ニューラル・オベシティ
俺は人間だ。人間には、じっくり観察しないと目に映らなくて気づけないものがある。しかし、じっくり観察すると目に映らなくて気づけないものもある。物事を具に見ようとすればするほどに、人間の視野は狭くなっていく。視野を広く保ちながら物事を注意深く観察するためには、俺たちには頭が2つあればいい。不可能だ。だが注意深くて視野が広い状態を作り出すことは、1つの頭しか持っていない人間でも可能だ。ズームとルーズを繰り返して物事を適度に観察できる距離感を探るのが肝だ。慣れてくると頭の中には切替を補助する整流子が出現して、結果的にズームとルーズを同時平行で行っているような状態になる。人間は脳の中だったら双頭の鷲にでもケルベロスにでも、ヤマタノオロチにでもなれちまうってことだ。
俺は車道を歩いていたら車に轢かれた事がある。どんなに頭が良くったって、轢き殺される直前になってから助かる方法を思いつくことはできない。車に轢かれる事態を予め想定して、その可能性を避けるための行動を取る人間こそ賢い。でも世の中にはどうせ馬鹿がいる。例えば歩道と車道を完全に壁で遮断するとか、立体交差にするとか、地下道を作るとか、そういう頭の固い解決策を執らなければ守れない命だってきっとある。逆に例えば車道と歩道を隔てるのがガードレールだけっていうケチ手抜き工事をしただけでは、馬鹿な歩行者はその策を乗り越えて車道に出てっちまう。でも、もっと手短で、しかもほとんどタダで済む手段もある。教育だ。相当な馬鹿でない限り、車道を歩けば車に轢かれる危険があることを教えさえすれば、誰も車道を歩こうとはしない。車道と歩道の間には見えない壁ができるってわけだ。
嘘を挟まない話は、当たり前の内容に帰着するからつまらない。俺はさっきからごくごく当たり前の話しかしてない。現代人の想像力は何の制約にも縛られていないと言えてしまう程に自由なレベルまで解放されているということ。そして教育にはその想像力を有意義な方向へと導く力があるってことしか言ってない。もっと簡潔にまとめよう。現代人の高度な想像力は、教育によって更なる高みを得られるということだ。わざわざ説明されなくても知っているだろうが、じゃああんた、今すぐに同じ事を自分の言葉で説明しろって言われたら、どうせ困るんだろ。どっかで読んだぜ。現代人は情報を受け流すことばっかり上手くなって、理屈を自分で練り上げる力が極端に弱くなっているらしい。
俺はバスに乗っている。別に電車でも良い。斜め前の席に座ってる乗客がくだらないショート動画を見ているのを見つけると気が滅入る。芸能人1人のエピソードを1人辺り10秒くらいで次々に紹介していく動画だった。わずか10秒で語り終えるほどに矮小な話題を、あの類いの大人たちは延々と聞き入り続けてるわけだ。まさに、情報を受け流す力の見せどころって感じだ。肉体だって運動させずに体の栄養ばっかり摂取してたら腹に脂肪がついてくるんだからさ、頭脳だって運動させずに心の栄養ばっかり摂取してたら頭に脂肪がついてくるんだぜ。脳肥満。それは身体的な症状を一切呈さない生活習慣病だ。でも別に脳が肥えてることで困ることって特に無いし、世の中脳肥満なやつらばっかりだから気にされることも少ない。ただ、俺みたいなやつから、ああ、あんたは頭が悪い奴なんだなって思われるだけだ。でも俺はそんなことをわざわざ口に出すことはしない。誰もそんなこと言わない。名前も顔も知らんやつのために「あんた、頭に脂肪が付いてるぜ」なんて言わないし、別に言いたくもない。だから、脳肥満の人間は自分が病気だって事に気付かない。たぶん気付く機会も与えられないで一生を終えていく。ひょっとしたらあんたは、この話を聞けたことに感謝するべきかもな。せっかくだから自分の頭が肥えてるかどうか、自問自答してみたらどうだ。
俺は脳肥満だ。デブが痩せるには必要以上の量の間食や食事を制限して、運動することに集中すれば良い。同じように脂肪が付いた脳を絞るには、受け取る情報の量を一旦絞って、自分の頭を回すことに集中する必要がある。ショート動画の途中で止めて、眼を閉じて何か気になったことがないか考えてみる。そんなことをしてる人間を俺は見たことがない。例えば哲学者はよく散歩をする。日本だとほら、京都の銀閣寺の近くにも哲学の道ってのがあるだろ。あと、アルキメデスは風呂でエウレカを体験した。混乱した頭で就寝して、翌朝目覚めたら理解が整理されていたという話もよく聞く。つまり学者という知能のアスリートは、きちんと脳の働かせ方を知っているのだ。情報を受け取るばかりではなくて、自分の頭で理論を練り上げるための時間を、散歩や、入浴や、睡眠の中に求めている。現代人はどうだ?散歩をする時間は無い。シャワーで手短に行水を済ませる。最近のオタクってのは風呂に入ることすらしないらしいじゃないか。それで、ベッドに入ってスマホを眺め続ける。なあ、あんたら。脳に流入してくる情報の量を制限して、頭を回すことに集中できている時間はいったいどこにあるんだ?
だが俺は双頭の鷲だ。情報を受け取るための頭と理屈を練り上げるための頭の両方を持ち合わせている。つまり俺は脳肥満だが、同時に脳肥満ではない。これは矛盾じゃない。現代人の自由な想像力の世界に矛盾は存在しない。想像力の世界では如何なる論理も存在することを許される。想像力の世界は、まるで宇宙のように広大で、今もなお膨張し続けていて、とても観測しきれない。俺はその宇宙の果ての、真っ暗な部分に何があるのかを見ようとして、今日も脳を回し続けている。人類知の光に照らされすぎて眩しい領域を取り扱った、ショート動画で満足しているただの脳肥満患者に比べたら、俺はかなり遠くまで来てしまっている。もはや俺の意識は現実を捨てて、想像力の世界でしか成立しない論理の領域に来ている。如何なる感覚細胞の存在も拒絶する真っ暗な領域だ。何も見えない闇の中で目を凝らしても、何も聞こえない静寂の中で耳を澄ませても、何の意味もない。ストレスで痩せちまうよな。
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