3 監獄



 監獄の中は冷たかった。冷たくて、絶望という一番忌避したい感情が背中から湧き上がってくるのを、私は止めることができなかった。

 床は硬く、感情がない。どこまで歩いても、この無機質で力の抜けるような材質の床と格子が続いているのが、顔を上げて見なくても分かる。この床や檻の材質は、恐らくは収監される者たちの『生きる意思』を削ぐ為に選ばれ、それで造られている。見なくても何故だか分かる。ここに収監されてから、自分の中から頑なだった『生きよう』という意思が剥がれ落ちて、日を追うごとにその傾向は顕著になり、今では……そう、今では、もう、「生きるとか死ぬとか、もうどうでもいい」という言葉が脳裏に貼り付いて離れようとしない。

 先程から、水が滴り落ちている。その音だけが聞こえてくる。この監獄に入ってから、いやという程聴かされてきた音だった。馬鹿みたいによく響く水の音。でも、いずれは止むのだ。誰かが水道の蛇口を止めるかのように、音は突然聞こえなくなる。それでホッと息をつく自分がいる。矮小な人間が。

 もう、手足にも力が入らない。力を込めようと思っても、神経が信号を受け取ることを拒否しているみたいで、指先まで意思が届こうとしないのだ。その全てを、意思の挙動を、この手足の枷が奪っていっているみたいに感じられる。そういう直感がある。この手枷も、床も、壁も、檻も、時折に差し出される糞のような食事でさえもが、生きようとする気力を奪うために作られているように感じられるのだ。この監獄を設計した人間は本当に性格が悪い、と思い、何故か笑いが込み上げてくる。乾いた自分の笑い声が監獄中に響き渡っている、そういう絵を思い描こうとしてみたが、出たのは掠れ切った淀んだ肺からの悲鳴のような吐息だけで、それすらも笑えてくる筈なのに、私は、私の心がどんどんと無気力になっていくのをただ感じ取っていた。

 この監獄島に収監されてから、もう二週間位になる。たった二週間? そう思われる方々もおられることだろう。だがしかし、ここで行われている残虐非道な人を人とも思わぬ行いの数々を経験すれば、あなた方の意見も様変わりするだろう。黒から白へと。あるいは、白から永遠の黒へと。

 少なくとも私の心はこの二週間で、確実に死へと向かいつつある。どこまでも広がりを持っているかのようなこの絶望の檻の中で、どうやったら正気を保てるのか、方法を知っているのなら是非とも教えて欲しいと思う。

 日々の中で聞こえてくる音が減って、収監者がまた一人と、『死神』に首を刎ねられた。そういう音が聞こえてきた。そういう確信があった。彼らが何物で、どういう存在かは、今更どうでもいいことだ。問題は彼らが我々収監者達の首を延々と跳ね飛ばし続ける存在であること、どうやら彼らに休むという概念がないという事、重要だと思われることはこの二点だけだった。

 その他のことは本当にどうでもいい……いや、今やもう、世界で行われているであろうことも、殆ど全ての事がどうでもいい、と感じられ始めている。そういう自覚があった。このようにして自己というものを静かに失っていくものなのだと、その時私は初めて知った。悟った、と言った方がより正確なのかもしれない。だが、それもどうでもいいことだ。本当にどうでもいい事なのだ。

 本当にどうでもいい……。

 音がして、檻が開かれ、看守が私の顔を覗き込んできているのが分かった。この男は私が収監されて二日目に私を犯しに来た男だった。私が枷に囚われていること、奴隷商から預かったばかりの若い女を犯さない理由などなかったのだろう。私はいいように弄ばれ、そしていつものように捨てられた。まるで物のように。看守は依然として私の顔を覗き込み、様子を確認しているような様子だった。だが、いつもと様子が違っている。何かが違う、と私は感じた。そして金的を蹴り上げてやろうかと思い右脚に力を込めようと思ったが、そうだ、意思の伝達が終わっているのだったと思い直し、再び脱力した。

 感情が緩やかに消えていったのは、多分その時だと思う。私の中から大事な何かが消え失せ、代わりに氷のような何かが自分の核心に近い場所に形作られた。そしてそれは確かな質量を得て、永遠にその場所に留まろうという強い意思のようなものを私は感じ取った。私はその意思に屈したという事になる。私は負けたのだ。よく分からない硬くて冷たい何かに。何かの存在に。そして私はいつしか、その氷のような何物かの中に自分の心の姿があるのを知って、驚愕するのだろうと思う。

 こういう事を犯されている刹那の間に思っていた訳ではない。ただ、私はそこで確かに思ったのだ。この、私を中心に広がっている視覚的世界が、聴覚的世界が、主観的な世界のことが、本当にどうでもいいのだ、と。

 私の首の枷が外され、私の首が突き出されるようにして、私は檻から外されて、前へとよろめき出た。その首を看守の太い指が捕まえて、私は引きずられるようにして歩かされていった。本当に静かだった。静かで、他に何かの音が聞こえてきそうな気配もしない。ただただ、沈黙と静寂とが手を取り合ってそこにはあった。そして私の束の間の絶望も。

 やがて一瞬の間手に入れた絶望という感情も、誰かの手によって取り去られ、その後、気づいた時には、私の顔は『死神』の前にあった。例の真っ黒なローブと髑髏は今も健在で、私の首はその前にゆっくりと力ずくで抑えられていった。

 感情を失った一体の首が、化け物の前に横たえられている。まるで何かの供物であるかのように。供物……供物?

 こいつらは……喰らっているのか? 感情を失った魂だけを?

 もう遅い。何を考えようとしても無駄だ。私の首は彼らと同じく『死神』の手によって刎ねられ、その後は……私は、どこへ行くのだろうか?

 弾丸のような強烈な青色の光線が左眼の奥で輝き、私と、私を抑えていた看守の首が自由になったのを私は感じ取った。

 私の記憶はそこで途絶えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る