座敷牢少女の七国平定記

雑古兵子

少女とフミ


 その少女には名前が無かった。


 ある者は『おまえ』と呼び、またある者は『おい』と呼んだ。彼女の夫だけが名前を呼んではいたのだが、まるで親から隠れて飼育している生き物のように、呼ぶ名前は毎回ころころ変わるし、物心がついてしばらく経ったころには『自分には名前がないのだな』と彼女は自覚するようになった。だが、名前が無いからと言って不自由は無かった。自分の名前を呼ぶものなど日ごろ近くにおらず、一日を全て一人で過ごすことばかり。だから、名前はそれほど重要なものではないと、それが彼女なりの解釈であった。

 世話人が毎回飯を運びには来るが、言葉を交わしたことがない。戦や討伐など、夫が遠くへ赴く時のみ、彼女はそれに帯同する。かと言って、特別な会話はしない。硝煙や鉄錆の匂いを、戦場から離れた急造の小屋で嗅ぎながら、時折ふらりと帰ってくる夫と二、三語ほど会話をして、『手当て』をする。

 時には夫の側近達にも『手当て』をする時がある。夫よりも横暴で横柄な態度であったから、彼女は彼らが嫌いであった。

 一度だけ、側近の男のあまりにもぞんざいな態度に腹を立て、傷口に唾を吐いたことがある。すると、彼女は男に馬乗りにされ、力いっぱいに顔面を数発殴られた。抜けかけの乳歯が二本、ポロリと畳に転がったことを、今も鮮明に覚えている。夫は近くにいたはずなのに、止めに入らなかった。腕を組んで柱にもたれ掛かり、その様子をぼんやりと覇気のない目で眺めるばかりだった。


 彼女はその一件以降、夫という存在をいまいち信用できなくなった。そもそも『夫』とは何なのか。たまに顔を出して、二、三語言葉を交わして、自分が殴られても助けない程度の、そういう存在が『夫』なのか。いくら考えても教えてくれる存在など近くにはいないから、答えは分からないままだった。



 城下町では年に一度、お堀の近くで花火が上がる。東某からの独立を祝い、毎年決まってこの時期に、西国の各地で祝いの祭りが行われるのだ。彼女が住む半地下の座敷からも、高い木枠の窓越しに花火が見える。物心がついてから数えて十三回、彼女はここで、この花火を見た。火薬が炸裂するような物騒な物音と共に、色とりどりの花弁が夜空に散るものだから、日常を退屈に過ごしていた彼女にとって、それはとても数奇で美しい特別なものだった。


 さて、話を少しだけ戻そう。祭りが始まる一か月前から、段々と城内が慌ただしくなるのだ。お堀のすぐ外は、この界隈では一番栄えている町だから、賑やかな声が夜も響く。やぐらを組み立てる音や、荷車が砂利をはねる音、商人の掛け合い。寂しい夜も、この時期だけはうるさいほどでありながら、その騒音が彼女の心の寂しさを和らげた。それと同時に、ぽっかりと空いた自分の心の空洞の正体が『寂しさ』であり、その寂しさは『ひとりぼっち』から生まれることを、彼女はその時やっと気が付いたのだった。

 世話人とたまに連れ出す夫以外、誰との接触も無い彼女にとって、この孤独は避けようは無い。そう思っていたのだが、事態は突然大きく動く。



 彼女はある日、生まれて初めて、で外へ出ることができたのだ。



 男の名前はフミと言った。漢字で書くと『史』。だが、何度男が紙に書いて教えても、彼女は漢字が分からなかった。それどころか、ひらがなも分からない。彼女は文字という存在を知らなかった。

「分からないからもう一度」

 隣で頬を膨らませながら、彼女は男の肩に頭を乗せた。男は微笑みながら、その細い指が握る筆で、紙に文字を書く。

「これが『ほ』、そしてこれが『し』」

 男の声は、今まで出会った誰よりも優しく、心地よかった。文字が分からなくては何度も癇癪かんしゃくを起こす彼女を優しくなだめ、落ち着くまで隣で微笑み、黙って寄り添った。人とは冷たいものだと思っていた彼女にとって、フミの存在は衝撃的だった。

「書いてごらん」

 彼から習った筆の持ち方で、ぎこちなく紙に墨を滑らせる。不格好な『ほ』と『し』が二つ並ぶ。「ほ、し」と彼女が声に出すと、彼は窓の外を指さした。空には、明るく輝く粒が散らばっている。

「あれが『ほ、し』だよ」

「ふうん」

 さして興味の無いように返事をしながら、一緒に空を見上げる。だが、いつも半地下の座敷から見えた謎の光る粒が「ほし」であると知った衝撃は、彼女にとって何よりも大きかった。この世界の見えるものすべてに名前があることを、彼から学んだ。

男はそれからも時間の許す限り、ひらがなと共にたくさんの名前を彼女に教えた。


 そ、ら。

 や、ま。

 と、り。

 み、ち。

 う、ま。

 む、し。

 か、ぜ。


 まだまだある。座敷にいては決して知ることができなかった存在に触れ、彼女の世界は急に拓けた。

「これは?」

机に乗った小さな花を、彼女が指さす。黄色い花弁が萎れていて、内側に茶色く硬い無数の何かがびっしり詰まっている。

「これも『は、な』だよ」

「この前のも『は、な』だったろ」

「そうだね」

 彼は彼女の手を優しく取りながら、筆を進める。紙には、ひ、ま、わ、り、と四つのひらがなが並べられた。

「これは『ひ、ま、わ、り』と呼ぶんだ。そしてこの前、俺が持ってきた花は」

 再び筆を手を取る。ゆ、う、が、お、と書き記した。

「この前の花は『ゆ、う、が、お』というんだ」

「『は、な』じゃないのか」

「花にもいろんな呼び名があるんだ。星だってそう。風だって、虫だって、鳥だって、そこにはそれぞれ名前がある」

 男の言っている意味が分からず、彼女は段々と不機嫌になった。──花は花、虫は虫、鳥は鳥じゃないのか。ならば、名前が無い自分という存在は、そんな小さなものにも負けているのか。

眉をひそめる彼女の頭を優しく撫でながら、男はひまわりの種を取り出し、手の平に乗せた。

「これは『た、ね』。『つ、ち』に蒔くと『は、な』が咲く」

「『ゆ、う、が、お』が咲くのか」

「ひまわりの種からは、ひまわりしか咲かないんだ」

 彼女はより一層つまらない顔をした。恨めしそうに手の平の種を睨みつけながら、「『ゆ、う、が、お』の方が綺麗だった」と呟いた。

「夕顔は夜に咲くからね。昼に咲くひまわりだって、とても綺麗なんだよ」

 滅多に外に出られない彼女にとって、悪気の無い男の言葉は、とても不愉快に感じた。




 さて、彼女が外の世界に出られたことには、数個の偶然が重なったからである。


 彼女が暮らす半地下の座敷は、正確には牢屋だった。城内に懲罰目的で作られたそこはもう長いこと使われておらず、そこに畳を敷き詰めて、座敷牢を彼女のために作ったのだ。何も知らない彼女には「部屋」ということにしている。しかし、牢を抜け数歩歩いた出入り口には、堅牢な扉に頑丈な鍵が掛かっているものだから、幼いながらに「閉じ込められている」ということは分かっていた。

 だが、ついひと月前、酷い豪雨によって半地下だった座敷牢が浸水した。どうやらその際に鍵穴にも泥水が詰まり、鍵が掛からなくなった。さらに、浸水により木製の出入り口の扉は腐食したため、これまた簡易的な木の格子の扉が取り付けられる。これまでどっしりとした木の扉で遮蔽された外の世界が、格子越しに見えるようになったのである。

 更に偶然は重なる。座敷牢の修理の間、彼女は夫の住む寝所の離れに住むことになった。世話人が定期的に見回っていたが、以外にもその時間は短く、彼女は半分自由の身であった。彼女の監視は、逃げ出さないという目的ではなく、他との接触を避けるということに重きを置いていた。そのため、決められたかわや以外にも、離れの中にある中庭や廊下は散策をして良いとのことだった。つまり、離れから出なければ好きに過ごして良いとのことだ。更に、ちょうどその頃、夫は九州合議のため不在にしていた。口煩くちうるさく面倒な側近もいなかったことは好機であった。

 さあ、修理も終わり、明日元の場所へ戻ることを伝えられた、その日の昼下がりのことである。玉砂利の中庭で石を投げながら遊んでいると、その砂利の中になにやら光るものが落ちていた。近づいて拾ってみると、それは小さな鍵だった。しかも、同じものが二つ。

 ──なぜここに?ああ、そういえば世話人がこの中庭で布団を干していた。おそらくその世話人が落としたのであろう。そして、その鍵はおそらく、自分がまた戻る座敷牢と外を通じる扉の物だと、直感で気付いたのだ。

 彼女は鍵を一つ懐の中に入れた。そして素知らぬ顔で再び縁側に座り、石を投げて遊ぶふりをした。しばらくしてから世話人が真っ青な顔で中庭を捜索しに来て、玉砂利の上を這いつくばっていた。彼女はそれを愉快に見ていた。そうしてしばらくすると鍵をようやく見つけたのだが、一つ減っていたことに気付き、世話人は一人で勝手に狼狽えていた。いつもは話など掛けに来ないくせに、珍しく彼女に『中庭に何か落ちていなかったか』と尋ねたが、彼女は知らないと嘘をついた。鍵の一つは予備であったが、それを無くしたと言えば折檻せっかんされるのだろう。世話人はそれからも長いこと中庭を這いつくばって捜し歩き、遂に諦めたのか、青ざめた顔をしてその場を離れた。


 そして、元の座敷牢に戻ってから二日目のことである。厩舎から馬の鳴き声が聞こえないことから、夫らは合議からまだ帰っていないと考えた彼女は、座敷牢の出入り口、木の格子の扉の前までそろりと歩く。湯浴みを終えれば世話人はもう来ないことは知っていた。重い木の扉の時は外に見張りがいるかと思ったが、格子になって拍子抜けした。見張りなど一人もいないのだ。彼女を戦に連れ出す時、周りには見張りが大勢いたものだから、常に見張りが自分にはいるものだと思っていた。

 今しかないと、拾った鍵を手に、格子の間から無理やり鍵穴に差し込む。もしかしたら鍵が変えられているかもしれないと思っていたが、杞憂きゆうであった。しばらく鍵穴と格闘したのち、かちりという音と共に解錠したのだ。ゆっくり格子を押せば、軽い扉がふわりと開く。自分はこんなちっぽけなものに自由を奪われていたのかと思うと腹立たしくなり、扉を元に戻した後、右の拳で扉を思い切り殴った。

 自分の足で歩く外の世界は新鮮で、遠くに思えた空にも手が届きそうだった。いつもは静かな夜の城内もなぜかこの日はとても賑やかで、彼女は顔を俯き隠しながら、とりあえず一の門に向かって足早に歩く。


 その時だった。

 近くで砲弾が炸裂するような音が聞こえて、彼女は思わず腰を抜かした。砂利に座り込んだまま、その頭上で美しい花火が咲く。

 この日は、東某からの独立を祝う、年に一度の祭りの日だった。

 座敷牢から見えていた花火とは、迫力が違う。ここまで力強く、美しく、おぞましいものだとは思わなかった。頭上で炸裂しては、火の粉がこちらに降り注ぐような気がして、彼女は思わず頭を抱えて身体を丸めた。四角い窓から見えるものと、時折連れ出される戦場だけが世界の全てだと思っていたからだ。

「大丈夫ですか」

 ふいに、頭上から男の声がした。間違いなく自分に言っているのは分かっていた。しかし夫から言われていたのだ。自分と、側近以外の男とは決して言葉を交わすな、と。だが彼女は、そこまで夫に対して従順にはなりきれない。自分が殴られてもただ傍観するだけの男に、何やかんやと命令されることを好ましく思っていなかったからだ。

 彼女は顔を上げ、男に手を伸ばした。助けを求めたいからではない。それは非情で薄情な夫に対する、小さくもあり、とても大きな反抗だった。

 男は──フミとは、そこで知り合った。たまたま花火を見に外に出たところ、砂利にうずくまる彼女を見つけて声を掛けたのだ。城内は男だけなく女も多い。しかし、少女のような幼さが残る容貌の者は見たことがなかった。フミは純粋に、彼女がどこかから入り込んだ迷子だと思い、声を掛けたのだ。

「具合が悪いの」

「違う」

 首を振った後、彼女は一の門を指差した。

「外に出たい」

「通行証はある?」

「つうこうしょう?」

「どうやってここまで来たの」

「歩いてきた」

「あの門を通った?」

 ──疑われている。段々と質問が尋問のように思え、彼女は自分から握ったはずの手を振り払い、一の門とは逆方向に走っていく。城内では花火を見上げるものばかりで、誰も素足で駆ける少女など見向きもしなかった。フミは彼女の後を追った。普段から動かない彼女には体力などそもそもなく、あっという間にフミに追いつかれてしまった。

「離せ!」

 自分が脱走した人間ということを忘れ、フミから掴まれた手を振り払おうと必死に抵抗する。それでも自分より大きな男の力では簡単に振りほどけず、観念した彼女は、ああ、また自分は殴られるのだと、覚悟して目を固く閉じた。

「大丈夫、何もしないから。その代わりにこれを」

 フミは自分が履いていた草履を脱ぐと、彼女に渡した。足裏は傷だらけで血が滲んでいることに気が付いた彼なりの、自分ができる中で精いっぱいの優しさだった。

 彼女は黙って草履を受け取ると、すぐに履いた。そのまま逃げても良かったのに、それができなかった。

 人のやさしさに、初めて触れたからだ。

 悪意、暴力、欺瞞ぎまん、無関心、嘘、嘲笑。それが人の全てだと思っていた彼女には、フミの優しさが怖くも思えた。

「君がどこに住んでいるのかは知らないけれど、気を付けて帰ってね」

 男の手が彼女の頭上に来る。叩かれる、そう思って目を閉じた刹那、優しく手の平で撫でられた。頭を撫でられる、ということも初めてだ。彼から無条件に与えられる優しさが怖くもあり、だが、どこか悪い気はしなかった。

「ねえ」

 背を向けて再び来た道を戻るフミに、声を掛けた。花火の音に負けないよう、大きく、強く。

「また会えるか」

 フミは優しく笑って手を振った。

「願えば会えるよ」

 これが、フミとの出会いだった。物心がついてから十三回目の花火が上がる、ある暑い日のことだった。


 それ以降、彼女の心はフミに囚われた。会いたい、会いたい、あの男に会いたい。しかしそれは恋心ではない。生まれて初めて出会った人の優しさに、もう一度触れてみたかったからだ。結局あの日は、花火が全て打ちあがり終わる前に、座敷牢に自らの足で戻った。あの後少しだけ城内を歩いてみたが、一の門も二の門も、すべて門番が経っており、周囲には高い塀もあったことから、自分が外へ簡単に出られないと悟った。しかし、きっとあの男が近くにいる、きっとまた会えるというささやかな望みが、彼女の窮屈な日々に一筋の光を与えた。貰った草履は、座敷牢の畳をめくり、その下に隠した。そのせいで畳はやや浮き上がって不自然にも見えたが、そもそも手入れなど何も施されていない小汚く古い場所だ。世話人はあからさまな不自然さすら全く気にも留めなかった。


 その後も彼女は人目を盗んでは何度か外に出てみたが、なかなか彼とは出会えなかった。


 ──やはりもう会えないのか。あの男が言ったことは嘘だったのか。


 そう思った冬のことだった。


 珍しく城内にも雪が積もった冬。彼女はついにフミに出会うことができた。

 人目を忍んで息を潜めた夜の闇の中で、井戸へと水を汲みに行くフミの姿を発見し、彼女は一目散に駆け寄った。この喜びを全身で表現したくても、大きな声を出しては周囲に気付かれる。彼女は一度大きな深呼吸をして息を飲み込むと、両手で彼の手を握った。その手は、とても温かかった。

「会えた」

 突然現れた彼女にフミは少しだけ驚いて、そしてすぐに優しく微笑んだ。

「俺も願っていたよ、会えますように、って。元気そうでよかった」

 フミは水を汲んだ桶を抱え、城の東へと向かう。二人は肩を並べ、言葉を交わすことも無くゆっくりと歩く。白く雪化粧された砂利の上を、フミから貰った草履が踏みしめる。雪が周囲の小さな雑音すらも吸収して、城内はいつも以上に静寂であった。彼女は、微笑みながら歩くフミの横顔を見つめた。通った鼻筋に、少し腫れぼったい眠そうな二重瞼。自分と違う明るい髪。夫やその側近よりも、彼はずっと若かった。

「俺の名前はフミ。君の名前は」

 突然、そう問いかけた。彼の名前を知ったのはこの時である。そして、彼が足を止めたその場所は、立派な楠が目印の、東院の裏玄関であった。

 城内には中院を中心として、西院、東院、南院、北院がある。東院は読んで字のごとく、東部の各地を収める官士かんしらが集う院である。徴税、戸籍、水治、治安、徴兵など、役を担う者がここで日中仕事をする。その中でも更に上の役は、この院に寝所が構えてある。そしてそこに寝所があるということは、それを世話する使い童がいる。自分以外のことに無知である彼女にとっても、院にどんな人間が住んでいるのか、それぐらいは分かる。

「偉いのか」

「え?」

「おまえ、偉いのかって聞いているんだ」

 彼女は一歩後ろへ足を引いた。先程までの喜びはどこへやら、警戒を強める。柔らかだった彼女の眼が、一瞬で険しくなった。腰を屈めて足元の砂利を一握りし、投げつける構えを取る。

 夫も、夫の取り巻きも、彼らが通れば皆が平伏する。何も知らなくても何となく分かる。偉いからだ。偉いから、皆が頭を下げる。偉いから、暴力をふるってもいい。偉いから、そいつの命令には絶対に従わなければならない。

 彼女にとって偉い人間とは、絶対的な嫌悪の対象であった。

「ただの官士の使い童だよ」

「だが、そこに住んでいるのだろう」

「住んでるけど、偉くない。そもそもここの人間ではないんだ」

「どこの人間だ」

鎮西山ちんざいざんからだよ」

「ちんぜいざん」

 聞いたことのない名前に、思わずオウム返しをする。それもそのはず、城内の中の、そのさらに小さく狭い半地下の座敷牢しか世界を知らない。

「ほら」

 彼は桶を足元に置くと、胸元から何かを取り出した。手の平に乗る大きさの紙に包まれたを、彼女に渡す。

「どうか機嫌を治しておくれ」

 包みを開けば、そこには剥いた栗が数粒入っていた。彼女は座敷牢で暮らしているが、食事の時にごくたまに出される甘味には目がない。栗もその中の一つだ。さっきまでの警戒などすっかり忘れ、思わず喜んでその場で栗を頬張った。

「おまえが偉くないなら、別にいい」

「ふふ、良かった」

 栗はあっという間に無くなった。まだ無いのかと尋ねると、小さく首を振る。

「俺が仕える白武しらたけ殿がくれたんだ。白武殿は甘いものが苦手でね、夕食に出た物をこっそりくれるから、また貰ったらあげるよ」

「忘れるなよ」

 フミと彼女は、無意識の会話のうちに「また会うこと」を約束していた。彼は再び水桶を手に取ると、小さく礼をした。そしてそのまま帰ろうとして、何かを思い出したのか、くるりと向き直る。粒の大きな雪が再び降り始める。このままいけば明日はもっと積もるだろう。だが、年中ほとんどを座敷牢で過ごしている彼女には関係ないが。それでも、この季節の刺さるような寒さは厄介だった。

「そういえば、名前を聞いてなかったね」

 フミの頭の上にも、雪がうっすら積もる。あまりにも外にいる時間が長かったのか、鼻水も少し垂れていた。戻ってもいいのに、引き返して聞かなければならないほど、フミにはそれが余程大切なことだったようだ。

「無い」

「えっ」

「名前なんて無い」

 ──そんな人間がいるものか。そう呆気にとられ、立ち尽くす。


 フミはもう一度聞き返そうかと考えたが、やめた。

 彼女の顔が、その瞳が、とても冗談を言っているようには見えなかったからだ。

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