第1話 江戸へ

 主要な五街道の一つである日光街道も、街道沿いは全て民家に囲まれているというわけでも無い。峠道こそないものの町から離れた林の中は夜ともなれば真っ暗になってしまう。だいぶ日も落ちてきた。太陽は木に隠れて全く見えない。もう半刻もすれば全ては闇に包まれるだろう。累は次の宿場町へと急いでいた。この時刻になるとすれ違う人間も殆どいない。


 累は不意に立ち止まると後ろを振り返った。そこには二人組の男がいたが、累につられて立ち止まった。粗末な着物を着て、旅の途中というにはとくに大きな荷物も背負ってはいない。


「先ほどからずっと後ろをついてきているようだが、大方人がいなくなる頃合いでも見計っておられるのかな? 日も暮れ始めて、もうすっかりすれ違う者もいなくなった。追剥か何かであれば早い所行動に移された方がいいのではないか? もうすぐ本当に日が暮れてしまうぞ」

 そう言われて男二人はうろたえているが、次の瞬間累は背後に人の気配を感じてまた振り返り、従来の進行方向を見る。そこには数人の男の姿があった。更に街道を挟んだ両側の林からもぞろぞろと出てきた。最初の二人と合わせると総勢で十人は超えている。

「なるほど後ろをついてくるのではなく、挟み撃ちをするのに退路を塞いでおこうという事か」


 前方の集団の中から一人の男が前に進み出て累に言う。

「お侍さん、申し訳ないが金目のものは全て置いて行ってくれないかな? 特にその白い鞘(さや)と柄(つか)の刀は高そうだ。なーに黙って従ってくれれば命まで取ろうとは思いませんよ」

 累は困ったような顔をしてそれに答える。

「うむ、何か事情があるのだろうが私も浪人の身でな。これから江戸に行くのに路銀も心もとない。お主らに分け与える余裕はないのだ。この刀も今は亡き父から譲り受けた物でな……形見というやつだな」


「……いくらお侍さんでもこの人数を一人では相手できないでしょう」

 また違う男がそう言うと、男たちは背中から鎌や鉈を取り出して構える。


「見たところ盗賊というよりは農夫のように見えるが、なぜこの様な事をしておるのだ。事情があるなら聞くぞ」

「何言ってやがる。俺たちは追剥だ! 痛い目にあいたくなければ言う事をききやがれ!!」

 累の言葉に一人の男が声を荒げる。

「豆だらけの手を見れば分かる。働き者の手だ。手荒な真似をしたくないというのはこちらの台詞なのだがな」

 そう言うと累は頭に被った笠をとって静かに茂みの方へと放り投げた。そうして腰に刺した刀を白い鞘から抜いて構える。柄(つか)は白いが鍔(つば)は赤い。男たちの間にざわめきが広がる。


 傘をとって薄暗い中に累の顔が浮かび上がる。お白いこそしていないが、口には紅がひいてある。紺色の着物に黒の袴。風に長い黒髪がたなびく。

「このお侍さんおなごだぞ!」

「おなごはまずいんじゃないか? 可哀そうだよ」

「いいや、お侍に男も女も関係ない!」

 男達は累の風体を見て何やら揉めている。


「なかなか引っ込みというものもつきそうでつかないものだ。ここはそなたたちにひとつ舞でも舞って見せようか」

 累はそう言って紅を引いた口紅に笑みを浮かべると、青眼の構えを解いて刀を頭の上に掲げた。そうしてゆっくりと動き出した。


 不思議な動きだった。ゆっくりとしている様で手に持つ刀の軌道は目に見えない。しかし時たま刀が風を切る音は聞こえてくる。そうして十人以上いる男の間をくるくると回転しながら、舞を舞うように移動して行く。


 一通り男たちの間を潜り抜けると、彼らの武器を持つ上腕には刀によって切られた跡が刻まれていた。男達は累の動きに見とれていて、自分がいつ斬られたのかも分からなかった。しか斬られた腕には力が入らず、男たちが手にしていた武器は次々に地面へと落ちていった。


 累は、動きを止めるとこう言った。

「深くは切っておらん。数週間もすれば傷も癒えるだろう。これで諦めてくれるだろうか? もっともお一方だけは見事に躱されたようだが……」


 累の言葉に一人の男が前に進み出た。明らかに他の者とはなりが違う。着物は薄汚れているが、姿勢は凛としている。腰に帯刀をしているので武士なのだろう。

「今日はついておりませぬな。このような手練れの方に当たってしまうとは……ここは拙者に任せてもらって皆はこの場からお逃げ下され」

 そう言って男は自分の刀を抜いた。


「追剥になぜ武士が混ざっているのだ? しかもなかなかの腕と見た。本気でやりあうというのならば、先程とは違い加減は出来そうにないが、お主にはこの戦いに命を懸けるだけの意味が見いだせているのか?」

 累の言葉を聞いて、まわりにいる男たちは逃げもせずに口々に侍に何かを言っている。それは「源ちゃんもうやめよう」と聞こえた。


「先ほどの動きを見ただけで、お主がただものでないことは分かった。追剥は成功しそうにないし、戦う事に大した意味などありませぬ。お主の剣技を見て、是非共手合わせをしてみたくなっただけの事です。他の者達はここまで拙者に付き合ってくれただけなので、見逃してやってはくれまいか?」


「いさい承知した。……我が名は古河藩剣術指南役、中沢直光が娘累! 其方も名を名乗られよ」

「なるほど中沢殿のお嬢さまであったか……我は元宇都宮藩藩士、大友源一郎! いざ尋常に勝負を願う!!」

 そう言ってから源一郎は累に斬りかかった。累はそれを刀で受けて切り返す。あたりには金属同士がぶつかり合う高い音と、振った刀の風斬り音が鳴り響く。まるでその場にいるのは二人だけなのかのように、その攻防は幾度となく繰り返されていく。先程の舞のような動きとは違って、累の刀は力強く振り抜かれ、刀同士がぶつかれば火花が散る。女としての非力さは微塵も感じない。時折火花の中に累の紅をさした唇が見え隠れする。口角は僅かに上がっている。まわりにいる男たちはただただ茫然とそれを眺めていた。


 何度目かの攻防が繰り返されたところで、二人は動きを止め相対して構え直した。


 累は源一郎に話しかける。

「まさかこれほどの腕とは思いませんでした。やはりこれでは加減など不可能。このままやり合えばどちらかが命を落としますぞ」


「何をおっしゃる。まだお主は本気を出しておりませぬな。拙者農村の出ですが剣の腕を買われて大友殿の家に入りました。しかしいわれのない罪で義父は腹を斬らされました。藩は違えど故郷に帰れば理解し難い程の重税で、昔からの知人には餓死者も出ている有様。幼い頃より憧れていた武士にはなったものの、もう武家の世界にはほとほと嫌気がさし申した。ここからどう生きればいいのか全く分かりませぬ。ここであなた程の方に斬られて死ぬのであれば、それもまた一興。武士の情けです。どうかこの身に引導を渡してやって下され」


 それを聞いて累は大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。彼女の目は見る見る深紅に染まっていく。

「ならば私の本気を見せましょう」


 累の言葉を受けて源一郎はまた斬りかかった。しかし今度はそれは体捌きだけで躱されてしまった。源一郎は二の太刀三の太刀と攻撃を繰り返すが、それらは全てまるで累の体をすり抜けるがごとく宙を斬った。そうして気が付けば、源一郎の腕にも一筋の裂傷が刻まれていた。源一郎は刀を地面に落とす。


 累は刀を一振りして血を払うと腰の鞘へと戻した。そうして斬られた腕をおさえて片膝をついた源一郎に向かってこう言った。


「吠える相手を間違えておいでです。事情は分かりませんが、源一郎という位なので養子先ではご長男なのでしょう。お義父殿の無念を晴らしてお家を再興する道もありますし、農夫が良いのならば盗賊の真似事などせずに、土と共に生きて行くのもいいでしょう」


「源ちゃん大丈夫か?」

「源太もう気は済んだろう」

 自分達も怪我を負っているのに、男達は源一郎のまわりに集まって心配そうに声を掛けている。

 どうやら源一郎は元々は源太という名前らしい。と、すれば養子先に戻らねば長男ではない可能性もある。


「拙者これから江戸に参って、両国の緒方道場で世話になる予定です。また腕を上げたならいつでも挑んで来られるが良いでしょう。いつでもお相手致します」

 塁はそう言って傘を拾って頭にかぶると、街道を早足で進んだ。


「あれはあり寄りのなしだったな」

 誰にも聞こえない所で一人そう呟いた。



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