4 師匠の手のひら



 何か、温かなものが触れている。これはなんだろう。羽毛のような何か。包み込まれている。白い、羽毛のような何か。所々がピン、と撥ねていて、まとまりがない。それに……いい匂い。ジャスミンみたいな……どこかで嗅いだことのあるいい匂いだ。花の香り……何かが震えている。私の体? いや、これは……白い、羽毛みたいな、……師匠?

「師匠……? どうしたんですか?」

 師匠の身体が震えている。私が声をかけると、震えは止まって、代わりに澄ましたような声が返ってきた。

「おう、帰ってきたか。いや何、ちょっとしたボヤ騒ぎさ……。もう、気分はいいかね?」

「……ええ、はい。ところで、何故師匠が私の事を抱き締めてるんですか? ……痛いですよ……」

 傍から師匠の温もりが消え去っていく気配がした。離れて、あのいい匂いも離れていった。あの、どこかで嗅いだ事のあるような、花のようないい匂いも。

 師匠は少し離れた所で中腰になり、指を顎にかけて深く考え込むような姿勢を取り、あの藍色の瞳で私の事をじっと見てきている。

 何となく落ち着かなくなって、師匠に尋ねる。

「……何ですか? 私、何か変でしょうか?」

 師匠は暫くの間何も言わず私の事を一しきり観察した後、奥に向かって声をかけた。優しい口調だった。

「よし、ベス。もう出てきていいぞ!」

 わん! と大きな声が聞こえ、ベスが物陰から姿を現した。散らばっている木片を器用に飛び越えながら、尻尾をぶんぶんと振って師匠の所まで来た。ここまで来れて本当に嬉しいと感じているベスの気持ちが、尻尾と彼の表情を見ているだけでありありと伝わってきた。

 私は顔を上げて、そこで初めて部屋の惨状を知った。

 窓ガラスは殆ど全てが割れていて、床には大きな穴が幾つも空いている。先程まで座っていた筈のソファは、巨人の手に投げ飛ばされたかのようで、壁へと押し込まれ、暖炉の脇でその裏側を見せていた。部屋一帯は、まるで今し方野党に襲われた直後ででもあるかのように混沌として、荒れていた。それを見ていて、私の頭は一瞬、真っ白になったように感じた。

 いつの間にか師匠がベスを抱きながら横に立ち、何でもない事のように言った。

「……まあ、気にするな。よくあることだ、それに……これは、俺が悪かったんだ。お前のせいじゃない」

「これは……私がやったんですか?」

 師匠は笑みを浮かべて、ベスを見せながら言う。

「だから、気にするなと言っているだろう。お前に余計な事を言った、俺の責任だ。恨むなら俺を恨め。……まあ、壊れてしまった物は元通りには出来ないが……」

「魔術は万能ではない、のでしたね」

「まあ、そういうことだ」

 それから私と師匠は二人とも無言で、散らかった部屋を一つ一つ片付けていった。穴の空いた床の上には薄いフェルト布を置き、師匠が板でバツ証を作った。割れた窓は師匠が魔術をかけて出来る限り破片をくっつけたが、全てが元通りになった訳ではなかった。魔術には限界がある。

 暖炉の脇でコップに淹れたココアを二人で飲みながら、師匠は言った。師匠からはいつもの余裕綽々の雰囲気がまるで見られず、その様子に私は些か戸惑っていた。

「感情のコントロールが上手くいかないからといって、自分を責めるのはなしにしよう。お前は十分によくやっているのだから」

 私が答える。両手の間にあるココアのカップは、とても熱く、温かかった。

「でも、もし今度ああいった事が起こったら、私は……」

 原因ははっきりしている。自分が感情記念日を忘れていたこと、そのことを暖炉の前で鮮明に思い出したことで、一瞬の記憶の復元が行われて、私は暴れ出してしまったのだろう。師匠が発したあの言葉で、私の中の『既に壊れてしまった一部』が再び暴走してしまったのだ。

 師匠は私を宥めてくれていたのだろう。だから私の代わりに、私の事を案じて、震えながら抱きしめてくれていたのだろう。

 それなのに、私は……。

 ココアを飲みながら、籠ったような声で師匠が言った。

「……さっきは『四ヶ月だ』とか、『大した贈り物もない』とか、『さして嬉しくもないんだろう』とか言ったが、もう、ああいった皮肉の言葉も、もう、お前には必要ないのだろうな。お前はもう、十分に習熟してきたし、自分にしかない才能も見つけられるようになってきた。……俺はお前が誇らしいよ、本当に……あの監獄から抜け出して、こんなに短期間で感情を取り戻せるとは正直、思っていなかった。お前は本当に凄いんだ。本当に……」

 私は師匠の方を向いて言った。師匠の瞳はカップ越しに、暖炉の炎を見つめている。

「師匠は、どうして私の事をそんなに想ってくれるのですか? ただの奴隷だった私の事を」

 師匠はあの藍色の瞳だけをチラッと動かして私の顔を見ると、再び目を伏せて、思案げな口調で言った。

「……それは、俺の為だよ……。昔は、世界の為だとか思っていたが、この数年間、お前のことを側で見続けてきて、本当に、俺自身も色々と変わっていったんだ。色々と学ばせてもらった。お前には、本当に……そう、本当に……俺は強くしてもらったんだ」

 私は声音を強くして言い返した。

「それは答えになっていません。ご自分の為だと仰るのなら、それこそどうしてなのですか? 世界の為だと仰る意味も、今の私には分かりません。私には……私には、魔術の才能も、何の取り柄もないというのに……」

 師匠は答えた。師匠が発した鮮やかな藍色の声音が、私の憐れな声音を打ち消して、空気を切り裂いたかのようだった。

「お前には才能がある。自然と調和できるという、無二の才能が……今日の井戸で、お前は自然の力を知った筈だ。闇の虫が嫌がって飛んで行ったのは、一体何故だと思う?」

 私は自然に溢れて出てきた涙を拭きながら、言った。「それは……師匠が以前、そう教えてくれたからですよ……」

 師匠はきっぱりとした口調で言った。

「それは違う」

「違う……?」

「ああ、違う」

 師匠の大きな手が伸びてきて、私の頭をゆっくりと撫でた。撫でられていると、不意に違和感に駆られた。師匠の手は、こんなにも細く、小さく、か弱げだっただろうか?

「以前お前に教えた方法はな、遠い内海で呪い師達がよく人々に教えるような、緊急の対処法みたいなお粗末なものなんだよ。実際、それで助けられる命もあるのだが、その数は決して多くはない。お前のように一人で自分の命を助けられるのは、世界では数えるぐらいしかいないだろう。

 それがお前が使う事ができる、自然のちからを増幅させる能力だ。

 魔術の世界でそれは、「自然の流れを扱うことのできる特別な力」『自然治』と呼ばれている。魔術師達は表面に溢れる空気のような目に見えない力を扱い、言葉を駆使することで使役するが、『自然治』を扱う者達は、世界の底に眠る『地脈』の力を使うとされている。今まで、どこかで聞いたことはないか?」

 私は黙って首を振った。

「そうか」と師匠は言い、やがて俯きがちに、そうだろうな、とだけ言うと、再び暖炉の炎の動きを見つめて、黙り込んだ。

 暫くしてから、唐突に師匠が言った。

「お前が『自然治』のちからを持っていることは、随分前から知られていたんだ。とある方面ではね……。ただ、それが公にはされなかった。七賢人達が収める協議会が、正式に保護を打診したのは、丁度お前がヒエルキナ監獄島に収監される直前だったんだ。その前に俺は何度も一人で動こうとして、その度に仲間に止められていた。魔術師の中では協議会から送られてくる司令が絶対の掟でね。仲間もその命令には逆らえなかったんだ……というのは、絶対に建前だがね。実際、いざお前を保護するようにという司令が発せられた時も、俺以外には誰一人として動こうとはしなかった。俺が動かなければ、あの時お前は確実に殺されていた。闇の刺客達が作り上げた、氷の監獄島、ヒエルキナ監獄で」

 師匠はそう言い終えると、暫く黙って炎を見つめていた。私の角度からは、師匠の瞳はまるで、藍色の海の底で炎が揺蕩っているように見えた。

 師匠は多くを語ろうとはせず、いつも自分が生きようとする姿を見せて教えるような人だった。生きるとは、表現することである、そう言い張る彼は、いつも下手くそな絵を描いては額に入れて、家中に飾って自慢げにしていた。そういう人だった。その絵も今日、私が落としてしまったのだけど……。

 今日になって、師匠が多くを語ろうと思ってくれたということ自体が、私にはとてつもなく嬉しかった。これまで、師匠が私にしてくれた苦労があったからこそ、今私は『嬉しい』と感じることが出来るのだ。

 師匠が話した内容は、今すぐに飲み込むには理解できない部分が沢山あり過ぎて、正直とてつもなく困惑しているのだが、でも、それもやがては理解できていくのだろう。私は少しずつ成長しているのだ。あの時から比べて、例え歩みが遅かろうとも。

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