第8話 髷狩り
翌日もまた累は天流剣術道場に行ったが、午前中の稽古はどこか実が入らなかった。その様子に気が付いて斎藤師範が声を掛ける。
「何か心配事でもありましたかな? 昨日は随分と慌てて帰られたようだが……」
そう聞かれて累は逆に聞き返した。
「家というものは必ずしも長男が継がなければいけない物なのでしょうか?」
「それはどうでしょうな? 我が家はこのまま行けば稽古熱心な新之助に道場を継がせることになるでしょう。 しかし家督となると廃嫡でもされない限りはやはり長男が引き継ぐ他ないでしょう」
「廃嫡とはどのような時に行われるのですか?」
「ふむ、よほどの素行不良か父親との不仲などですかな。滅多に聞くものでは無いですが……」
「ですよね……」
累は大きくため息をついた。
昼食を済ませ、休憩を挟んで午後の稽古が始まった。そこで道場に来た男の姿を見て累は驚いた。
「水野殿!」
そこには全身あざだらけで……いや、全て累がやった事だが、顔もところどころ膨れ上がった水野十郎の姿があった。
「累殿、なぜそなたが我が道場に!?」
「我が道場?」
そう言って累は新之助の方を見る。
「兄の斎藤丈一郎です」
訳は分からなかったが新之助は兄の丈一郎を紹介した。
「水野十郎殿では無かったのか?」
累は聞く。
「いや、それは通り名の様なもので、本名はそういう事になっておる」
なるほど昨日の剣筋に少し自分に近いものがあると感じたのはこの為だったかと累は合点がいった。兄弟弟子の子供同士であればそれは納得がいく。しかし粗削りにも程がある。
そうして落ち着きを取り戻した丈一郎は累の耳元でこうささやいた。
「昨日の果し合いに関しては父や弟にはご内密に願いたい」
まぁそれはそうだろうと思いつつ、丈一郎に耳元に口を寄せられて、累は少々動揺した。
そこに斎藤師範も寄ってきた。
「珍しいな、お前が道場に顔を出すとは……」
「いや、父上これからは少し武術の修練にも励もうかと思いましてな」
「どういう風の吹き回しかは分からんが良い心がけだ。精々励むが良い」
それを聞いて少々累は不思議に思った。確かに丈一郎の技も動きも荒いものではあったが、本気で戦えばその強さは若さと体力も加わって、斎藤師範を超えているかもしれないと感じたからだ。道場に顔を出さないのは、彼には彼で思う所があるのかもしれない。そうしてこの荒削りな男を、昨日も門下生に対して考えたのと同様に、武術を徹底的に叩き込んでいけば、いつかは自分を超えてくれるかもしれないなと思った。そうしてすぐにまた彼が長男である事を思い出し、累は一人落胆した。
それからまた数日が過ぎた。精進すると言っていた割には丈一郎が道場に現れるのは何日かに一度くらいだった。精進したうえで自分に再挑戦するのではなかったのかと、累は少々腹立たしかった。
当時の旗本武士の勤務時間は一日四時間程度で、勤務日数も月の半分もなかった。どうも休みの日は全て道場に来ているというわけでは無さそうだ。これではいつになっても、累を超える程の武には辿り着けないであろう。
そんな中で丈一郎が道場に顔を出していたある日の事だった。午後の稽古が終わる頃に道場が面している庭に一人の若者が現れた。
「水野殿! 昨晩貫太郎が髷狩りにあった。遂に我らにも矛先が向いたようです。貫太郎は組を抜けると言っています」
「おい! ここでは水野という呼び方はやめろと言っているだろう」
丈一郎は慌ててそう返して周囲を見渡す。幸いにしてその場には斎藤師範と新之助の姿は無かった。累はそのやり取りを見てくすくすと笑う。
「丈一郎殿、髷狩りというのは何なのですかな?」
累がそう聞くと、丈一郎はしばらく何かを考えた後
「少々この後お付き合いいただけますかな」
と累に言った。
稽古が終わり丈一郎に連れられて行った茶屋には、既に先ほどの若者ともう一人が席に座して待っていた。一人は頭巾を被っている。茶屋で頭巾を被っているというのは異様である。悪目立ちをしているが、そこは旗本奴なのでいで立ちもかぶいているので、いつもの事かとそれほど周囲は気にしていない様だ。机を挟んだ向かいの席に丈一郎と累はかけた。
「貫太郎、髷狩りにあったそうだな」
「はい。昨晩での事でした。あれは化け物です。周囲が暗いのもありましたが、最初髷を切られた事にも気が付かなかったくらいです。組を抜けなければ今度はその首を落とすと言われました」
「ふむ、その者はどのような風体だったのだ?」
「暗かったのではっきりとは分かりませんが、たっつけ袴を着用していました。そうしてなにやら線香臭かった。もしかするとこの世のものではないのかもしれない」
たっつけ袴というのは、ひざから下が細く絞られた袴で、動きやすいという特徴はあるが、実際にそう動く事の無い江戸の武士で普段から好んで着るものは少ない。
「髷とはいえ人の体を斬るのであればこの世の者で間違いなかろう。大方我らに敵対する町奴の連中がどこぞの浪人でも雇ったのであろう。既に六方組の一つは解散に追い込まれたと聞いたが、遂にうちの組にも手を出してきたか……」
「丈一郎殿、町奴とは?」
「うむ、累殿はまだ江戸に出てこられて間もないのでご存知ないと思うが、我らの様な武士の集まりの旗本奴と言われる集団がある様に、町民の若者が集まった町奴という集団もいてな。これと事あるごとにいさかいが絶えないのだ。力で言えば当然武士の我らが上回るが、それを面白く思っていないのであろう」
「他の組のやつから聞いた話でも。髷を切られたものは、その後も組でつるんでいると今度は命をとると言われたそうです。貫太郎は長男で家督を継ぐ必要があります故、組を抜けるというのも致し方ないかと……」
先ほど道場に駆け込んできた男がそう続けた。累はそれを聞きながら黙ってお茶を飲んでいる。
「……ところで水野殿、隣にいらっしゃる女性は先日果し合いをされた中沢累殿とお見受けいたしますが、精進の上昨日の今日でもう勝利されたのですかな?」
それを聞いて累は飲んでいたお茶を吹きだした。
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