第4話




「紫のおかげでイイもの見られたわ。楽しかった」


 園田さんがようやく僕の腕を離して、ベンチから立ち上がった。


「もう行くのか?」

「うん。今夜、イケナイ約束があるから。支度しなきゃ」

「そうかよ。んじゃ、このチビの面倒はアタシが見とくか」

「よろしくね。もう壊れちゃったかもしれないけど」


 園田さんが僕の頬を軽く撫でて「バイバイ」と言った。

 もちろん、彼女に返答できる気力もなく、

 僕はぼうっと雑踏を見つめていた。

 空いた隣に花村さんが座り、僕の肩に肘を乗せてきた。


「花村紫の噂は本当だったろ?

 目をつけられたらイジメられるってな」

「……感謝してますよ」

「あァン?」


 行き交う人々を眺めたまま、僕は静かに涙を流していた。

 何かが心で狂い、狂った歯車が回り始めたのを確信した。


「素敵な女性に目をつけてもらえたんですからね。

 その女性たちは僕に真実を教えてくれた。

 花村さんや園田さんは悪じゃない。

 悪は、別のところにいたんです」


 兄も森川も、僕を弄んでいたんだ。

 これで僕は一人になった。

 兄には勝てず、想い人を振り向かせることもできなかった。

 これは自分で乗り越えなくてはいけない問題なのだろう。

 森川とは距離を置けばそれでいい。

 だがしかし、あの兄とどうやって向き合っていけばいい?

 幼い頃から乱暴な力と言葉でねじ伏せられてきた。

 大人になってもそれは変わらず、むしろひどくなるだろう。

 両親が高齢になってやがて死に、兄弟だけになれば顛末は簡単に想像できる。

 臆病で脆弱な僕がこの後を生き残る未来が一切見えなかった。


「…………」


 この時の僕はどんな顔をしていただろうか。

 どんな目をしていたのだろうか。

 それは分からなかった。

 しかし、僕を嘲り笑っていた花村紫が、

 目を細めて口をつぐんだのは確かだった。


「……宇賀ちゃん、今日いくら持ってンだ?」


 しばらくの沈黙の後、花村さんが静かな声でそう言った。

 ああ、寝取られるのを見せられた後はカツアゲか。

 僕は黙ってポケットから財布を出して、彼女の白い腿の上に置いた。

 置かれた財布を素早く取り、札の入っている部分だけ広げて確認する。


「安すぎるが、ま、いっか」

「浮気調査の情報料ですか?」

「お前の慰め料」

「は?」


 彼女は僕の腕を強く握ると、そのまま立ち上がった。

 つられて僕も立ち上がり、引っ張られるように進む。

 連れて来られたのは駅の多目的トイレだった。

 投げ込まれるようにトイレに入り、そして花村さんが鍵を閉めた。

 スタスタと洗面台に向かい、鞄を置いて何か四角い包みを取り出した。

 咥えていたココアシガレットを噛み砕き、呑み込む。

 状況が全く読めない僕の前に立ち、彼女はワイシャツのボタンに手をかけた。


「テメェの童貞、もらってやるよ」


 一歩後ずさった。

 喜ぶべきなのかもしれない。

 でも、僕の頭には森川の後姿がチラついた。

 本当に好きな人と結ばれたい。

 そうじゃなきゃ、ダメだって。


「やめましょう、花村さん。

 お金は差し上げますから。もう帰りましょう」

「あァ? 今更逃げるとかダサすぎんぞ。

 それともアタシよりもあの浮気女がいいのか?」

「……それは」


 裏切られたのに、まだ森川を「本当に好きな人」と位置づけるのか。

 憎むべき兄を選んだあの女をまだ愛すると?

 うつむいて固まっていると、花村さんが歩み寄って来て僕を抱き寄せた。


 毎度あり。

 彼女の声は、なぜだか妙に甘く、愛おしく感じられた。

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