奴隷少女は魔術を習い、幸福を目指す

幽々

1 井戸


 木の葉が土の色を帯び始めて、風が吹き、葉は音もなく地に落ちた。誰に見られることもなく、いや……今、私は見たのだ。

 井戸の蓋を開け、釣瓶を落とす。落とす時にカラコン、と石の壁に当たって音が鳴った。師匠に聞かれていないかと思い、瞬間井戸の底から目を離し、家の方を見る。

 静かだ。いつもの通り、とんがった煙突を頂いた煉瓦作りの小さな家は、整然として、まるでその姿が世界にとって当たり前であるかのような風情でそこに佇んでいる。私は目を戻して、釣瓶桶を引き上げようとした。

 重い。水はこんなに重かっただろうか。

 師匠はかつてこんなことを言っていた。

 闇の虫には注意するように、と。油断すれば命取りになる。例えそれが井戸の底で発生した雑魚闇虫でも、我々は呼吸器官を抑えられれば容易く死に至らしめられる、油断した者から死んでいく、この世界はそういう作りで出来ているのだからな。

 油断しなければいいのではないですか?

 師匠は笑って言った。

 言うようになったな。だがな、闇の虫というのは狡猾だ。我々が油断する一瞬の隙を突くようにしてしか姿を現そうとはしないのだ。どこかの夏の虫とはまるで違う。妖気を纏った生き物とはそうしたものだ。こちら側の論理で測ろうとすると、いつか痛い目を見るぞ。

 ……私は油断なんてしていなかった。ただいつも通りの手順で井戸から水を汲もうと思っただけなのに。

 井戸の闇の底から突如として現れた『闇の虫』達は、私の鼻と口目掛けて突進してきた。慌てて払い除けようとするが、間に合わない。幾つかの『闇の虫』達が鼻の穴を塞ぎ、その冷たい腹の感触に鳥肌が立った。続く数匹が私の無防備になった口をどうにかして塞ごうとその場で飛んでいる。

『闇の虫』に万が一襲われた時は、どうしたら良いのですか?

 その時、師匠は何故か目を丸くした。そして言った。

 しゃがむんだ。そして近くにある葉か、なければ砂か土を口に含め。そうすれば簡単に闇の虫は剥がれる。

 理由は分からないけど、何故かそうなるらしい。私は命懸けで近くの草むらまで猛進し、幾つかの枯れかけた葉を口に頬張る。苦しい。まだ鼻に張り付いた闇の虫は剥がれようとしない。

 私は口を頬張った姿勢のまま、慌てて地面に伏せて両手で柔らかな細かい土を掬い、それを口の中に入れた。口に入れる時、その土の粒子が砕けるような細かなパラパラという音が聞こえた気がした。

 これで大丈夫。師匠に教わった事はちゃんと出来た、後は闇の虫が剥がれるのを待つだけ……。

 魔術が使えないお前如きがもしも闇の使い魔たちと遭遇したら、どうやって撃退するのか?

 師匠は気取ったいつものポーズで言ってたっけ。指を鳴らした、あのいやらしい姿勢で。

 自然だ。自然の力をうまく使うんだ。奴らは自然の持つ力を何故か極端に嫌うからな。

 鼻から、嫌な冷たい感触が離れていった気配がした。私はその場に伏したまま、口から助けてくれた葉と細かな土とを吐き出し、思う存分鼻から息を吸った。

 気付けば涙が出ていた。気づかなかった。そうか、思いがけもしない時に死ぬとなったら、涙が出るのか。座っている地面は固く、それでも柔らかかった。闇の虫を撃退して、私は少し満足しているのか。満足できているのか。

 ゆっくりと立ち上がり、口と目を袖で拭い、井戸の側へと歩いて戻っていく。引き上げようとした桶はまだ底にあり、私は無表情を取り繕いながら、改めて桶を引いた。

 桶はいつも通り、水の分だけ、重かった。

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