第2話 死のイメージ
その存在は、一見すればただの人だった。
しかし、様子が明らかにおかしい。
街灯で仄かに照らされただけであっても、その様子のおかしさは克明にわかるほどだ。
長くボサボサな髪から覗く両目は血走って焦点が合わず、その下には濃い隈を作り、口からはよだれを垂らしている。
「何……何あれ?」
すぐにでも逃げ出したいと思った。
けど、足が上手く動かない。足がもつれているというわけじゃない。ただ、背を向けて駆けだすというだけの単純な動作が、今の彼女には上手く行えなくなっていたのだ。
恐怖。
それは、人間が感じる根源的な感情の一つ。
その恐怖の前に、雪穂は動けなくなってしまっていた。暗い中に目が慣れて、目の前の女の姿を見てみれば、口の端から時折「ヒッ…」「ヒヒッ…」というような笑い声が聞こえる。
それがたまらなく気持ち悪くて、身体に嫌な汗が浮かぶ。
どうすればいい?通報?不審者として通報でもすべき?でも、そんな所で通報したところで、警察はすぐに来てくれるだろうか?
「………」
喉の奥で唾をのみ込みながら、ゆっくりと後ずさりをする。女もそれに対して、小さく足を進める。
カツン、カツンという革靴の足音が、心臓の鼓動のように一定のリズムで、静かな住宅街の道の中に響く。
もし、何もしてこないのだとしたら、とっとと逃げてしまえばいい。
そうだ、それだけだ。それだけの簡単なことだ。
そう、思った瞬間だった。
もしかすれば、女はこちらがそうしようとした隙でも狙っていたのだろうか?
「イヤァァァァァァァァァ!!!!!!!!」
耳が痛くなるような金切り声をあげながら、女は雪穂に向けて飛びかかってきたのだ。
「何何何何ぃ!!??あたし何かしたぁ!?っていうか、さっきまで何もしてなかったじゃん!?」
目には既に涙が浮かんでいた。みっともなく叫びながら、雪穂は思わず道を駆け始めた。
住宅街というものは、なかなか走っても風景が変わらない。
それはつまり、一度何も考えずに駆けだしてしまえば、自分がどこにいるかなんて、まるで分らなくなってしまうのだ。
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、女が視界から遠ざかったことを確認する。
「何だったの今の……」
突然叫びながら襲い掛かって来た女に、雪穂はただ恐怖することしか出来なかった。
「災難とかいうレベルじゃないんですけど…てか何であたしなの……」
なおも泣きべそをかきながら、彼女はいったん足を止める。
だが、それが良くなかった。
「逃ゲルナァァァァァァ!!!!ワタシカラ、逃ゲルナァァァァァァ!!!!!!」
また、あの頭痛のするような凄まじい叫び声。
こめかみを押さえながら、雪穂はまたその叫び声を振り切るようにして、走り続ける。
「ふっ……ざけんな!マジでふざけんな!!」
後ろを追いかけてくる女に向けて文句を言いながら、住宅街を振り切り続ける。
心臓の鼓動が早くなってきた。呼吸が荒くなってきた。足が痛くなってきた。
しかも、今履いている靴は革靴だ。向こうもサンダルなので大概だろうが、あまり履き慣れているとはいいがたい履物で走り続けるのは、少なからず身体に負担を与える。
だが、それでも女の気配は止まらない。
すっかり暗くなった歩道を、少女は走る、走る、走るーーーー
痛みに悲鳴を上げ始める足を懸命に動かす。全身の血が沸騰でもしそうなほどの、どうしようもないような緊張感。
「っ、……行き止まり……!」
交差点にぶつかった彼女は、信号が赤になっているのを確認し、足を止める。
そしてそのまま、その場にへたりこんで彼女は立ち止まってしまった。
「ここまでは、ここまでは流石に追ってきてないはず……!」
そうであってほしい、という希望を口にしながら、彼女はゆっくりと自分の背後へと、視線を映した。
そこには。
赤く光る眼をした悪魔が、そちらを見て『嗤っていた』。
あれは間違いなく、悪魔としか形容のしようがなかった。
ただの人からは発せられるはずがないほどの、圧倒的なプレッシャー。心臓を掴まれて、そこに手を添えようとでもしている、そんな想像をしてしまうほどの、強すぎる圧。
その圧を前に、雪穂は遂に、まったく動けなくなってしまった。
「……あれ……ただの人間じゃない……」
違和感はあった。
もしかしたら、何か只者ではないのではないかと。
だが、そんなわけはないと、彼女は高をくくっていた。逃げればいいのではないかと、楽観的に考えてしまっていた。
「アナタハ、ココデ、死ネェェェェェェ!!!!!!」
すさまじい叫び声と共に、またも女は雪穂の方へと飛びかかってくる。
雪穂はそのまま身体から大量の血を流し、ドサッ、という音と共に、その場に倒れ込んだ。
自分はこんな簡単に、あっけなく死んでしまうのかと。
不思議と絶望のようなものはなかった。だって、もうこうなるのは当たり前の結果で……。
気付けば、自分は同じようにその場に立っていた。
そして、雪穂は理解する。今まで自分が見ていたものは、実際に自分が死んでしまう光景ではない。
『死のイメージ』だ。
悪魔が放つプレッシャーに負けて、自分が死んでしまうというイメージをしてしまい、それが現実であるかのように、雪穂には見えてしまっていたのだ。
途端に、目の前の存在が恐ろしくてたまらなくなる。
否、今までも恐怖というものは覚えていたが、明確なイメージとして、その存在への恐怖が、現実のものとして彼女の方へと襲い掛かってくる。
万事休す、か。
まだ歩き出そうとする脚は動かない。
いや、逃げ切れたとしても、きっとこの『悪魔』は自分を追いかけてくるだろう。せめて、女が自分の方を追いかけてくる理由くらいは、知ってから死にたかったな、などと考えていた、その瞬間。
彼女の目の前に、光が飛び込んできた。
雪穂と『悪魔』の目の前に、割って入る存在があったのだ。
「君は早く逃げてくれ。彼女は僕が相手をする」
「もしかして…あんた、さっきの!?」
先ほど校門で出会った青年が、雪穂の方へと駆けてきていたのだった。
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