2 感情記念日
桶はいつも通り重く感じられた。筋肉が育っていないせいだ。あの日以来ずっと、色んな稽古や雑用をこなして、少しは体が強くなったかと思ったけれど、相変わらず桶は重いままだ。桶の中の水は自分の意思を持っているかのように、私が歩こうとすれば手前に、止まろうとすれば前へと進もうとする。まるで小さな嵐が桶の中で暴れているみたいだった。
何とか歩いて、とんがった煙突を頂いた家の勝手口へと辿り着く。別にお迎えがあるわけでもない。扉は閉まったままで、静寂が入り口を通して外へと漂い出ていた。
ノブを引いて、ステップを上がり、桶を持って家の中へと入る。扉を閉めて、振り返ると、暖かな室内の空気と共に、一人、珍妙な人間の姿が目に入った。
師匠だ。伸びるに任せた白い髪が、四方八方に跳ねている。本を机の上に置いて読みながら、時々マグカップを口に運んでいる。恐らく、いや、間違いなく極端に甘くしたココアだ。
私が入ってきても、師匠は気にすることはない。毎日の日課だからだ。それでも少しホッとした。どうやら闇の虫に襲われたことは気付かれていないらしい。
器具が色々と並んだ台所を抜け、巨大な水瓶が置かれている場所まで歩いていく。その中に桶を傾け、水を入れた。問題なく水瓶は私が運んできた水を吸収し、その中で清浄な藍色を湛えた水達が、踊るように光を発しながら揺れている。
水瓶の下、師匠が描いた魔術式を一瞬見てみるが、チカチカと明滅しているだけで、別に読み取れるわけでもない。無意味でも、何故か時々見てみたくなる。それがどう機能しているのか。
見てみたところで、と、一人心の中で愚痴のように言ってみる。見てみたところで、私には。見てみたところで……。
立ち上がり、師匠のいる机へと歩いていく。師匠は相変わらず、マグカップをお供に難しそうな本を読んでいる。
「水、汲み終わりました」
師匠は本から眼を上げようともしない。ココアを啜り、「ん」とだけ、瞳を微動だにせずに言った。
「今日はこれから、何をすればいいですか」
私は両手を広げる。そうは言ったものの、夕飯は水を汲みにいく前にもう作ってしまった。兎肉のホワイトシチューだ。作り終わって一息ついていたら、師匠が魔術で光る粉のようなものを手から出して、黙ってかけていた。そして何も言わずにまた机に戻っていく。いつもそうだった。
最近は本当に穏やかで、殆ど何もないと言っていい毎日が続いている。遠くのナイルズ大陸では大国間で巨大な戦争が今も行われている。それがいつ終わるのか、多分、世界でも誰一人として知らないのではないだろうか。私は時々暗澹とした気分に駆られる時がある。本当は私は、あの戦争の最中で、ひっそりと死んでいる筈だった。
ヒエルキナ要塞の監獄で。
「またつまらない事を思い出しているのか」
顔を上げると、師匠が本から眼を上げてこちらを見てきていた。まんまるに見開かれた蒼く輝く瞳。綺麗な川の底のような、深くて綺麗な色だった。
私は別に何と答える気にもなれず、適当に手を上げておいた。
「ふん」と師匠が言い、ココアを飲み、再び本へと戻っていった。
私は……私は、何をしているのだろうか。こんな事をしていていいのだろうか。
私は確かに生き残った。師匠のおかげだ。彼がいなかったら、私は今頃、あの巨大な死神の化け物の鎌にかかって、死んでいた。彼がいなかったら、今頃私は……。
「今日は感情記念日だったな」
はい? 顔を上げると、師匠が黙って奥に掛けられているカレンダーを指差す。
「あれが見えないのか? お前の大事な日じゃないか。お前が感情を初めて取り戻してから、今日で丁度四ヶ月。別に特別なお祝いを用意してる訳じゃないが、お前にとっては大事な日だろう?」
私はカレンダーの大きなグレゴリオ数字が、奇妙に光って見える。師匠が光らせている訳ではない。でも確かに、私には特別に感じられているらしい。そうじゃなかったら、光って見えたりはしないだろう。
師匠の皮肉に満ちた声が飛んできた。
「……どうも、それ程嬉しい日でもないらしい。当の本人がそうなんだから、周りが盛り上がっても、なあ? ベス!」
ベス、という師匠の声に反応して、奥から火の玉のような毛むくじゃらの塊が飛んできて、師匠の膝の上にダイブしてきた。興奮しきったベスが師匠のお腹の上で弾むようにして暴れている。
「こらこら、本が破れるだろう。やめるんだ、ベス」
ベスは師匠のお腹の上で暴れ放題だが、師匠は本気で動きを止めることはない。二人はいつもこうで、いつも好きなだけ遊んで、辺りを散らかして、私の仕事を増やすのだった。
一度こうなると二人は暫くこのままだった。仕方なく私はその場を離れ、暖炉の側のソファに腰掛ける。深々と沈む革のソファは、気持ちが良かった。
「感情を取り戻しても、それ程嬉しくはないか?」
私は答えず、前のめりになって、暖炉の火を眺める。火はゆらゆらと取り留めなく揺れて、ただ、生きていた。
「お前が感情を取り戻せたのは、俺が頑張ったというのもあるが、運の要素も大きかった。あのまま廃人のまま一生を終える者も多いからな」
師匠は、と、私は言いかけて、口をつぐんだ。
師匠はどうして、私を救ったのですか?
まだ一度も彼に言えたことのない疑問だった。何故自分だったのか。あの場所にいたのは自分だけではなかった。他にも何人もの、人種年齢の区別のない多数の人間達があの砦には囚われていた。そして、順々に鎖を付けられて、慈悲もなく、死神の姿をした謎の化け物の鎌によって、皆、首を落とされていった。
師匠は私が首を刎ねられる寸前に突如として現れ、何かよく分からない魔術を使って、私を救ってくれたのだった。青い、ただただ青い輝きを放つ、不思議な魔術だった。その青の輝きだけが、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの時殺されていても不思議ではなかったのに、何故か私は今、ここにいる。
目の前の暖炉の中で揺れている炎は、何故か自分よりも遥かにまだ、『生きている』感じがする。
「自分が助けられなければ良かったのか?」
私は火を見つめたまま答える。「そんなことはありません」
「あんまり嬉しそうじゃないな。闇の虫を一人で撃退できたというのに」
私は眼を見開いて振り向いて言う。
「知っていたんですか?」
師匠はベスを撫でながら言う。
「妖魔は妖気を発するものだからな。お前が井戸の蓋を開いた時、辺りには妖気が充満していた。それですぐにわかったよ。お前が一人で何とか出来たことも。それを誤魔化そうと必死だったことも」
バレていたのか……だったらそうと早くに言ってくれれば良かったのに。
「まあ、それでもお前は一人で闇の使い魔達を一人で退けられた訳だからな。自分を誇りに思うといい……腹が減ってきたな。飯にしよう」
「シチューなら出来ています」
「ああ、兎に感謝しないとな。自然への敬意を忘れるなよ、特にお前はな」
私は答えず、振り返らず、炎をただ目の中に収めるだけにした。炎は揺れていて、ただ、自分の前から逃げていくことも、襲いかかってくることもなかった。ただ、そこにあるだけで……温もりを与えてくれた。
時計が六時になり、鳩が飛び出ながら、「ポッポー」と間の抜けた声で鳴いた。確かに、お腹が減っている。
あの頃は、お腹が空いていても、決してすぐに満たすことなどできなかった。水も、自由には飲めなかった。でも、その事について何かを感じることも、次第になくなっていったのだ。
そう、覚えている。あの頃の記憶。何をどのようにして生きていたのか、どのようにして他者を欺き、日々を生き永らえて、……やがて感情を失っていったのか……。
向こうで師匠が椅子を引き、鍋の蓋を開ける音が聞こえてきた。食器入れから、食器を弄る音も。
そう、今日は感情記念日だった。忘れていたことなんてなかった。その筈なのに。
あの頃の記憶は、いつ思い出そうとしても常に朧げだった。
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