少女とフミ(2)
それから二人は、人目を忍んでは逢瀬を重ねるようになった。真っ暗な新月の夜に会うことを約束として、顔を合わせれば静かな駆け足で、今は使われていない古い倉庫に二人、身を隠した。
そこで何をするのかというと、フミの話を聞かせてもらう。彼女の日々はすべてがあの小さな座敷牢で完結するが、彼は違う。生まれ育った故郷、今まで出かけた場所、今まで出会った人、彼女が聞きたいということを、すべて包み隠さず話してくれた。そのすべてが新鮮で、眩くて、彼女は外への憧れをより一層強まらせた。
ある日、故郷に残した家族の話になった。そして、まるでそのために準備をしていたのかのように、フミがこっそり何かを持ってきて、彼女に見せてくれた。それは、薄く長い紙であり、墨でなにやら書かれてある。彼女は文字を知らない。だから代わりに、フミが音読をしてくれた。ゆっくりと、優しい声で。
それは、故郷にただ一人残った、大切な人からの手紙だった。
『──元気ですか。こちらは何も変わりません。先日の雨で近くの川が増水し、畑に植えた豆が苗ごと流されました。他の苗は無事です。元気に帰ってくることを祈っています』
とても短い内容の手紙を読み終えると、なぜか彼女は
「短いな」
「これは、手紙っていうんだ」
「てがみ、ねぇ」
フミは再び最初から文字を指でなぞり、最後に書かれた差出人の名前を撫でた。
「こうやって紙に残すことで、いつだって会える」
「変なの、会えてないじゃん」
「ちょっと表現が悪かったかな。近くに感じるんだ。手紙をくれた人の想い、その人を取り巻く季節、その人の息遣い、書いている時の表情。見えるわけなんてないのに、手紙を読むことで近くに感じるんだ。それにね」
「まだあるのかよ」
「寂しくなったら、読み返している。一人じゃないって、そう思えるんだ」
情景や心理に思いを巡らせるなどは、彼女にはまだ難しい話のようで、首をかしげて手紙をのぞき込む。ただ、そんな中でも一つだけ分かったことがある。手紙の差出人はフミにとって、とても大切な人間だということを。
「これがこいつの名か」
「そうだよ。
彼女は面白くないようで、口をとがらせてそっぽを向く。名前が無い自分に対しての嫌味のようにも思え、少し不愉快になった。フミもしばらくしてから、自分がとんでもない失言をしたことに気付き、慌てて謝る。
「ごめん、無神経だった」
彼女はツンとしたまま、フミの手から手紙を奪う。埃だらけの板張りに仰向けになり、菜種油の小さな灯が紙の裏でゆらゆらと動く様子を見ながら、読めない文字をただただじっと眺めた。
「私もお前に書いてみたい」
「手紙を?」
「うん」
彼女は物心ついてから、学びの機会を与えられていなかった。必要最低限の人間としか接さず、いざようやく外に出てみると、言葉も意味も知らないものばかりと出会う。自分の見聞の狭さと無知に、彼女は初めて自分が、『何も知らない』ということを知った。この手紙のやり取りのように自由に文字を紡ぐことができて、誰かと文をやり取り出来たら、どれだけ楽しかろう。誰かを近くに感じることができて、自分の存在を感じてもらえることは、どれだけ嬉しかろう。
「書いてみようよ」
「でも」
彼女は文字を一切知らない。いきなり書けるなら苦労はしない。何不自由なく文字を知っていたら、もしかすると自分は、あんな狭い部屋に押し込まれずに済んだのかもしれないと思った。自分の境遇を誰かに伝えることができたら、何かが変わっていたのかもしれない。
今の境遇は、自分が作り出したものだと、無知が作り出した罰なのかもしれないと、彼女はそう考えた。
「文字が書けたらさ」
「うん」
「なにか変わるのかな」
「変わるよ、とても」
フミは、「何が」変わるか、そこまで言及はしなかった。その代わり、彼女の目をじっと見つめ、小さく微笑んでこう答えた。
「名前がないと言っていたね。そんな君が自分で名前を考えて、それを名乗ることができる。自分だけの文字の羅列が、これからの君を作るんだ」
その瞬間、彼女の視界は突然鮮やかになった。自分に名前を持てること、自分で考えて名乗れること、自分が自分であるという存在証明ができること。それは彼女が胸の底で渇望していたものだった。
「文字を書きたい」
「うん」
「でもどうやって」
「簡単だよ」
近くの厩舎から馬の嘶く声が聞こえて、思わず二人は顔を寄せ合って声を潜めた。
「教えてあげるから」
フミはどこまでも優しい男だった。そして、やはり期待通りの答えが返ってきたことに、彼女は破顔した。
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