第61話 疑心と欲心

徐々に梅雨の季節が近づいて来ているためか、雲が多くどんよりとした空模様になって来ていた。

時折、小雨が降り木々の葉も濡れて緑を濃く感じさせる。

吹いてくる風は南からの湿った風。

屋敷の庭先の片隅に咲いている赤い紫陽花も小雨に濡れていた。

甲斐国で武田晴信に仕える小笠原信貴は、屋敷の縁側で庭を見ている。

小笠原信貴は信濃守護小笠原家の分家。

「15歳で信濃国を追われ今年で早16年か、あっという間だ。甲斐国で信虎様に拾っていただけた幸運に恵まれたが、もはや伊那の地に帰ることもできんのか」

生まれ育った土地を追われた悔しさと同時に、その当時甲斐武田家当主である武田信虎に拾われた感謝の念も持っていた。

一瞬少し風が強く吹き、木々や軒先についた雨粒が縁側にいた信貴にかかる。

「気が付けば間も無く梅雨の季節か、かなり風が湿ってきているな」


信濃国守護小笠原家には大きく3つの家がある。

現在の信濃国守護である小笠原長時が当主である府中小笠原家。

小笠原信定が当主である鈴岡小笠原家。小笠原信定は小笠原長時の実の弟であり、長時の命で断絶していた伊那郡鈴岡城(現在の長野県飯田市)を拠点とする鈴岡小笠原家を再興していた。

残る一つが同じ伊那郡にある松尾城を拠点としていた松尾小笠原家である。

松尾小笠原家は小笠原信貴を当主とする小笠原の分家である。

元々小笠原家は信濃守護の座を巡り三家で争っていた。

鈴岡小笠原家が府中小笠原家の支配下となり、残る松尾小笠原に対して府中小笠原家が攻め込んできた。

天文3年に小笠原信貴とその父である小笠原貞忠は、府中小笠原との戦いに敗れ、松尾小笠原家は甲斐国へと逃げ、甲斐国で武田家に仕えていた。


「殿」

家臣が信貴の下にやってきた。

「どうした」

「山本勘助様がおいでになりました」

「勘助殿がわざわざここまで来ただと?特に約束も無いし来るとも聞いていないが、まあいいだろう。ここに通してくれ」

暫くすると、小笠原信貴のところに山本勘助がやって来た。

ゆっくりと片足を引きずりながらやって来ると正面に座る。

小笠原信貴は、主君武田晴信よりも目の前にいる山本勘助を恐ろしく危険な存在だと見ていた。

勝つためには手段を選ばないその姿勢は、主君武田晴信をはるかに上回り、主君武田晴信に好ましくない影響を与えているように思えた。

主君武田晴信の命令であっても、その多くに山本勘助が絡んでいるのではないかと思っている。

特に志賀城における残虐な仕打ちは、もしかして勘助の立案した策なのではないかと疑ってもいた。武田家中でも異論があったあの残虐な仕打ちに関して、武田家中でも多くの者達が勘助の進言であろうと疑っている。

ただし、同じ武田家中であるが勘助は主君の近くに仕えているため、対応には注意が必要な相手。

小笠原信貴は勘助の笑い顔を見ながら十分に用心する必要があると考えていた。


「信貴殿。久しぶりだな。お父上殿は元気か」

「歳のせいか父は最近体調を崩して寝込む事が多くなっております」

「早く元気になられると良いが」

「それで、今孔明と言われている勘助殿。突然当家に来られるとは、いかがされましたか」

「今孔明か・・小笠原長時の話を聞かれたのかな」

今孔明と言われ苦笑いを浮かべる山本勘助。

「かなり奴を煽られたようですな。勘助殿がわざと自らを今太公望・今孔明に準えて話をされ、小笠原長時はかなり不快な顔をしていたと聞きました」

「かなり念入りに煽ってやったが、斬り掛かって来んかった。いや〜、残念残念。いい大義名分を得られると思ったのだが、意外としぶとい。さすが小笠原家当主と言ったところか」

勘助が自らを使って大義名分を作ろうと考えていたことの知り少し驚いた。

勝つために手段を選ばない人物は何よりも己の安全を優先するからだ。

「斬り掛かってくるとは考えなかったのですか」

「行儀がいいだけで、乱世を生き残るための欲が足りん。そんな奴が正式な使者を斬ることはできんよ。何よりも外聞を気にするからな」

「相手が斬り掛かって来ないことを残念がるのは勘助殿ぐらいですよ。その代わり今頃、長時の奴は勘助殿に揶揄われたと思って怒り狂っていると思いますよ。名門の誇りだけは人一倍強い奴ですから」

「なるほど、その怒り狂っているであろう小笠原長時に関わる件で、信貴殿に頼みがあってやって来た」

勘助は隻眼の目で小笠原信貴を見つめる。

「頼みでございますか」

「そうだ。お主にやってもらいたい事がある。これは晴信様の命令でもある」

「私にできる事であれば」

「お主の手で小笠原長時・信定兄弟を討ち、お主が小笠原家惣領となってもらいたい」

「私がですか」

「そうだ。お主だ」

「ですが、我らは信濃を追われた身。大した戦力は持ち合わせておりません」

「そこは武田家が後押しする」

「越後上杉との和睦条件で武田家は、三年の間小笠原家を攻めることはできないのではありませんか」

「それだからお主なのだ。あくまでも旗頭は小笠原信貴であり、まずは小笠原信定に奪われた領地を奪い返し、さらに小笠原信定を追い出す。この主役はお主なのだ。そうすれば、表向き小笠原家の内紛に過ぎない」

「ですが今の私には・・」

「だから表向きと言ったであろう。武田家中の者達が信貴殿に自主的に協力する形を取る。実際は裏で晴信様が指揮を取られる」

「な・なるほど」

「まずは伊那郡を抑えている小笠原信定を攻め伊那郡を掌握する。そうなれば、松尾城復帰となるだろう」

「松尾城を取り返す事ができるのですか」

「それはお主の働きしだい。晴信様も信貴殿を松尾城に復帰させ伊那郡を任せても良いとお考えだ。全てはお主にかかっている」

「承知いたしました。何としても小笠原信定を討ち松尾城を取り返します」

「その意気だ。晴信様には儂から報告をしておくからすぐに準備に入ってくれ。晴信様と打ち合わせをして、用意できしだい伊那郡攻略の開始だ。近々、晴信様から直接指示が出るであろう」

府中小笠原では無く、伊那郡を支配している鈴岡小笠原家を攻める準備が始まった。

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