【No.093】猫と姫君と夢
【メインCP:男11.
----------
その猫は、不思議な姫君と暮らしておりました。その姫君は、なよ竹のかぐや姫と呼ばれていた頃から、若くして死んでは、生まれ変わりを繰り返しているというのです。
ある日のこと。猫が枕元に座わっていると、姫君が
「もう死にます」
そう言いました。
姫君は足元まで届く艶やかな黒髪を枕にして、横たわっておりました。透き通るように白い肌には、温かな血の色が差しています。人前では扇で口元を隠し、控えめに微笑む姫君ですが、猫の前では口元を晒しています。紅をひいたかのような、美しい赤い唇をしておりました。
それなのに、姫君は死んでしまうと言うのです。
「吾輩をおいてかね」
猫はそう言って、姫君の顔を覗きました。
「ごめんなさいね」
姫君はぱっちりと眼を開けました。大きな、黒い瞳。長い睫毛に包まれた、夜の湖のような瞳。覗き込むと灰色の猫が映りました。
深い色艶を眺めて、これが死ぬ人の顔色だろうか、と猫は思いました。何かの遊びだろうか。けれども、本当に死んでしまうかもしれません。姫君は嘘つきではありませんでしたから。
「死んではいけないよ。大丈夫だろうね」
猫は聞き返しました。姫君は黒い瞳に猫を映したまま、
「死にますよ。仕方がないことです」
そう言いました。
「……吾輩の顔が見えなくなったなんて言うまいね」
猫が尋ねると、
「この瞳に映ってるでしょう」
と姫君は答えました。
姫君の中では、自分が死ぬことは揺るぎないことなのでしょう。猫は姫君のそばに寄って、喉を鳴らしました。姫君は、とんとんと猫の腰を叩きました。
しばらくして、姫君がまた、こう言いました。
猫は、いつ逢いに来るかねと聞きました。
「それでね。『私の故郷の、お月様が出るでしょう。それから沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――月が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――名威さん、待っていられますか』……ね?」
「夢十夜ではね。日が沈むのを数えるのだよ。月じゃあない。
「ふふっ。バレてしまいました。翻訳は坪内逍遙先生ですか」
「彼の翻訳も、今や古い言葉になってしまったな……待っているとも。百年でも、二百年でも」
姫君は本当に死んでしまいました。大作家である姫君は丁重に弔われましたが、猫は姫君の
姫君の言った通り、月が昇り、また沈むのを猫は数えました。
猫は、たくさんの友達ができました。青年や、娘たちだけではなく、幽霊とも仲良くなりました。この地球より外からやってきた人たちとも、魔法を使う少年少女たちとも。楽しい時間でした。多くの恋物語が生まれました。
けれども、ある者は死に、ある者は故郷に去り、猫はだんだんと独りになっていきました。猫は文学と哲学が好きでしたが、やがて人々がいがみ合う時代がやってきて、誰も文学や哲学の話をしなくなりました。
猫は話せることを隠すようになりました。
話す相手もいないので、猫は夜中にこっそり、姫君のお墓に話しかけるのでした。
「知っているかい、姫君。このおしゃべりな吾輩が、喋らない時代になってしまったのだよ。……早く、逢いに来ておくれ。君の気持ちは、月のように欠けてしまったのかい?」
地球から人々が去っていきました。猫は人と暮らすことを喜びとしていたので、野猫になることはできず、寂れた町の中を独り、姫君の墓守として暮らしていました。
ひょっとすると姫君に騙されたのではないだろうか。姫君はとうに生まれ変わっていて、自分だけが待っているのではないだろうか。そんな思いが猫の頭をよぎりました。
すると、一本の青い茎がすっと猫の方へ伸びて来ました。このまま豆の木にでもなるのか、と猫が思っている間に、茎は伸びなくなって、細長い一輪の蕾が開いて、チューリップの花が咲きました。つるりとした、真っ赤な花でした。
「……夢十夜ではね。百合の花が咲くのだよ」
だって、チューリップの方が花言葉がロマンチックでしょう?
姫君の声が聴こえた気がしました。
その昔、三人の騎士から求婚されて、その誰も選べなかった娘が、自身をチューリップに変えてもらったという伝説がございます。その伝説から、チューリップの花言葉は、愛の告白と言われています。
「吾輩の他に、誰から求婚されておるのやら。遠い昔から、困った姫君だ。吾輩は何を持ってくればいい? 仏の御石の鉢、 蓬莱山の宝の枝、 唐土の火鼠の皮衣、竜の 頸の五色の玉、燕の子安貝……もっと難しいものでも、君のためなら持ってこよう」
猫はざらりとした舌で、チューリップを舐めました。赤い花は、むっとするほど濃い、生命の匂いがしました。
「百年はもう来ていたのだな」
猫は、はじめて気がつきました。夜空には満月が浮かんでいました。
「……もう百年でも、吾輩は待つぞ。
ごろごろと猫は喉を鳴らしました。猫は喉が渇いていることに気がつきました。どれ、久しぶりに水を飲みにいくとしよう。
了
註1……夏目漱石著『夢十夜』より第一夜の女のセリフを青空文庫より引用。なお本作は『夢十夜』より第一夜のオマージュ作品である。
註2……シェークスピヤ著『ロミオとヂュリエット』よりヂュリエットのセリフを青空文庫より引用。翻訳は坪内逍遙。
註3……註2と同じく坪内逍遙訳『ロミオとヂュリエット』より引用。ロミオのセリフ。
----------
【本文の文字数:2,500字】
★この作品が気に入った方は、応援、コメントで投票をお願いします!
★特に気に入った作品はコメントで「金賞」「銀賞」「銅賞」に推薦することができます(推薦は何作でも無制限に行えます)。
★各種読者賞の推薦も同じく受付中です。今回は「キュンとした賞」を含む常設の読者賞に加えて、「末永く爆発しろ賞」「さっさとくっつけ賞」「ギャップ萌え賞」「オトナの恋愛賞」を特設しております。
★「延長枠」の作品は原則として集計・ランキングの対象になりませんが、正規応募作の得点の中央値以上の得点を得た作品については、後付けで得点集計に組み入れ、作品順位を算出します。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます