第60話 恨み骨髄に徹す
信濃国筑摩郡林城(現在の長野県松本市)。
信濃国守護・小笠原長時の居城である。
大小二つの城からなる山城であり、小笠原長時にとって最後の拠り所とも言える城である。
2年前の7月に武田晴信により侵略を受け、対抗するために武田よりも多くの軍勢を集めた。
小笠原勢5千に対して武田勢はわずか3千。
しかし無理やり集めただけで、数が多いだけの烏合の衆であるため、武田晴信の朝駆けの奇襲により、集めた軍勢の二割ほどが討ち取られ大敗を喫していた。(塩尻峠の戦い)
武田は勝利に乗じて林城のわずか2里先に村井城を築城。
村井城の築城により小笠原長時の動きを完全に抑え込み、小笠原長時が武田が支配した諏訪郡への侵攻をできないようにしていた。
小笠原長時からしたら武田晴信は、信濃を蝕む疫病神のような存在。
その武田晴信から使者が送られてきた。
林城の広間で武田の使者と会った小笠原長時は、目の前にいるその男の言動に接するたびに顔を顰めていた。
使者は山本勘助を名乗り、何もかも自らと真逆の人間がそこにいた。
顔は浅黒く隻眼であり、手の指に欠損、足も不自由であり、着物の隙間から見える素肌には無数の傷が見えた。
しかし、小笠原長時が最も癇に障ったのがその言い草であった。
自らを周の軍師・太公望や蜀の軍師・諸葛孔明に準えるかのような言い草。そして信じ難いほどの傲慢とも言える自信。
「それほどまでに自信があると」
「古今東西多くの軍略書に目をお通しましたので些か自信がございます」
「先ほどからの話では太公望や孔明の策は失敗があると申しているように聞こえるが」
「そのようなつもりはございません。ただ、自分ならもう少し上手くやれると申しただけ」
小笠原長時は目を細め山本勘助を見つめる。
「それで、その自称今太公望(今の時代の太公望)、自称今孔明(今の時代の諸葛孔明)は、何が望みなのだ」
「武田と小笠原の同盟」
「同盟だと」
「左様。武田と小笠原が組めば、越後上杉に奪われた信濃国を奪い返せますぞ。北信濃から小県までは小笠原殿の支配地としてもよろしいかと」
「クククク・・・ハハハハ・・・」
「何かおかしいことでも言いましたかな」
「先に信濃を奪ったのは貴様らであろう。同盟というなら今すぐ諏訪を返してもらおう」
「それはいささか欲張りというもの」
「何だと」
「諏訪は信濃国では無く、甲斐国でございます。それゆえ返す返さないの問題はありません」
山本勘助の言葉に怒りが爆発する。
「ふざけた事を申すな。諏訪は遥か昔から信濃だ。この信濃守護小笠原長時を舐めるのも大概にせよ」
「いえいえ、諏訪はすでに甲斐国となっておりますので返すいわれはありません」
平然とした表情で小笠原長時を見ている山本勘助の姿勢と言葉に、小笠原長時は眉間に皺を寄せ睨みつけていた。
「やはり景虎殿の申す通りであったか」
「景虎?」
山本勘助は、小笠原長時から景虎の名が出てくると、相手を舐め切った傲慢な表情から真顔に変わる。
「そうだ、景虎。越後上杉家上杉景虎殿だ」
「その越後上杉家上杉景虎殿がどうしたというのですかな」
「知る必要は無い。そもそも貴様らが信濃で何をしてきたか忘れたのか」
「何のことですかな」
「武田の縁戚であり、武田の同盟相手の諏訪郡の諏訪頼重殿を一方的に攻め、その後和睦と称して甲斐におびき寄せ自死に見せかけ謀殺。佐久郡では志賀城の戦いのおりに、関東管領様の家臣三千人の首を取りそれを城門前に並べ、降伏した志賀城の者達、男は皆殺し、女は奴隷として売り払う。この振る舞いを行うもの達を信用しろというのか。同盟なんぞしたら諏訪の二の舞であろう。主君が悪しき行いを行うならそれを止めるのが忠臣であろう。主君の悪しき行いに積極的に加担している者の言葉。どこに誠があるのだ」
「やれやれ、何か勘違いされているようですな」
勘助は呆れたような表情をしている。
「儂は事実を言っている」
「諏訪頼重殿は、自ら同盟を破棄された。そして和睦後に自らの罪の重さに耐えかねて自害されただけ。関東管領様の家臣は我らに襲いかかってきたから全て討ち取っただけ。志賀城は偽りの降伏であったため、仕方なく全員討ち取るしかなかったのですよ。女達もとても反抗的で手に負えないのですが、流石に女達を手にかけるわけにいかぬためそのようにしたまで。ご理解いただきたい」
「よくもまぁ、次から次とそのような戯言を抜かすものだ」
「戯言とは聞き捨てなりませんな」
「武田との同盟は不要だ」
「そのようなことで小笠原家が守れますかな」
「要らぬ心配だ。小笠原家はすでに越後上杉家と同盟を結んだ」
「何!」
「もう一度言おう。すでに越後上杉と同盟を結んだ。それゆえ心配無用だ」
「おやおや、礼儀作法と弓ばかりにこだわるあまり、世の流れが分からぬようで、誠に残念」
山本勘助は、わざと小笠原長時をさらに煽るような言い草をした。
小笠原家は、小笠原流弓馬術礼法宗家と呼ばれている。
小笠原家の弓馬術、そして礼法は武家で知らぬものはいないと言われるほどである。
特に礼法は武家の礼儀作法として多くの武家が取り入れている作法であり、小笠原長時はその事に誇りを持っていた。
「小笠原家を馬鹿にするか、失せろ。我ら小笠原家を侮辱した以上斬り殺してやるところであるが、使者として来た以上命は取らぬ、早々に失せろ」
それだけ言うと小笠原長時は広間を出ていった。
ーーーーー
山本勘助は馬に乗り、護衛の供回りと共に林城から村井城に向かっていた。
馬上では何やら考え込んでいる様子が見える。
そんな勘助に供回りの者が声をかけた。
「勘助様」
「どうした」
「小笠原は動きますか」
「あれだけわざと煽ってやったんだ。動いてもらいたいものだ。だが、今のところ五分五分であろう」
「煽りすぎは危険でございます。勘助殿が斬られてしまうのでは無いかと、見ていて冷や汗が流れましたぞ」
「小笠原長時に儂を斬る度胸は無い。ただ単に弓や馬が上手く操れ、礼儀作法に詳しいだけの男だ。天下の評判なんぞ無視して悪辣に生きる度胸も無い。単に行儀がいいだけの男だ。だから広大な信濃国で筑摩郡程度しか治められんのだ。まあ、斬られたとしたらこの体にある無数にある傷が一つ増えだけであり、絶好の大義名分となる」
「あまり無茶はしないでくだされ。そういえば小笠原は、越後上杉と同盟を結んだと言っておりましたな」
「それは唯一の誤算だ。越後上杉とすでに同盟を結んでいたとは、上杉景虎・・なかなか仕事が早いようだ」
「油断できませんな」
「全くだ。思わぬところで損得勘定を抜きに義を掲げて動いてくる。しかし、上杉景虎が掲げる義が奴の弱点であり、奴を縛る鎖ともなる」
「上杉景虎の掲げる義が弱点であり鎖ですか」
「外聞を気にせずに心の欲するままに動けぬことが奴の弱点でもある。だが、もしも奴が何があろうと心の赴くままに動くなら,我らでは手が付けられん,我らでは歯が立たぬ相手となる。しかし、もう少し早く動き、越後上杉が動く前に小笠原をどうにかしたかったが、すでに手を打たれた後か。ならば、少なくともあともう一手必要だな」
山本勘助は馬上で考えごとをしながら村井城に入って行った。
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