少女とフミ(3)

 ──ここまでが彼女がフミから文字を習うようになった事の顛末である。

 最初は筆の持ち方すら知らなかった彼女が、今では仮名を書けるまでになった。その文字は決して美しいとは言えなかったが、フミは彼女の努力を讃え、そして日々の小さな成長を喜んだ。気付けば彼女にとってフミは、孤独な座敷牢でひとり暮らす無味乾燥した生活の中で、とても大切な心の支えとなっていた。どれだけ夫に粗雑に扱われても、夫の取り巻きから乱暴に扱われても、世話人から「穀潰し」と憎まれ口を叩かれても、フミがいることが希望となっていた。

 そして、いつかはフミが連れ出してくれる。この暗く狭い世界から救いだしてくれると、仄かな希望を胸に抱いていたのだ。





 「こ、ち、ら、は、と、く、に、か、わ、り、は、あ、り、ま、せ、ん。も、う、す、ぐ、そ、ち、ら、に、い、っ、て、さ、ん、ね、ん、が──」


 ──こちらは特に変わりはありません。もうすぐそちらに行って三年が経ちますが、いつ頃帰ってきますか。先日、鎮西山ちんぜいざんの麓に、西から来た行商が珍しい果物を置いていきました。その種を畑に蒔いてます。実がなるまでには時間がかかりますが、今朝、その芽が顔を出しました。あなたにも食べてもらいたいです。


 郷里に残した大切な人からの手紙、漢字の上に全てかなを書き足して彼女に渡した。季節の移ろいと共に、必ず一通の文が届く。大事な手紙だというにも関わらず、フミは彼女が読めるように手を加える。紙越しに伝わる違う世界の風景を、彼女にも感じてほしいと思ったからだ。

「その鎮西山に、そろそろ行くのか」

「うん」

「どれぐらいで帰ってくるんだ」

 文の中の知らない漢字──「種」や「芽」を、フミが持ってきた裏紙に書いて練習する。しかし画数が多いぶん難しいようで、墨で潰れてはもう一度書き直すを繰り返す。だが、彼女はとても簡単な漢字ならば、自分で書けるようにまでなっていた。

「うん……」

 フミは返事をしない代わりに、彼女の頭を優しく撫でた。大きな手のひらから慈しみを感じる。彼女はその手が大好きだった。

「鎮西山は、ここから遠いのか」

「そうだね、歩いて半日以上は掛かるかな」

 押戸の向こうに広がる、まだ暗い東の空を見上げる。星が無数に浮かび、美しい夜である。遠くから梟の鳴き声だけが小さく聞こえる。

 その夜空の下、彼女にとってここ以外の全てが未知の世界であり、「鎮西山」も同じく未知の世界である。だが、フミにとってはその「鎮西山」こそ帰る場所であることを、彼女は分かっていた。手紙を読むたびに小さなため息をついては東の空を見上げる、彼の胸の内をなんとなく分かっていた。

 ここは、フミにとって帰る場所ではないのだ。

「あのね」

 返された手紙を受け取ると、丁寧に折り畳み懐に仕舞う。少しだけ悲しい顔をしていた。何を言わんとするのか、何も知らない彼女でも何となく察しがつく。

「今度帰るんだ」

「で、いつ帰ってくるんだ」

「……もう帰って来ないんだよ」

 フミは改めて彼女の前に座り直す。そして小さく咳払いをすると、真剣な顔で彼女を見つめた。いつも優しく全てを許す彼の瞳が、戸惑いと寂しさで揺れていた。他人のことなど今まで興味が無かった彼女が、初めて人の悲しみという感情を理解した瞬間だった。

「……帰ってこい」

「それだけは出来ないんだ。決まりなんだよ、ここの。使いわらべは十五までしかここにはいられないんだ」

 主に仕える使い童は、十五歳までしかこの城内にいることができない。それはこの城の慣わしであり、規則であった。

 もともとは地方の小さな領主の長男長女以外の子供が、ここに住まう官士の使い童として働くことで「城内に務めていた」という箔を付け、縁談などで有利に物事が運ぶために行われていた慣わしである。使い童を取る官士にもしっかりとした規則があり、過酷な労働や危険な事をさせてはいけない、暴力を振るってはいけない、懲罰として折檻をしてはいけないなどの禁則があるのだ。衣食住と守られた暮らしを保証され、城内の誰それという官士に仕えていたという箔まで付く。だからこそ地方の小さな領主は自分の子供をこぞって使い童にさせたがるのだ。そのためならば、仕えさせたい士官に賄賂を渡す者もいる。


 だが彼女は、そんな使い童の事情など知らない。


 「やだ」

 はっきりと、そう言った。力強い声だった。手紙の主が「いつ帰ってきますか」と、毎回書き記すたびに、彼女の胸は大きくざわめいた。できることならその手紙を破り捨てて、ずっとここにいてほしいとすら願った。だが、それをしたところでフミは悲しい顔をするだけであるし、出ていくことは変わらないと分かっていた。

 彼女は、自分が、その手紙の主である「名木なぎ」になりたいと思った。彼の帰りを待つ、健気な女でありたい。だが、現実はそうは上手くいかない。見送る側である自分が悔しくて、大きな目から涙がぽろぽろと溢れてくる。

「泣かないでおくれ」

 頬に伝う涙を親指で優しく拭うと、フミは彼女を優しく抱き締めた。とても優しく、温かい手が髪を優しく撫でるたび、涙は更に溢れていく。でもその手は、鎮西山で待つ大切な人と手を繋ぐためにあるのだと、自分だけの手では無いのだと分かっていた。悔しさが込み上げる。


 この日初めて彼女は恋を、叶わない恋を知ったのだ。

 文字が書けた喜びも、広い世界を教えてくれた驚きも、些細な言葉で腹が立った怒りも、そして叶わぬ恋だと知った悲しみも──、人間らしい感情を教えてくれたフミがもうここからいなくなることに、絶望を知った。


 「戻れないなら、連れ出してほしい」

 精一杯の勇気を振り絞った。座敷牢しか知らない、暴力と嘘と欺瞞と軽蔑と、そんな汚泥のような世界しか知らない彼女は、彼の救いの手が差し伸べられることを望んでいた。

「君の気持ちは分かるよ」

 抱き締めた身体をゆっくりと離し、彼女の手を優しく握る。

「分かるけど、できないんだ」

「なんで」

「君は既に夫がいる。人の妻を奪うことは、許されないことなんだ」

 彼女の心臓が一瞬、止まった。

 フミにはこれまで、自分の境遇は一切明かしてこなかった。座敷牢に住んでいることも、自分には夫がいることも、勿論言わなかった。それなのに、フミはそれを知っていると言うではないか。

「……なんで知っているんだ」

「君のこと、この城内では噂になっているんだ」

「噂?」

「座敷牢には殿の妻が住んでいる、って噂だ」


 それは、伝聞で城内に伝わる、ある噂である。

 罪人を幽閉する座敷牢に、殿の妻がいるという。

 誰も顔は見た者はいないが、たいそう酷い顔をした醜女しこめであるという。

 殿はそんな妻を見せることが恥と思い、座敷牢に幽閉しているという。


 だがフミは彼女の心情に配慮し、その噂話の仔細は話さず、「座敷牢には殿の妻がいる」と凄惨さを取り除いたふわりとした言葉だけを彼女に話した。

「君がどこから来ているのか、別れた後でこっそりと後を追ったことがある」

 申し訳なさそうに呟いたその言葉を聞いた瞬間、彼女は強い動悸と共に胸が吐きそうなほどに締め付けられる感覚に襲われた。

「見たんだ、座敷牢に続く門を開ける君を。忍び足で静かに周りを警戒してそこに入る君を」

「違う」

「殿の妻が、私と同じくらいの歳であると聞いたことがある」

「違う!」

 大きな声で言う。咄嗟にフミは彼女の口を塞ぐ。彼女も自分が置かれた状況に我に返って、小さな倉庫の中でも関わらずに思わず辺りを見渡した。

 「君は、あの座敷牢に住む、殿の妻だったんだね」

 俯いて頭を振る彼女の手を、フミは力強く握った。責める口調ではなかった。呆れる口調でもなかった。ただ淡々と事実を述べているにも関わらず、彼女の背負った悲しみに寄り添うような柔らかな声色だった。

「君を連れ出したいと思っている。鎮西山の景色を見せてあげたい。冬に咲く椿も、近くを流れる清らかな小川も、春に咲く桜も」

「じゃあ連れ出してくれよ」

「こればかりは、どうすることもできない」

 彼はもう一度彼女を抱き締めた。背中を優しく撫で、彼の小さな鼓動が胸に伝わる。自分の夫にさえ、抱きしめられたことは無かった。親の記憶など無い。物心ついた頃から、彼女はあの小さな座敷牢で一人で暮らしてきた。

 彼に出会わなければ、愛を知らずに済んだ。自分がいかに異常な環境に置かれているか知ることもなかった。狭い座敷牢だけで生きることに何の疑問も持たなかった。

「おまえに出会わなければよかった……」

 彼女はただ、嗚咽を殺して涙を流すことしかできなかった。フミの着物の肩が涙で濡れる。フミは何も言わずに、背中を優しく撫で続けた。

 自分に名前があれば、私は彼の中で忘れられない存在になれたのかもしれない。彼女はそう悔やみながらも、置かれた境遇に抗うことも逃げ出すこともできない、愛をくれない夫に閉じ込められ、いいように扱われ、そうして自分の人生が朽ちていく、そんな自分の存在に酷く嫌気がさした。


 死ねるのならば、いますぐ死にたいとすら願ってしまった。


 瞼を閉じる。鎮西山の麓で、赤い椿の花を持ち、自分に微笑んでくれる彼の姿を想像する。決して叶わぬ幻想を浮かべながら、東の空が静かに朝を迎えようとしていた。


(続く)

 












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