真っ白な檻で少女はシアンに夢を見る

海咲雪

第1話

【色の三原色。マゼンタ・シアン・イエロー。シアンは青っぽい色であり、原色は他の色を混ぜ合わせても作ることは出来ない】


ライニー国と呼ばれるこの国では、赤子は窓すらない真っ白な部屋で出産される。そして、即座に生まれた赤子の目の色を確認する。理由は、この国特有の病にあった。

【青の病】----青色を目にした段階で眠るように亡くなる。先天性しか存在せず、この病を持っている者は「青色」の目をして生まれる。約千人に一人の割合で生まれると言われており、鏡などで「自分の目」を見ることだけは例外とされる。また、水色や濃い青など大まかな括(くく)りで青色とされるものは全て見ることは出来ない。

 自分の目で青を知り、他の青を一生知らずに終わる病。その病の人間は、青色の物が混じらないか分かりやすいよう一生を真っ白な病室で過ごす。そんな病に哀れみを込めて、世間では「一色病(いっしきびょう)」と呼ばれていた。わざと青をいう名前を使わないのが、せめてもの哀れみの表れだそうだ。

 そんな真っ白な病室で今日も私は一人、朝を迎える。

 ジリリリリリ。目覚ましの音で目が覚める。朝日で目覚めたことは一度もない。だって、この病室には窓がないし、一日中電気が付いている。この真っ白な病室にあるのは、洗面台と洋服ダンスとベッドと沢山のキャンバスだけ。一辺が約二十センチの小さな正方形のキャンバスが私の部屋には置かれている。絵を描くことは病室にいる私の唯一の楽しみ。鉛筆でしか描かれないその絵はデッサンばかり。色のある絵の存在は病室で行われる授業でしか知らないし、見たこともなかった。それでも、今日からそんな私の生活は大きく変わる。

「リサちゃん、朝食を持って来たわよ」

 真っ白な服を着た看護師のマーサさんが真っ白な食器を置いて帰っていく。今日の朝食は、パンとコーンスープとサラダ。ライニー国の食べ物には青色のものが少ないことがせめてもの救いだった。

「マーサさん、ありがとう。パンは茶色で、コーンスープは黄色、サラダは緑色……合ってる?」

「正解。よく出来ました。ちゃんと覚えていて偉いわ」

「えへへ、ありがとう」

 「青の病」に侵された患者は基本的に食べ物で色を覚える。食べ物以外は基本的に白色のものを使うからだ。しかし、当たり前だが青色だけは鏡で自分の目を見て覚える。

「それと……今日はあの日だよね?」

「ええ。でも、もう一度私との約束を思い出して」

 マーサさんの言葉に私は勢いよく手を上げて、発言する。

「絶対に色は混ぜません!一色塗るごとに綺麗に筆を洗い、一日経って乾いてから次の色を塗ります!」

「うん。よく出来ました。じゃあ、後もう一つの約束事は?」

「目が悪くならないように、キャンバスに近づきすぎずに描きます!」

「じゃあ、後で絵の具を持ってくるわね」

 そう言って、マーサさんが病室を出ていく。

 今日、私は初めて絵の具を使うことを許される。まさに例外中の例外。だって、絵の具が混じって偶然青色が出来ることは絶対に許されないから。それでも、私が絵の具を使うことを許されたのには理由がある。

 ずっとデッサンばかりしてきた私は、マーサさんにお願いして描いたデッサンをコンクールに出した。そして、最高賞を取ることが出来たのだ。そんな私はコンクールで賞を取った日にマーサさんに深く頭を下げた。

「どうか私に色のある絵を描かせて下さい」

 マーサさんは当然断った。そして、折れない私を説得した。

「リサちゃん、私はリサちゃんに生きていて欲しい。ただそれだけなの」

 それでも、私はどうしても諦められなかった。

「絶対に青色は使わない。色は混ぜない。それでも、この病室で一生を過ごす私に楽しみを下さい」

 悲痛な私の叫びにマーサさんは最後には首を縦に振ってくれた。その後、「青の病」の治験として絵の具を使った治療を許された。絵の具を使うことによって、心理的負担が軽くなるのかというものである。実際、「青の病」にかかった人間が心を病むことは多い。その中で、みんな治療方法を模索しているそうだ。

「リサちゃん、絵の具を持ってきたわよ」

 マーサさんの言葉に心臓がドッと早くなるのが分かった。マーサさんが扉を開けるのがスローモーションのように感じる。

 ゆっくりと扉が開いて、真っ白な箱を持っているマーサさんが部屋に入ってくる。マーサさんが私の前で箱の蓋を開けた。箱の中には、沢山の白色のパッケージのチューブ。白色のパッケージには黒色のペンで「黄、赤、茶」などの文字が書かれている。

「慣れるまでしばらくは私も一応見ているわね」

「はい」

 マーサさんが私に真っ白な持ち手の筆を渡してくれる。

 私はそっと筆を受け取り、「赤」と書かれたチューブを手に取った。パレットに絵の具を絞ると出てきた絵の具は、当たり前に赤色。それでも、そのことに泣きそうになった。

 ああ、やっと私の世界の色が広がるのだ。

 沢山の絵を描こう。私は涙を堪えながら、そう決意する。

 準備していた下絵に赤色を塗っていく。外の景色を知らない私は、食べた食事や家具など部屋の中で見たことがあるものの絵しか描いたことがない。

 そんな中で初めての色がある絵に選んだのは、この病室の景色。この部屋を開ける扉の前から見た景色だった。理由は、まずこの部屋に色をつけてみたかったから。私だって普通の部屋に住んでみたかった。

 しかし、赤色の絵の具を筆につけた後、私の手は止まった。白色ばかりの景色しか見たことのない私は、モノの正しい色が分からない。

普通のベッドは何色なの?

普通の人は何色のタンスを使っている?

洗面台は何色が多いの?

分からない。本当に分からない。

「リサちゃん?何かあった?」

 手が止まった私にマーサさんが心配そうに声をかける。

「……マーサさん、普通の人のベッドって何色なの?」

 私の質問にマーサさんの顔に哀れみが覗いたのが分かった。

「人それぞれね……リサちゃんと同じ白色の人もいるし、他の色の人もいると思うわ」

 マーサさんの言葉の後ろには、「だから、赤色で塗っても大丈夫」とついているように感じた。

 やっと分かった。私は家具の色一つだって正しい色が分からない。これから先、全てのものに対してマーサさんに正しい色を聞くわけにもいかない。それにどうせ「正しい色」が「青色」だったら塗ることすら出来ない。

 ならば、好きに塗っていいだろうか。そう思ってしまった。

 私は、まず壁を全て赤色に塗った。乾くまで次の色は塗れないのなら、始めての色を沢山使いたかった。私の塗り方をマーサさんが感心したように見ている。初めてだったので、壁以外の所にも赤色がはみ出し、手にも赤の絵の具がついてしまう。

「……壁一面が赤色、リサちゃんだから出来る塗り方ね。とっても素敵よ」

 だって、私には普通の壁の色が分からないから。家具も壁も全て白色。キャンバスが白色だから、本当は塗る必要すらない。

 それでも、色をつけたいの。現実では無理なのだから、絵の中でくらいこの部屋を色とりどりにさせて欲しかった。

 楽しい時間は速く過ぎるみたいで、赤色はすぐに塗り終わってしまう。

「リサちゃん、赤色は塗り終わった?じゃあ、今日はここまでね。明日、絵の具が乾いたら次の色を塗りましょう。絵の具とキャンバスを片付けてくるわね」

「え?キャンバスも持って行っちゃうの?」

「乾きやすい所に置いておこうと思って。明日までに乾かなかったら困るでしょう?」

「うん!ありがとう!」

「ちゃんと手を洗うのよ。手についた絵の具を落とすこと」

 マーサさんがそう言って、絵の具とキャンバスを部屋の外に持っていってしまう。

私の部屋からまた色が減ってしまう。残ったのは、さっき手についた赤色だけ。

 まだ絵の具が乾いていなくて、私はそのままぼんやりと洗面台についている鏡の前に立った。

 絵の具のついた指を鏡に向けると、始めて鏡に赤色が映った。「青色」の瞳と「赤色」の指があまりに綺麗で。私は絵の具のついた指で、鏡に映った目に触れる。そうすると、指についた絵の具が鏡にまでついてしまう。

その時、初めて鏡に映った私の目が「赤色」になった。

「私の目が赤色だったら、外に出られるのに……」

 もっともっと赤色を塗りたい。部屋の全てを絵の具で塗ってしまいたい。けれど、それは許されない。

 私は水で濡らした真っ白のタオルで鏡についた絵の具を拭く。すると、タオルまで赤色に染まっていく。私はその情景をただぼんやりと見ていた。


 翌日の絵の具は、「オレンジ色」を選んだ。ベッドを全部オレンジ色で塗っているとマーサさんに声をかけられた。

「リサちゃん、ベッドのマットレスとベッドの木枠は色が違ってもいいのよ?」

 マーサさんの言葉の意味が分からない。私が不思議そうな顔をしているのが伝わったのかマーサさんが詳しく説明してくれる。

「ベッドの木枠とマットレスと掛け布団は別々のものでしょう?だから、色がそれぞれ違ってもいいの」

「じゃあ、ベッドの木枠は普通何色なの?」

「茶色の人が多いんじゃないかしら。木の幹は茶色って習ったでしょう?リサちゃんのベッドは上から白色で塗っているの」

「茶色……うーん、しっくり来ないかも。茶色じゃなかったら何色が多い?」

 私たちの使う教科書には、基本的に絵がついていない。文字だけで学ぶから、分からないことが沢山ある。

 私の質問にマーサさんは、「そうよね……うーん、人それぞれだから……」と言葉に詰まっている。


なんでどんなこともしっかりとは教えてくれないのに、絵は「普通の色」で塗るように口出しをしてくるの?


そんな自分でもよく分からない不思議な考えが浮かんで、私はベッドを「オレンジ色」一色で塗った。マーサさんはもう私の塗り方に何も言わなかった。

「オレンジ色、塗り終わったよ」

 私がそう言うと、マーサさんがオレンジ色を片付けようとする。私はチューブの蓋を閉めるふりをして、「わざと」床にオレンジの絵の具を少し落とした。

「あ!ごめんなさい!」

「大丈夫よ、すぐに片付けるわ」

「ううん、マーサさんは絵の具を戻しにいかないといけないでしょ?私が拭いておくから大丈夫」

 私の言葉を聞いて、マーサさんが濡れたタオルを持ってきてくれる。

「じゃあ、お願いね」

 マーサさんが病室を出て行ったあと、私はすぐに指に絵の具をつけた。床を指でなぞってオレンジ色を少しだけ広げる。どうせ後で拭かなければいけないから、気づかれないくらいの本当に少しだけれど。

 そして、私はすぐに鏡の前に向かった。鏡の自分の目が映った位置にオレンジ色をつけて、自分の瞳をオレンジ色に変える。

 昨日は「赤色」の瞳、今日は「オレンジ色」の瞳。言い表せない高揚感が私を襲ったのが分かった。

 青色の瞳に生まれなければ、この病気ではなければ、私はもっと自由だった。

 絵の具を使えば、鏡の中で私の瞳は赤色やオレンジ色に簡単に変わる。私は鏡に映ったオレンジ色の瞳を見ながら、気づけば絵の具のついた手で直接目を触ろうとしていた。

「何をしているの!」

 病室に戻って来たマーサさんの叫び声で私は慌てて手を止めた。

 マーサさんが慌てて私に近寄ってくる。

「何をしようとしているの!?」

 きっとこの質問に素直に答えてしまえば、もう二度と絵の具は使わせて貰えない。

「……目が痒くて。手に絵の具がついていたのを忘れていたの……ごめんなさい……」

 私は震えた声で謝る。

「そうだったの。私も怒鳴ってごめんなさい。でも、絵の具は目に入ると良くないものなの。覚えておいてね」

「はい!」

 私は、元気に笑顔で返事をした。


 その日、私は初めてマーサさんに嘘をついた。


 マーサさんと一緒に手についたオレンジ色を洗面台で洗い落とす。床についてしまったオレンジ色も綺麗に拭き取った。

 すると、また私の部屋は真っ白に戻ってしまう。

 翌日もその翌日も、マーサさんに見張られながらキャンバスに絵の具を塗っていく。洋服ダンスは「緑色」に塗り、洗面台を「黄色」で塗る。もう「床」以外色を塗るところがなくなった。何もない病室の絵では、ベッドと洋服ダンスに壁と洗面台、それに床しか塗るところがない。一つ一つのものを一色で塗っているから、すぐに絵が完成してしまう。

「もう終わっちゃう……」

 私が呟くと、マーサさんが私の病室に置かれているデッサンの描かれたキャンバスを持ってくる。

「他にも塗るものは沢山あるわ。それに次の絵は一つ一つのものを一色じゃなくて、もっと沢山の色で塗るのはどうかしら?」

「でも、そうしたら一日に塗れる絵の具の量が減っちゃう……」

 私の言葉にマーサさんは上手く言葉が思いつかないのか、ただただ悲しそうに私を見つめていた。そして、しばらくして私を抱きしめるのだ。

「一日少しずつ塗っていくのも楽しいわ。じっくり時間を掛ければ、その分、美しい絵も出来るはずだもの」

 絵の具を使うことだけが最近の楽しみの私にそんなことを言われても心に響かない。もっと絵の具を使いたいのにそれすら許されないのだから。

「ねぇ、マーサさん。絵の具を使う前に私に教えてくれたよね。青の絵の具じゃなくても、絵の具を混ぜると『青色』が出来てしまうって。だから乾いてからしか塗ったらダメで、絵の具を混ぜることもダメだって」

「ええ」

「じゃあ、『赤色』と『オレンジ色』を混ぜると『青色』が出来るの?」

「??違うわ」

「じゃあ、『赤色』を塗ってすぐに『オレンジ色』を塗ったらなんでダメなの?」

 すると、またマーサさんが黙ってしまう。最近、マーサさんが私の疑問にすぐに答えてくれないことが多い。それが無性に何故かイライラした。

「えっと……確かに『青色』は出来ないけれど、他の色だと『青色』が出来てしまう場合もあるの。だから、細心の注意を払って……」

 ああ、分かった。

マーサさんは、本当は私が出来ることを心配して過剰にさせてくれていないのかもしれない。

 でも、この病室から出られない私は悲しいことにマーサさんに従うことしか出来ない。胸の辺りがキュッと痛んで、この感情が悲しみなのか怒りなのかすら分からない。

「マーサさん、私、もっと沢山絵の具を使いたい」

 それでも、私はマーサさんのことが大好きだから素直にお願いをした。そんな私の想いを知らずに簡単にマーサさんは私の願いを断るのだ。

「それは出来ないの。ごめんね」

 その言葉を聞いた瞬間、先ほどの感情が怒りだと分かった。マーサさんはこの病室の外で、沢山の色を見られて、触れられて、描(えが)けるくせに、私には過剰な制限をする。

 だから、気づけば私は二度目の嘘をついていた。

「分かった!全然大丈夫!」

 もの分かりの良いフリをすると、マーサさんはホッとしたように微笑んだ。

「ありがとう。リサちゃんは良い子ね」

 マーサさんの言うことを聞く子が良い子ならば、きっと私は悪い子だ。

 それからは、もう嘘をつくことに罪悪感すらなくなっていた。

「今日は、『茶色』を塗りたい」

「うーん、今日は『黒色』にしようかな」

「今日は『黄色』が良い!」

 もの分かりが良いフリをしてしばらく経った頃、私はあるお願いをした。

「もう使い方分かったから、マーサさんは見てなくても大丈夫だよ?」

「でも……」

「ちゃんと乾いてから塗るし、使い終わったらちゃんとマーサさんのことを呼ぶから大丈夫!それにマーサさんも他に仕事があるでしょ?私にばっかり付き合ってもらうのは申し訳ないし……」

 数日かけて考え抜いた私の作戦は、簡単に成功した。

「……分かったわ。じゃあ、今日使う色を教えて。その色のチューブだけ置いていくわ」

 作戦通りだった。

「はーい!じゃあ、赤色!」

 いつものように元気よく手をあげて返事をする。いつもと同じ返事をしたからだろうか。忘れていた罪悪感がちょっとだけ顔を出した気がした。そんな自分の感情すら理解出来ないうちに、マーサさんが病室を出ていく。

 私はすぐに鏡の前に行き、鏡に映った自分の目にいつも通り絵の具をつける。

「うん、これで私は普通の人」

 どうせ後で拭き取らなければいけない。赤色しか使えない。

だから、私はベッドの下に一絞り赤色を落とした。乾いた後でも、水で絵の具が落ちることは学んだ。つまり、赤色の絵の具を隠しておけば、翌日でも使えるかもしれない。

所詮は、実験。でも、試してみたかった。

私はその後、キャンバスに適当に赤色を塗り、鏡を拭いてマーサさんを呼ぶ。

「赤色、使い終わったよ!」

「あら、綺麗に塗れたわね」

 マーサさんは私が適当に塗ったキャンバスを感心したように見ている。

「嘘つき」

「……??何か言った?」

「ううん、なんでも!」

 適当に赤色を塗ったキャンバスが綺麗だなんてあるはずがない。それでも、嘘だと分かっていても……絵を褒められることが一番嬉しかった。

 だから、早く明日になって。明日でも、絵の具が乾いた後でも、水で溶かせば絵の具が使えると証明させて。


翌日、私はオレンジ色を欲しいと言った。

マーサさんが病室を出ていくと私はすぐに手を濡らし、ベッドの下に潜る。そして、手で昨日の赤色をこすった。しかし、少しだけ上の部分の絵の具がポロッと崩れるだけで、上手く溶けない。

「え」

 どうしよう、時間が経った絵の具は使えないってこと?

 私は動揺したまま、とりあえずまたベッドの下にオレンジ色を絞り、適当にキャンバスにオレンジ色を塗る。マーサさんを呼んで絵の具を回収してもらった後、私はベッドに潜ってもう一度作戦を考え直した。

 どうしよう。どうしたら、もっと絵の具を使える?

 そんなことを考えていると、私はこの作戦のミスに気づいた。まず、キャンバスに何色(なんしょく)も使って絵を書けば、気づかれてしまう。例え、キャンバスをベッドの下に隠しても、この病室は一週間に一度マーサさんが掃除をしてくれる。マーサさんは綺麗好きで、いつもベッドの下まで綺麗に掃除をする。

 その時、私はもう一つの大きなミスに気づいてドッと心臓が速くなった。ベッドの下を掃除するということは、ベッドの下に絞った絵の具もバレてしまう。

 つまり、それまでにベッドの下の絵の具も落とさなければいけない。しかし、絵の具を落とす時にタオルを使えば、タオルについた絵の具でバレてしまう。その日に使った色以外がタオルに付いているなんておかしいに決まっている。タオルはどれだけ綺麗に洗っても洗剤すら持っていない私では、真っ白なタオルには戻せない。

「え、どうしよう。どうやって絵の具を片付けたらいいの……?」

 タオルが使えないなら、手で絵の具を拭き取って洗面台で手を洗う?出来るだろか?

 それに、もう絵の具はカチカチに固まっていて落とせそうにない。

少しでも色を残せば、ベッドの下を掃除するマーサさんにバレてしまう。

そうすれば、きっと二度と絵の具は使わせて貰えない。

そんなこと耐えられない。それにマーサさんに怒れられる。

前回の掃除はいつだっただろう?

確か三日前だったはず。つまり、次の掃除は四日後。もしかしたら、あと四日で絵の具が使えなくなってしまうかもしれない。

 私はベッドの下の絵の具を水のつけた指で触れてみる。擦ってみるが、どう見ても綺麗に取れそうにない。

「どうしよう。本当にどうしよう」

 欲を出したからだ。嘘をついたからだ。

 あと四日で私の醜い嘘がバレて絵の具が使えなくなる。気づいたら、涙が溢れていた。

「本当にどうしよう。どうしよう。どうしよう」

 呪文のように「どうしよう」と何回も唱えながら、涙は止まる気配すらない。


「絵の具が使えなくなるくらいなら、死んだ方がマシなのに……!」


 そう呟きながら、私はボロボロと泣いていた。もう絵の具のない世界なんて考えられない。もう色がない世界なんて考えられない。

 起き上がり、洗面台の前に立つ。鏡に映った自分の瞳は綺麗で。

「この色が青色……」

 私はそのままベッドの下の絵の具にも触れる。

「これが赤色……これがオレンジ色……」

 乾いた絵の具を指でなぞりながら、うわごとのように呟く。

本当に絵の具がない世界なら、死んだ方がマシ?絵の具を使えなくなるなら、死んだっていいの?

分からない。分からないのに、マーサさんに怒られることがただただ怖かった。

この病室で一人ずっとマーサさんの機嫌を損ねないように生きてきた。

 きっと私の嘘がバレれば、マーサさんは初めて私に本気で怒るだろう。しかも、とてもとても怒る。

 絵の具が使えなくても、マーサさんに嫌われないなら生きていける。だって、ずっと私のそばにいてくれたのはマーサさんだけだった。

 でも、この嘘がバレれば、私は絵の具を失い、マーサさんにすら嫌われるかもしれない。私は、鏡に映った自分と目を合わせた。

「こんな目じゃなければ」

 それでも、この目を潰せない。この目だけが私に「青」を教えてくれる。

 絵の具を失い、マーサさんに嫌われれば、私は生きていけない。それこそ、本当に死んだっていい。

 そんな考えに頭が支配されるのが分かった。


 どうせ死ぬのなら、最後に一番描きたいものの絵を描かきたかった。


 私はベッドの色も洗面台の色もタンスの色だって、普通が分からなない。それでも、鏡に映った自分だけはきっと正しい色だ。

 私は、その夜一眠りもせずに鏡を見ながら下絵を書いた。

 それから、四日かけて本当に死んでも良いのか考えた。でも、どれだけ考えても絵の具も失うのが怖くて、マーサさんに怒られて嫌われることが一番怖かった。

 どうせずっとこの部屋から出られない。だって、本当は今幸せじゃない。ただただ外に憧れて過ごすだけの毎日。いざ死のうと考えると、浮かぶのはそんな暗い考え方ばかりだった。

 四日目、私はマーサさんにあるお願いをした。

「マーサさん!ゲームしよ!一分だけ病室の外に出ていて!どの絵の具を選ぶか当てて欲しいの!」

 自分でも分かるくらい不自然な感じがしたが、いつも通りに元気に言ったからだろうか。マーサさんは少しだけ笑って「分かったわ」と言った。

 マーサさんが病室を出た後、私は全ての絵の具をベッドの下に絞った。そして、適当に「茶色」の絵の具を選び、マーサさんを呼ぶ。

「もう大丈夫!何色を選んだでしょう!?」

「うーん、黄色かしら?」

「ブッブー!茶色でしたー!」

 私は茶色の絵の具以外をマーサさんに返し、マーサさんがいつも通り病室を出ていく。

 私はすぐに準備しておいた自画像の下絵を取り出し、筆でベッドの下の絵の具を取る。

塗り始めれば、簡単に私の瞳以外の色は塗り終わった。あと少しで私は死ぬのに、恐ろしいほどに心臓は落ち着いたままだった。

 それよりも、絵の具で青を作れることへの高揚感で息苦しさを感じる。


あとは、青を作るだけ。


 きっと青を見た瞬間に眠るように私は亡くなる。それでも、きっと青を作った後に、キャンバスに塗るくらいの力はあるだろう。いや、あると信じたかった。

 それからの時間は実験だった。どの色を混ぜれば良いのか検討もつかなかったが、二色混ぜて見たり、三色混ぜてみたりした。

 それでも、一向に青に近づかない。

「なんで……?」

 どんな混ぜ方をしても青に近づく気配がない。

「なんでなんでなんで!」

 もう死ぬ覚悟は出来ているのに。どうして上手くいかないの!?

「なんでなんでなんでなんで!」

 段々と呼吸が荒くなっていく。

「はぁ……!はぁ……!」

 息が苦しくなり、視界がぼやけ始めた時、病室の扉が開いた。おぼろげな意識で扉の方に視線を向けるとマーサさんが立っている。マーサさんはなぜか泣いていた。

 マーサさんが私に近づき、背中を優しく撫でてくれる。

「ゆっくり深呼吸をして。大丈夫。大丈夫だから」

 何が大丈夫なのか意味が分からない。しかし、マーサさんがそばにいる安心感で段々呼吸が落ち着いていく。

 私が落ち着いた時、マーサさんは意味が分からないことを言い出した。


「リサちゃん、青は絵の具を混ぜても作れないの。正しくはシアン。リサちゃんの瞳の色」


 理解が出来ないのに、何故かボロボロと涙がこぼれていく。

「本当は『青の病』なんて存在しないの。正しくは『白の病』。目を開けている時に『白色を常に視界に入れなければいけない病』。だから、世間では『一色病』と呼ばれているわ」

 意味が分からない話をされているのに、マーサさんの話は止まらなくて。

「『白の病』の特徴は、髪が『白色』であること。だから、ライニー国では赤子は全て白色の部屋で出産される。髪の色が分かりにくかったら、髪の色が断定出来るまでしばらくそのまま病室で過ごすこともあるわ。でも、リサちゃんはお腹から出てすぐに白色の髪が確認出来た」

 マーサさんの言葉の意味が分からないのに、私の視線はマーサさんの髪に向いてしまう。マーサさんも私と同じ白色だから、私は自分の髪がおかしいと思ったことはない。

 マーサさんは涙を溢しながらも、言葉に詰まることはなかった。

「『常に白色を視界に入れなければいけない』、そのことを意識しながら生きることは心が壊れるほど辛かったわ。だから『白を絶対に見なければいけない』より、『一色だけ見たらいけない』の方がよっぽどマシだと思った。そして、生まれてきたリサちゃんはあまりに綺麗なシアン色の瞳を持っていたわ。だから、『使えない色』に『青色』を選んだの。どうか自分の瞳の色を見て我慢して下さいって」

 その時、初めてマーサさんが言葉に詰まった。

「……それが絶対に正しいと思っていたの」

 マーサさんが頭を床に付くほど下げる。

「色がある世界に慣れたら、余計にこの病気が苦しくなる。どんな景色を見ても、白色にばかり目がいってしまうから。だから私は絵の具を混ぜたら青が出来ると言って、一日一色だけ使わせたわ」

 マーサさんが床についた沢山の絵の具を指でなぞる。

「……まさかリサちゃんが死んででも『青色』を作ろうとするなんて思わなかった。昨日ベッドの下の絵の具に気づいて、注意深く見ていたの」

 マーサさんは最後まで頭を上げなかった。

「本当にごめんなさい。私はもう謝ることしか出来ない」

 正直、マーサさんの言っている言葉の半分も受け入れられなかった。それでも、浮かんだ疑問は一つだけ。

「じゃあ、私は『青色』が見られるの?」

 私の疑問にマーサさんが『青』と書かれたチューブを取り出す。そして、私の手に握らせた。

 私は呆然としたまま蓋を開けて、床に絵の具を落とす。

 床に落ちた青色は私が思っていたよりずっと綺麗ではなかった。

「……私の目の方がずっと綺麗じゃん」

 私の瞳から床に涙が落ちる。

「ねぇ、マーサさん。私は明日からどうなるの?」

「これからもこの真っ白な病室で生活するしかないわ。私もずっとそうだった。今だって、リサちゃんと同じ真っ白な病室で生活している。だから、同じ病気の子達を救いたくて、お世話係を任せて欲しいとお願いしたの」

「明日からもマーサさんは私のそばにいるってこと?」

「……でも、リサちゃんがそれは嫌でしょう?」

「分からない。まだ実感が湧かないから。でも、マーサさんと離れるのは嫌な気がする」

 私の言葉にマーサさんはもう一度私をぎゅっと抱きしめた。

「本当にごめんなさい」

 涙を溢しながら、絞り出すような声での謝罪をマーサさんは繰り返した。

「本当にごめんなさい……ごめんなさい……謝って済むことじゃないのに……」

「ねぇ、私はこれからずっと『白』を見続けなきゃいけないってこと?」

「……ええ。でも、この病室にいれば自然に白色は目に入るわ」

「じゃあ、今までと生活は変わらない?」

「そうね。でも、絵の具は自由に使ってもいいわ」

「マーサさんも一緒にいてくれる?」

「リサちゃんが許してくれるのなら、どれだけだって一緒にいさせて欲しい」

「じゃあ、私の生活に『絵の具』が増えるだけだね」

 私は泣いているマーサさんを見たくなくて、無理やり笑顔を作った。マーサさんは何故かさらに泣き出してしまう。それでも、私に合わせてなんとか笑顔を作ってくれる。

 マーサさんの涙でグチャグチャの笑顔を見て、私はつい笑ってしまった。


 明日から、私の生活に「絵の具」が増える。きっとそれだけのこと。

 まだマーサさんの言っていることの実感が湧かないからこんなことを思えるのだろうか。それでも、実感が湧かないものは仕方ない。

 ああ、そうだ。もう一つ大事なものを忘れていた。


「絵の具」と「青色」が増えるんだ。

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