山と煙

北 条猿(Kita Jyouen)

山と煙

 1枚の紅葉が、冬の到来を思わせるひんやりとした北風にのった。それは東の空に流されたかと思うと、今度は波にさらわれたかのように夕闇迫る西の空の方へ流されていった。この紅葉はやがて庭の土塀を越えてとうとう見えなくなった。

 

 居心地の良く温かい巣をついに飛び立った雛鳥のようだと、祖父の家の縁側でこの光景を見つめていた12の少年は聯想した。そう思い浮かべながら視界の先の紅葉の木見ると、さわさわと揺れるたくさんの紅葉はどれも、終にその巣の中から飛び立った一羽を羨やむ目で見つめる兄弟たちのように見えて仕方がなかった。


 巣立ちを見届けた少年は両手両足を大の字に広げて仰向けになり、廊下の茶色い天井の少し色が剥げている箇所を意味も無く、しかしどこか意味有りげにしばらくの間じっとみつめていた。庭のほうからは、冬支度を着々と進めているのだろうか、歌うような小鳥のさえずりが聞こえていた………。


 少年はそのまましばらく眠ってしまっていたらしい。まどろみから覚めたのは、寝そべっている古い木製の床がぎしりと音を立てながら僅かに沈んだのをその小さな背中で感じたからであった。瞼を重く冷たい鉄のドアを開けるかのようにゆっくりとあけると、口元に微笑を堪えた父親が手を後ろに組んで立ったまま少年を覗き込んでいた。


 少年は、小学校で飼育している白ウサギの薔薇のように紅いあの目玉には、人間がこんな風に映っているのだろうかとふと想像した。無地の黒っぽいTシャツに黒のスウェットを身に着けた父親の姿を、少年にはその柔和な顔に反してほんの一瞬だけ、どこか威圧的に感じていた。


「腰が痛くないか?」


 父親は少年の右隣に胡座をかいて座り込みながら言った。視線は庭のほうに向けられていた。


「ううん、大丈夫」

 

少年は仰向けになったまま、大きな岩が転がっているように見える父親の筋肉質な背中を眺めながら言った。大きな岩は二度軽く頷き、ポケットから煙草とライターを取り出した。その煙草をくわえ背中と首を丸めて、かちかちとライターを鳴かせた。鼻を刺す煙草の香が、風に乗って少年の鼻に運ばれた。少年の知らぬ間に風向きがまた変わっていた。鼻を刺すと言っても、少年にとってこの香は父親そのものの香であった。彼にとってこの煙草の香には良し悪しは存在せず、ただそこに父親が居る、もしくは居たのだと知る一つの証拠に過ぎなかった……。


 少年の視線の先にはまず父親の姿があり、そしてその父親の奥には、夜の帳が下りようとしている夕空を背景に小さな谷間を持った、冬の姿への過渡期を過ごしている波山という山がある。父親が煙草の煙を吐くたびに、遠近の差によってまるで波山から白い煙が揺曳して立ち昇っているように見えるのであった。少年はその光景を見て、二年前に死んだ七つ上の兄が、山で首を吊る三日前の夜に教えてくれた昔の歌を思い出していた。


「鳥辺山 たにに煙の もえ立てば はかなく見えし われと知らなむ」



                了。

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