」
私は有無を言わせぬ雰囲気を漂わせることを強く意識しながら、女性の隣をすり抜けるようにして歩いて行き、勝手口の扉を開いた。あ、見知らぬ人を勝手に入れては……いや、今更、もう遅いか。
女性は後ろから、忠実な犬のようなしっかりした足取りで、私の足跡を辿っていた。私の足跡を検分するかのように、忠実になぞっていて、私は少し薄気味が悪かった。
私が先に入り、走って水瓶まで行き、桶をひっくり返す。師匠の魔術が施された水瓶が新しく入ってきた水に反応して、鈍く水色に光った。
女が勝手口の玄関から、私の方を見てきている。……いいや、彼女が見ているのは私などではない。それは直感で分かった。師匠が描いた魔術式の水色の反応を見ているのだ。
私は取り澄ました笑顔を向けて、こちらへどうぞ、と言った。女性は頭に被った幅広の帽子を脱ぐと、笑顔を向けながら私の後を続いた。
暖炉の炎の温かさだけが、今は救いに感じられた。普遍の生の証。
「シスは幸せに暮らしているみたいね」
女性はマントを脱ぎ、帽子を服の上に置きながら、どうでもいいことのようにそう言った。私の頭は思考を再開する。シス? 師匠のことだろうか? いや、確かに師匠がよく読んでいる本の傍に置かれている本の題名が、『シスのうんちゃらかんちゃら魔術本……』だったような気はするのだが、どうだったか。
私が黙っているので、女性はすっかり身支度を終えてくつろいだ姿で、私を見ながらクスリと笑った。
「お茶でも淹れましょうか。二人で」
流石にそれはまずい。私はブンブンと首を振り、その有難い申し出を拒否し、急いで台所へと向かった。確かあまり使われていない茶葉がどこかにあったような……ここだ。
振り返って台所で準備をしようと思った時、気づけば女性が私の近くに立っており、私は二度目の硬直化に陥った。監獄にいた時にもここまでは固まらなかったと思う。
女性は何故か微笑みを絶やさず、私のお茶淹れの様子を見てきている。何がそんなに楽しいのだろうか?
私が怪しげな所から取ってきた茶葉らしきものを茶漉しにセットしようとすると、女性は遮るように手を伸ばしてきた。私は反射的に身を強張らせ、臨戦体制を取った。だが、女性の手は私の方ではなく茶葉の方へと伸ばされたようで、茶葉の一つを摘むと、囁くような口調で言うのだった。
「あら……ケドリグサじゃない。あいつ、こんな洒落た毒草持ってたなんて……」
「毒草?」
私がそう叫ぶと、女性は「いいのいいの」と言って、再びその大きな掌を茶葉の上にかざして、何かを呟いた。
それは何かの歌のようで、呪文のようで、でも悲しげな響きを伴った言葉だった。
「エセ・アルケ・メヌ・オルモ・チラ」
女性が呟くようにそう言うと、茶葉の上に不思議な円盤のような物が突如として現れ、その光り輝く円盤がゆっくりと茶漉しの中を通過すると、それきり光は現れなくなった。私は本当の魔術というものを間近で見たのはそれが初めてだったかもしれない。師匠はいつも小出しにしてしか見せてくれない。それこそ本当にさりげなく、水瓶や調理器具の裏側にそっと魔術式を忍ばせる程度の事だ。
でもこの女性は今まさに目の前で、私が知りたかった魔術というものを見せてくれた。私には本当に魔術の才能がなかったのだとしても、知りたいという純粋な欲求は隠しようがなかった。私の眼に気付いて、女性は例の微笑みを再びゆっくりと見せた。そして静かな口調で言った。
「……さあ、これでお茶は飲めるようになった。あいつが帰ってくる前に、二人で楽しいお喋りでもしましょう」
私が何を言うべきか迷っていると、女性はその後慣れた手つきで沸かしたお湯を茶瓶に注ぐと、再びにっこりと微笑んで白い歯を見せ、私の背中に手を回しながら、二人で不思議なカップルを組んでいるかのような姿勢で、暖炉のある部屋へと歩いていった。
師匠が帰ってくるまで、私達は二人でゆっくりと毒草のお茶を楽しんでいた。不思議な時間だ、と遠くで観察している離れた私の意識がそう言っていた。
やがて師匠が疲れた体を引き摺って帰ってくるまで、私と大きな魔女とは互いに色々な話をしていた。
魔女の名前はテレサと言った。テレサ・イド。それが魔女としての彼女の名前だった。
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