アン・エピソード・オブ・マーダー

 バスジャックだと声高に名乗りを上げた男を撃ち殺した。手袋を外した素手で、その男の身体に触れた。このタイミングまでに決めないと、銃の抑止力で車内が恐怖に覆われ、乗客達はパニックに陥り、バスジャック犯の命令が絶対の効力を持つことになり、銃などの武器を捨てさせられ、一切の抵抗の手段を失うことになる。俺は居心地が悪くなったそのバスを降りて、次の便を待つことにした。その間、俺の頭はアドレナリンのせいもあってか、異常なまでにフル回転していた。


 父さんは人殺しだ。多くの人間が見ている前で、数え切れないくらいの人間を殺してきた。世界は父さんのことを褒め称えた。父さんは映画俳優として多くの人から尊敬され、憧れられ、世界中の数え切れないくらいの人間の命を守ってきたヒーローとして、世界中の数え切れないくらいの人間から愛を注がれていた。そんな男が、俺に嫌いって言われたくらいで。


 俺は自分の右のこめかみを撃ち抜いた。死にたいという言葉が浮き上がってきたタイミングまでに決めないと、精神が恐怖に覆われ、パニックに陥り、生存の命令が絶対の効力を持つことになり、銃を捨てさせられ、一切の自害の手段を失うことになる。既に手遅れだ。俺はバス停に立ち尽くして、何もしていないまま、ため息をつくばかりだった。そもそも、今日は銃なんて持ってきてない。


 程なくして警察がやって来た。バスジャック犯の通報を受けて駆けつけたのかもしれない。俺の豊かな想像力は、俺の目の前にパトカーを停め、そこから降りてきたおっさんに俺への職務質問を始めさせた。


「あんたがバスジャック犯か。」

「その通りです。って言って、信じるほうが馬鹿だろ。どこに自分からバスを降りるバスジャックがいるんだよ。」

「無賃乗車が目的の可能性もあるだろ。」

「そうだな。そんな端金のためにバスジャックするやついねえよ。」

「バスジャック犯は皆そう言うんだ。署までご同行願おう。」


 俺は目的地までタダ乗りするためにバスをジャックした愚か者であるらしい。俺は片手の手袋を外して、それからまたすぐに付け直した。


 俺の目の前には壁がある。視界を完全に塞いでいる光を通さない材質の壁が目の前にあることを想像しながら目の前を見つめると、俺の目の前に壁なんて無い。俺は脳を休めてやりたい時、その壁のことを考える。


 まず、目の前に壁があるだろ。んで、目の前に壁なんて無いだろ。目の前に無い壁を見ようとしても無駄だ。だから脳はその壁を見ようとする思考をやめる。この「思考をやめる」ってのが大事なんだ。絶えず意識は目の前にある壁を見ようとする。しかし脳は考えることを何度もやめる。この繰り返しを飽きるまで続けると、脳は考えることをやめ続けているので頭が休まる。


 壁。それだけを思い浮かべれば、俺の頭はスリープし始める。目を開けて、意識も覚醒しているのに、頭の回転数がガクンと落ちて、思考の世界から言葉が消える。見えているのに、何も見ていなくなる。聞こえているのに、何も聞いていなくなる。世界から、意識が一歩離れるような瞬間、俺が今どこにいるかといえばやはりバス停なのだ。やっぱり俺は何もしていない。その訳もない虚しさにため息をついているだけだ。


 別に俺が何をしていまいと、別にどうでもいいじゃんね。

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【ライズ・トゥ・チート・ユー!】~世界的スパイアクション俳優の裏の姿、それは現実世界の平和も守るスパイだった!~ 藤井由加 @fujiiyukadayo

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