第2話 破
「いい見ものでしたね、クリストフ様。姉のあの悔しそうな顔!」
部屋に入るなり、エリアナは高笑いを上げた。
クリストフの私室である。彼は入室しても無言のまま、キャビネットから酒を取った。
エリアナは気にせず、ベッドのへりに腰を下ろした。もう何度か、彼と共に過ごしたベッドである。遠慮はない。
「プライドの高さも相変わらず、最後まで澄ましたようなフリをして。何が幸せになってね、よ。あんたに言われるまでもなく勝手になるわっての――ねえ?」
エリアナは愉快な気持ちだった。
物心ついたころから実姉が嫌いだった。あの真面目ぶって口うるさくて、偉そうな女が大嫌いだった。
エリアナは生まれつき、あまり頭の出来がよくない。難しい勉強はもちろん、淑女らしくじっと座ってもいられない。見た目も優れているとは言い難い。怜悧な美貌の姉と違い、愛嬌があるとしか言えない顔立ちを褒めてくれるのは両親以外にいなかった。
だからといって自責もしなかった。むしろ贅沢を好み、両親に全力で甘えて凭(もた)れかかった。
両親は、不出来なエリアナを余計に可愛く思えたのだろう。愛想よく笑って、失敗したら泣いてごまかして、パパママ大好き! と甘えれば、何でも許し、買ってくれた。
そんなエリアナに、唯一苦言を呈してきたのが姉だった。
――エリアナ、贅沢は控えなさい。春の竜巻で小麦が壊滅して、伯爵領はいま飢饉にあるの。領主が宝石なんか買ったら領民の怒りを買うわ――
――エリアナ、人の目がある、ごく短い時間だけでもいいから淑女のふるまいをしなさい。大きな口を開けて笑ってはいけないの――
――エリアナ、ワガママを言うのもいい加減にしなさい! こんな時期に船旅だなんて、だめよエリアナ、お父様、お母様! 行かないで!!――
どれだけ口うるさく言われても無視をして、両親におねだりし続けてきたエリアナ。
そんなエリアナの願いを叶えて、大時化(おおしけ)に呑まれ還らぬひととなった両親。
そしてその尻ぬぐいに、成金の資産家に嫁ぐことになった姉、メリッサ。
あの日――切り裂かれたドレスを見た瞬間、エリアナは犯人がメリッサだと確信した。
メリッサはエリアナを恨んでいるに違いないから。
「――そう、婚約のことだって……お姉様も本当は、クリストフ様が好きなくせに……」
そう呟いた瞬間、エリアナは肩に痛みを感じ、アッと悲鳴を上げた。
いつの間にか近づいたクリストフが、男の握力でエリアナの肩を握っていた。
「い、痛い!!」
「どういうことだエリアナ。あの女は僕に惚れているのではなかったのか」
掠れた声でそう問うてきた。
「え? な、何……?」
「おまえが言ったんだぞ。あのダンスパーティーの夜……あの女は自分に嫉妬している、それで邪魔をして、自分を叱りつけてきたのだと」
「え、ええ。それが、なにか」
「嘘をついたな? さっきのあの目、縁談が成った時と同じだった。会うたびにいつもいつも、僕を侮蔑するような目で見ていた。あの冷たい目のままだった」
「…………え?」
エリアナはぽかんと呆けた。
エリアナは嘘をついていない。
二年前に婚約が成って以来、姉はエリアナに、婚約者の話を繰り返し聞かせた。クリストフという男がいかに美しく聡明で、高価な贈り物をたくさんしてくださるのだと、自慢げに。
エリアナはそれが悔しかった。悔しくて悔しくて……それで彼が欲しくなった。ちょっとでも姉に嫌な思いをさせてやろうと、ダンスとベッドに、彼を誘った。
たしかに、ドレスを裂いた犯人が姉だという証拠は無かった。だがそれをクリストフに相談すると、瞬く間に証拠は集められたのだ。彼の財力と人脈で聞き込みをすると、あっという間に、姉の所業が明らかになった。
それはすなわち、姉がエリアナに嫉妬をしていた――クリストフ様を慕っていたという証拠のはずで――。
「どういうことだ? これはどういうことだ。こんなはずは、こんなはずがないのに」
クリストフはガジガジと爪を噛んでいる。
「あんなにあっさりと引き下がって。なぜだ、くそっ、なんだあの涼しい顔は。なぜもっと冤罪だと強く訴えない? おかしい、おかしい、おかしい!」
酒をあおり、地団太を踏んで、髪をかきむしるクリストフ。
エリアナは困惑した。
「クリストフ様……なにを混乱しているの? その様子……なんだかまるで、姉の無実を信じているみたいな……」
クリストフは答えなかった。無言のまま懐に手を入れると、護身用らしい、宝飾ナイフを取り出した。鞘を取り捨て、歩み寄ってくる。
何を――と、エリアナが問うより早く、ドレスの裾に、刃が突き立った。クリストフは無言だった。ただザクザクとおぞましい音を立て、エリアナのドレスを切り裂いていく。
あまりのことに絶句しているエリアナに、彼は早口でまくしたてた。震える声で、どこか楽し気に。
「さあメリッサを呼び戻すぞ。弁明のチャンスをやると言えばメリッサはこの部屋に来るだろう、おまえはメリッサと対面するなり、悲鳴を上げて衛兵に助けを求めろ。それでメリッサの評判は今度こそ地に落ちる」
「っは――な、なんの、ために……そんなことを……?」
「噂はすぐに広まるだろう。『落ちぶれた伯爵家の娘がカネ目当てで我が家に近づき、実の妹に嫉妬をし、その結果何もかも失くした悪役令嬢』――それで、僕以外に彼女を欲する男は現れまい」
エリアナは今度こそ息を呑んだ。
「……クリストフ様、今、何と?」
僕以外に――彼女を欲する男。彼はそう言ったのだと、脳が理解を拒絶する。
彼は楽しそうに笑っていた。
「女が独りで生きていけるものか。孤独に耐えかねたメリッサが、『クリストフ様、側妻でもいいからそばに置いてください』とすがりついてくるのが楽しみだ」
エリアナ・バフドールは、賢くない。それでも全くの無能ではなかった。
ついさきほどの、姉の言葉を思い出すことができた。
――それはきっと誰かの狂言。わたくしに罪をなすりつけようという不届き者が――
「……まさか……」
「……どうした、エリアナ? なにか言いたいことがあるのか」
「い、いえっ……なんでもありません!」
慌てて首を振っても、クリストフは許さなかった。もはや布とも呼べぬ形状となったドレスに、トドメを刺すようにナイフを立てる。そして、彼はゆっくりと立ち上がる。右手は、拳の形に握りしめられていた。
「何だその目は?」
「あ、あたしは……なにも」
「おまえも、この僕に逆らうのか」
彼が低い声で囁いた――直後、エリアナの意識は途切れた。
顔面を殴られた。
そう気づいたのは、一瞬の失神から醒めてからだった。意識は取り戻したものの、視界がチカチカして、景色が歪んで見える。殴られた箇所の痛みより猛烈な眩暈で身を起こすことができない。
「う、う、ゥェッ」
ひどい吐き気に呻き、腹部を押さえる。だがその腕ごと蹴り上げられた。仰向けになったところを踏みつけられる。男の体重が乗った硬い靴底、衝撃のたびに骨がきしむ。
激痛と恐怖と、現実逃避で、エリアナは何度も気を失った。
目覚めてもまだ殴られていた。大好きだったひとが馬乗りになり拳を振り下ろすのが見える。
エリアナは目を閉じた。閉じても開けても殴られ続けていた。
「――ああ、いけない。これ以上汚したら、壊れてしまう」
途切れがちな意識の中で、クリストフ様の呟きが聞こえる。
「これは誰もがうらやむ幸せな花嫁でなくては。そうでないと、メリッサが還ってこない」
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