ボーイ・メット・ガール

相宮祐紀

ちょっと、

 あくびするみたいにドアが開いて、電車を降りたらひんやりした。止まったままの電車と身体のあいだを、風が吹き過ぎていく。さわっと、身震いする。

 帰宅の時間帯、ちゃっかり混雑している無人駅。トタンの天井に付いた電灯が、ひとつだけのプラットホームにぼんやり明かりを落としている。前の人に続いて薄暗いホームを流れつつ、楓真ふうまはまくっていたワイシャツの袖を戻した。ボタンは外れたままだけれど、まあいいかということにする。袖口がぴらぴらしていたって、誰もそんなところ見ていないので問題なしだ。

 そろそろワイシャツだけでは朝晩がちょっと、さむい。よく見れば、まわりの人たちはすでにかるい冬仕様になっている。クラスメイトもだいたいそんな感じだ。半袖の人もいるけど。

 楓真の制服のブレザーは、まだクローゼットで粛々待機中だった。クリーニング店のタグを外すのがなんとなく面倒で、まだ触っていないのだ。そんなの三秒で終わるのに。

 夕方の人波に運ばれ、のんきな電子音と一緒に改札を抜ける。うしろでため息みたいにドアが閉まって、電車が出発した。がたごと遠ざかっていく。

 トタン屋根の下から出ると、静かな住宅街には空の紺色が降りていた。しらじらしている自動販売機の前を通り過ぎ、通学鞄のポケットから鍵を引っ張り出しながら、駐輪場に向かう。五年ほど乗っている自転車のかごに、鞄を放り込む。この自転車は、錠が少し錆びていて開きにくい。でもそれに慣れてしまっているので、なにも考えずにがちゃがちゃと音を立てる。はたから見れば、たぶん錠と格闘している人みたいなんだろう。

 無心で自転車に付き合っていた楓真は、ちょっと眉を寄せた。今日はいつもに増して、なかなか開かないようだ。頑固。無ではいられなくなり、いったん落ち着こうと顔を上げる。そして楓真は固まった。顔を上げたら、いきなり人と目が合ったのだ。

 ほかの自転車を何台か挟んだところにいて、同じように鍵を開けようとしていたはずの人と。でも鍵にかまっているなら、視線がぶつかるはずはない。その人は、楓真を見ていたようだった。楓真は動けなかった。まぬけな面さらしてるんだろうなあとか、頭の隅で思っていた。

 その人は、駐輪場の電灯にほの白く照らされて立っていた。ベストに無地のスカートに、緑のリボンの制服は、楓真の学校近くの高校のもので。低めにきりりと束ねた髪に、背筋の伸びた佇まいは、ひどく見覚えのあるものだった。大きく丸く目をみひらいた表情は、びっくりの模範解答みたいだ。そんな顔は、はじめて見たように思った。

 中学生のとき、同じクラスになったことのある彼女だった。彼女は長袖のシャツを着ていた。

 風が吹き過ぎていく。うっすらしたつめたさで我に返って、楓真は彼女に向かってかるく、会釈した。はっとしたように肩を揺らした彼女も、同じようにちいさく頭を動かす。それを見届けてから、楓真は錠に向き直った。顔を近づけて、格闘を始めた。だめだ開かない、ついに壊れちゃったのか。なんだか少し、手がふるえていることに、気づいてしまう。なんだそれ。意味わからない。ばかみたいだ。

 手元も頭も混乱しているうちに、彼女が自転車を動かし始めたのがわかった。楓真は思わず、もう一度顔を上げた。また、ちゃんと目が、合ってしまった。自転車を引き出した彼女は、楓真のほうを見ていた。もうやっぱりなにか、言いたいのに、なにも出てこなくて、目をそらす。風が、吹き過ぎていく。

「ちょっと、さむいね」

 アルトリコーダーっぽい。彼女の声を、ひさしぶりに聞いた。消えない感じがすると、思っていた。空気にとけて、やわらげていくような声だと思っていた。その声を投げかけられた。なさけないのに、なんだかふわふわする。楓真はすっと息を吸って、彼女の袖あたりを見た。

「うん、ちょっと」

 そう返しただけなのに。彼女は笑った。電灯がいきなり、やる気に燃え始めたのかと思った。

 じゃあね、と彼女は言って、自転車を押して行ってしまった。楓真は、単にそれを見送った。じゃあね、に返事をしたのかどうかは、よく思い出せなかった。

 ひどい気まぐれの錠は、そのあと一発で外れた。楓真は自転車を引きずり出してまたがった。立ち漕ぎでひたすらペダルを踏みしめた。

 同じクラスだったけれど、仲がよかったわけじゃない。なにか一緒にしたことといえば理科の実験くらいで、話したこともほとんどない。彼女のことは、見た目しか知らないのと同じだ。中学校を卒業してからは、姿を見ることもなくなった。

 友達から、あの子はあの高校に行ったらしいとか聞いてはいた。毎日、同じ駅を使っていたはずだ。でも、会ったことはなかった。行きも帰りも時間がずれていたか、一緒でも気づいていなかったんだろう。だけど今日は。

 すれ違いうしろへ流れていく風が、ぴらぴらしている袖口からすべり込んでくる。ちょっと、さむいね。なんか思春期みたいに走り抜けているここが、閑静な住宅街とかじゃなければ、わけわからないこと叫び回りたい気分だった。

 彼女は、長袖のシャツを着ていた。その袖は手首までをきちんと覆っていて、でも、ボタンが開いていた。彼女は袖口をぴらぴらさせていた。

 ちょっと、さむいのに。ボタン、留めればいいのに。まあいいかということにしたんだろうか。早く、冬服出せばいいのに。タグがついてるから、面倒なのか。クローゼットの中で、粛々待機させてるんだろうか。そんなことを手間だと思う人には、見えてなかった。

 ああでも。なにやってるんだろう、まったくたいしたことのない言葉を発し合っただけなのに。こんなに、全力疾走する必要なんかない、危ないだけだ。

 楓真はペダルを踏むのをやめた。深呼吸して、サドルに腰を落ち着けた。ゆっくり速度が、ゆるんでいく。電柱に取り付けられた照明が、ぼんやり光る下を通った。そうだ。たったそれだけの、ことだった。

 風が吹き過ぎていく。涼しく感じた。でもやっぱり、ちょっと、さむくて。たぶん冬支度が急務だ。




(おわり)

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