第3話 傷
「もしかして…あんたさっきの!?」
「そうだ。だが君は早く逃げろ!!」
雪穂は青年の方に振り返る。青年は彼女の方を一瞥すると、そのまま『悪魔』の方へと駆けだしていく。
そのまま、男の言葉通りに逃げ出そうと思った。
だが、何とも情けないことに、足が全く動かないのである。
腰が引けてしまった。あまりの強い恐怖に、身体がどこかに縫い留められてしまったかのように、動くことが出来ない。
何とかゆっくり、ゆっくりと脚を動かそうとする。
「……っ、……!」
左足だけ、なんとか立てることが出来た。だが、次の右足が、一歩も動かない。
「なんで、どうして……!」
ふと、目の前を見れば、青年が激しい動きで『悪魔』の相手をしている。
フィルムを早回ししたかのような、あまりにも素早い戦いだった。
目で追うのすら精一杯で、少しでも目を離せば、青年が何をしているのか、何をしようとしているのかすら、目に入らない程に。
「早く、逃げる…逃げんの!あの人に任せてれば大丈夫なんだから!だからとっとと動かないと!巻き込まれるって!」
言い聞かせるように、何とか足を動かそうと力を入れる。が、力を入れれば入れるほどに、逆に力が抜けていく気さえして、また足に力が入らなくなる。
もう肌寒い季節だというのに、肌に汗が滲み始めてくる。
「このくらい、このくらい簡単なはずなのに、ッ……!」
一方、目の前の戦闘の方も、少しだけ動きがあった。
女の方が明らかに押され始め、青年は気づけば女を圧倒していた。
「キィヤァァァァァァァァァァ!!!!!!!!」
近くで聞こえているだけの雪穂ですら、頭が痛くなるほどの絶叫。
だが、青年はそれに少し顔をしかめたと思えば、次の瞬間にはまた体制を立て直していた。
それを見届けた雪穂は、そのままその場から立ち去ろうと、足を動かし、そして。
驚くほど簡単に、その場から抜け出すことに成功した。
後でもしあの青年に会うことがあれば、お礼を言おう。そんなことを考えながら。
身体中にまとわりつくような恐怖も、気づけば消失している。
「はぁ……何とかなった……」
町の中は、様々な人で溢れていた。
蛍光灯や家の明かり、あるいは信号機の赤と緑の光だろうか。まばゆい光の数々が、何故か今の雪穂には、何だか煩わしく感じた。
早く、家に帰ろう。
そう思ったはいいが、どことも知れない場所に走り出したせいで、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまった。
このへん、そういえば歩いたことないな?などと。
ただそれでも、適当に歩いていればいつか着くだろう。そんな風に、何故か楽観的にとらえていた。
だが。いや、だからこそだっただろうか。雪穂は自分の元に近づく影に気づくことが出来なかった。
「…‥痛っ!何ぃ……?」
気付いた時には遅かった。
脇腹に鋭い痛みが襲ったと思えば、その痛みはまるで全身に侵食してくるかのように、激しく彼女の身体の中を回った。
「……あ、あああああああああああああ!!!!!」
喉から発せられる鋭い叫び声は、まるで先ほど会った、『悪魔』のように暴れ出す女のそれと、似ていたように思えた。
全身に嫌な汗が浮かぶ。体温が上がっていく。傷の方をおそるおそる見てみれば、それは掠った程度の小さな傷だった。
毒が塗られたナイフで刺されでもしたのだろうか?だとしたら一体誰が?何の為に?思考がぐるぐると回るが、全く落ち着かない。
「だ、れ、か……誰か、たす、け……」
きっと、あの青年はまだ戦っている最中だろう。そもそも、雪穂は彼が何者かも知らなければ、彼の名前すら知らなかったのだ。
死ぬ前に、せめてあの人の名前だけでも知りたかったと、彼女は柄にもないことを思いながら、そのまま。目をゆっくりと閉じた。
目を覚ませば、見知らぬ天井。
西洋風の建物の中で、雪穂はゆっくりと目を覚ました。
「ん、あれ……あたし、生きて……る……?」
あの時、自分は死んでしまっただろうという確信があった。
もし、ここで天使のような存在が現れて、自分に向けて「あなたは死んでしまいました」なんてことを告げてきでもしたら、そのまま信じ込んであーうんそっかと言ってしまいそうなほどには、あの激しい痛みには死の色が付きまとっていた。
傷があった場所をさすってみれば、少し痛みはするものの傷は塞がっている。
あたりをきょろきょろと見回す。目を覚ました場所は、簡素な毛布だけがかけられたベッド。だが、どうもここが人が住むような居住空間であるかのようには、見えなかった。
どちらかといえば、休憩スペースのような何かに思えた。たとえるならば…雪穂の記憶にあるものの中では、学校の保健室に近いだろうか。
本が数冊置かれただけの棚、ステンドグラスがはめ込まれた窓。それ自体は別に違和感こそないのだが、雪穂はこの場所に全く見覚えがない。
「……もしかしてあたしほんとに死んだんじゃないでしょうね?」
などということを言っていると、部屋が開け放たれる。
寝たふりでもした方がいいだろうか。特に後ろめたいことがあるというわけではなかったが、何故か少し怖くなって、雪穂はそのままベッドに横たわったまま、狸寝入りを始めてしまった。
部屋の方に入って来た人物は、その顔を覗き込むように無言で見る。
何者かが近づいてきたのに気づいた雪穂は、その音を聞いて目を開ける、と……。
「な、なななななななな何!!!?????」
そのまま、驚いて一気に後ずさりをしてしまった。
何せ、ついさっき出会った謎の青年が、自分の顔を覗き込むように見ていたのである。
銀色に輝く少し長い髪と、鋭いながらもどこか優しさを感じる目つき。一瞬だけしか見れていなくても、その青年が美しい顔立ちをしていたことだけは、雪穂にはすぐにわかった。
だが、それだけに、そこまで綺麗な青年の顔が、自分の顔に近づいてしまっていたという体験は、年頃の少女である雪穂にとっては、あまりにも刺激が強すぎた。
「何だ、元気そうだな。その様子なら大丈夫そうか」
「いや待て!!何で顔そんな近づけた!?よりにもよって!?っていうかせめて軽くゆすって起こすとかさあ!?そういうのじゃダメなわけ!?ねえ!?」
「…一体何が不満なんだ?」
「いや、不満とかそういうんじゃなくて!!」
「よくわからないな……」
あくまでも涼しい顔をし続ける青年を見ていると。
「あー、うん。あー!!!うーん……!」
一人騒ぎ続ける自分が急に恥ずかしくなってしまい、雪穂はそのまま顔を真っ赤にしながら、俯いて黙ってしまった。
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