平和喪失
空があんまり晴れるから、世界が終わるのかと思った。もうさいごだから力を振り絞って、あざやかに、澄み渡っているのかと。でも、それはちがう。世界はこれからも続く。それはわかっている。フィニスは石像みたいに立って、目の前の丘を見上げていた。
死に際かのような色の空に見下ろされる、はげた小高い丘の頂上、そこには石の柱が一本、刺さっている。角張った太いその柱は、「喪失者」を括りつけておくためだけにあるものだ。
「喪失者」は大罪を犯したために、その生命の平和を正統に剥奪され喪失した者である。それは法によって保護されない。あらゆる権利を持たない。よってだれかがそれを殺めたとしても罪に問われることはなく、非難されることもない。つまり「喪失者」は殺してもよい。いや、殺さなければならない。「喪失者」をこの世界から排除することは、「喪失者」以外のすべての人間の、義務なのだ。
いま、丘の上の石柱には、さきほど駆除されたばかりの「喪失者」が縛り付けられている。その周囲には「喪失者」でない人間たちがおり、かたまりになってざわざわと揺れている。男性も女性も、子供も若者もお年寄りもいる。みんなで「喪失者」の無残な骸を取り囲み、ののしったりわらったり、祝いの歌をうたったりしている。
フィニスは丘の下に突っ立って、それを眺めていた。フィニスのまわりにも、人間たちがいる。なにか話しながら様子をうかがう人間たち、なにか飲みながらはやし立てる人間たち、なにか叫びながら通り過ぎる人間たち。なにをするわけでもなくただ棒立ちで見ている、人間たち。
ともあれ、あの「喪失者」はもう消えた。義務は果たされた。あれはめでたく、この世界から駆逐された。だからこの世界は終わらない。これからも続いていく。それは穢れたかがやきで、聖なるにごり。
フィニスはひたすら丘の上を眺めていた。人の壁で、骸は少しも見えない。石柱の先が、死なない空に向かって伸びているのが見えるだけ。
あの、「喪失者」。
あれを、わたしは。
わたしは彼を、殺していない。
「なにをやったの」
フィニスは彼にたずねた。薄汚れた羊毛じみた雲が空に蓋をしていて、空気は重く湿っていた。
「なに?」
さらりと聞き返してきた彼は、先客だった。泉に水を汲みに来たら、ほとりに座っていたのだ。歳は十三のフィニスと同じくらいに見えて、衣は粗末な布切れみたいで、短い黒髪はぼさぼさで、瞳が静かに、ひかっていて、そして。
「なにって、だって……」
フィニスは、首をかしげている彼の額を指差した。ひび割れのような、焼き印が入っている。それは彼の身の上を示すものだった。彼は指先でその印をかるく触って、肩をすくめた。
「うん、『喪失者』だよ」
あっさりと言う。でもそれ以上は、なにも口にしない。問いにこたえない。フィニスは彼に突き付けていた指をきゅっと握り込んだ。
「どうしてそれ、隠さないの」
なんだか飄々とした様子の彼に、フィニスはべつの質問をした。すると彼は、けげんそうな顔をした。でもそれはわざとのようで、すぐに口もとがゆるんだ。彼はこたえた。
「だって、みんなおれをさがしてるだろ」
「さがしてる、けど……」
「だったら隠さないでちゃんと見せとかないと」
あたりまえみたいな言い方をした。そして彼は、ゆっくりと立ち上がる。フィニスは思わず、桶を抱きしめてあとずさった。彼は困ったように、わらって言った。
「だいじょうぶだよ、気味悪いと思うけど、あんまり動けなくなってるから……」
ずいぶん遅い歩みで、近づいてくる。フィニスは、じっと彼を見ていた。ここは高い木々に囲まれた場所だけれど、町はすぐ近くだ。
そのときふと、彼は立ち止まった。なにやら視線をさまよわせ始める。フィニスは眉をひそめた。しばらくなにかを迷っているようだった彼は、やがて決意した様子で口をひらいた。
「えっとあの。おれも、聞きたいことがあって」
思わず目をみはる。まだ距離があるけれど、彼の瞳は晴れた日の泉のように見えた。フィニスはその言葉に、ごく自然にうなずいていた。すると彼はちいさく笑みを浮かべて、フィニスに問うた。
「あなたの名前、聞いてもいいかな」
名前を聞いてもいいかと聞きたくてためらっていたなんて、なんだかおかしな話だと思った。ついあきれてしまったフィニスがこたえる前に、彼は慌てたように名乗った。人の名前を聞きたいんなら先に名乗らなきゃいけないよね、とかなんとか言っていた。
そのあとフィニスは、大声を出した。ここに「喪失者」がいる、と叫んだ。義務を果たそうと、喚き散らした。
人間たちがたくさん駆けつけてきて彼を取り囲み、彼の姿が見えなくなるまでにそう時間はかからなかった。そうして彼は、この世界から取り除かれた。
死んだ。
殺された。
でも、わたしは。
わたしは彼を。サケルを、殺していない。
フィニスは眺めている。この世界が、「大罪」に穢れた聖なる彼の喪失によって、平和な生命を与えられる様子を眺めている。
わたしは、殺していない。
声を出した、だけ。
なにも、できていない。
サケルは、泣きだしそうな顔でわらっていた。いい名前だとか、言って。ありがとう、もういいよとか、抜かして。そんなサケルが生命を奪われたあと、薄汚れていた空が信じられないほどに、晴れ渡った。かぐわしくかろやかな風が、吹き始めた。
だからこの世界は、終わらない。これからも続いていく。それはほんとうに、ほんとうにうつくしくて、うつくしくてうつくしくてうつくしくて。終わりにしてしまえたら、よかったのに。
finis
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