第55話 黄金千両の力

足利幕府第13代将軍足利義藤は,三好長慶との対立激化により情勢不安な京を脱出して近江坂本に避難していた。

しかし,前将軍で父である足利義晴の病状悪化により1日も早く京に戻るため,三好長慶への反撃の準備しており,京の東山に中尾城を築いて反撃の機会を伺っている。

そんな剣呑な空気が漂う近江坂本。

その近江坂本にある寺を仮御所として使っている将軍の下に,神余親綱かなまりちかつなは供回りのものたちと共に訪れようとしていた。

神余親綱は,他の越後の武将のように戦場で華々しく活躍するより,朝廷や幕府などと難しい交渉を任される事が多かった。


「神余様は、お忙しいですな。先月は摂津国の石山本願寺にまで出向き、今日は近江坂本」

「畿内で動けるのは儂しかいない。仕方あるまい」

「石山本願寺は上手く行きましか」

「景虎様の御指示通り黄金100両を納めてきた。証如殿にも会うことができ、景虎様が関係改善を考えておられると話したら、証如殿は上機嫌であった。この先、関係はかなり改善できると思う」

「流石は神余様。しかし、近江坂本はかなりピリピリしておりますな」

「当然だ。上様は何としても京を奪い返したいとお考えだろう」

「ですが,三好長慶はかなり手強い相手と聞いております」

「それは上様も管領様も分かっている。そのための策の一つが中尾城であろう」

「それはそうですが,あの程度の城一つでは無理かと思います。そもそも我ら越後国の精鋭と比べれば,畿内の兵は覚悟が足りぬかと」

「それは,言っても仕方なかろう。戦において命を惜しむが故にそのもたちが真っ先に死ぬ。そのような集まりだからこそ,単純に兵の多寡で戦を推し量るのだ。越後では精鋭とはいえぬ我ら在京雑掌でさえそのように思うのだ。仕方なかろう」

「なるほど」

「それより,そろそろ口を慎め。上様の警護をしている朽木の兵たちがいる。不敬だと言いがかりをつけられるぞ。用心しろ」

「承知しました」


将軍のお膝元とも言える畿内においても,戦乱の影響が色濃く現れている。

寺の周りを見渡せば朽木一族と思われる男たちが警戒している。

朽木一族は,将軍家を常に支え続ける数少ない国衆。

そのため,将軍は何かあれば朽木一族を最後の頼りとしていた。

すでに越後国守護代からの使者であると事前に伝えてあるためか,寺の入り口で幕府の奉公衆が待っており,神余たちを見つけると謁見のための広間へと案内してくれた。

通された広間で待っていると緊張感がますます高まっていく。

しばらくすると将軍足利義藤と管領細川晴元が入ってくる。

管領細川晴元は36歳。

神余たちが集めた晴元の噂では,聞こえてくる噂はあまり良く無い。

権力欲に取り憑かれ畿内のほとんどの戦に関与しているとも言われ,将軍を自らの傀儡として扱う男だともっぱらの評判。

将軍足利義藤はこの時14歳。

神余から見た将軍は,やや線が細いように感じるが日々剣術に打ち込んでいるおり,その腕前はすでにかなりのものであると噂されている。

乱世の中で衰退していく足利将軍家を,どうにか立て直さんと必死に孤軍奮闘している若き将軍であった。


神余親綱は,事前に管領細川晴元や幕府に対して,しっかりと根回しをしている。

しかし,神余親綱は主君長尾景虎から託された使命の重さと将軍を前にしての緊張感から,喉がカラカラに乾くような思いに囚われていた。

「上・・上様・上様のご尊顔を拝し奉り恐悦至極の存じます。それがしは,越後国守護代長尾景虎の家臣・神余親綱と申します」

「余が将軍足利義藤である」

「この度,越後国守護である上杉定実様がお亡くなりになりました。上杉定実様には嫡子がおらず越後上杉家は廃絶となりました」

神余たちが根回しを始めるときに,越後からの次の使者が到着。

越後国守護上杉定実の死が伝えられていた。

「そうか,上杉定実が死んだか」

「このまま越後の国主不在のままでは,越後は戦乱に明け暮れることとなります。そこで越後守護代であり武勇に秀でた我が主人長尾景虎様を,越後国主としてお認めいただきたく参上いたしました。何卒お願いいたします」

若き将軍足利義藤は,返事をせずに暫く考え込んでいた。

その手に持った扇子を忙しなく少し開いたり閉じたりを繰り返している。

その様子を見ていた管領細川晴元は,慌てて将軍足利義藤に声をかけた。

「上様」

「晴元。如何した」

「長尾景虎殿は武勇の誉高く,その噂は越後国だけに留まらず京にまで伝わっております」

「長尾景虎の武勇は儂も聞いている。初陣において一軍を率いて見事な手腕を見せ,倍以上の敵を打ち破り,さらに自らの手で敵将を討ち取った。その後の戦においても負け知らずであり,さらに佐渡国主でもあったな」

「はい,武勇に優れた武将にございます」

「それほどの武勇の将。是非とも軍勢とともにここに来て,儂の手助けをして欲しいものだ」

将軍足利義藤は,ため息をつきながら呟く。

「上様。越後国は京の都からは遠く離れており,戦乱が続いております」

「それくらい分かっておる。ほんの戯言だ。忘れよ」

将軍足利義藤は思わず苦笑いを浮かべる。

「長尾景虎殿は越後守護代と同時に佐渡国主。越後守護代長尾家は代々幕府に対する忠節が強い家柄でございます。此度も幕府に対しまして多額の銭を寄贈してくれるとのこと」

「多額の銭だと」

三好長慶により京を追われた幕府の財政は火の車であり、各地の国衆や大名に官位を斡旋して収入を増やすことに取り組んでいるところであった。

神余は供回りに命じると木箱が前に出される。

檜で作られ、縦七寸(約21センチ)、横一尺七寸(約50センチ)、高さが五寸(約15センチ)ほどある。

将軍足利義藤は多額の銭と聞いて期待したが小さな木箱が出てきたため、がっかりした表情を浮かべて木箱の蓋を開けた。

蓋を開けるとそこから黄金の輝きが溢れる。

「こ・これは・・」

「越後で使われている黄金の銭。黄金の京目一両の銭が1000枚ございます」

将軍足利義藤と管領細川晴元は、黄金の輝きに目を奪われた。

「黄金千両(四千貫文)もの銭を寄贈してくれると言うのか」

景虎が生まれ変わる前,この時の記録では銭の寄贈は銭三千疋寄贈とある。

貫高にすると30貫文。1貫文10万円として計算すると約300万円ほどの寄贈であった。

今回,景虎はあえてその100倍以上もの銭を幕府に差し出した。

京を追われ窮乏している将軍を思ってのことでもある。

将軍が京の都を追われたら税による収入が途絶え,諸大名や寺社からの寄贈に頼るしかなくなり,幕府の懐具合は途端に厳しいものになる。

今回,景虎が越後国主就任への働きかけのために,朝廷や将軍家周辺・幕府周辺に使った銭も全て含めれば,黄金千両をはるかに越えていた。

「上様。間違いございません。この厳しい財政状況の中,誠にありがたいことです」

細川晴元は嬉しそうな表情を浮かべている。

「ならば,その忠節に答えてやらねばならんな」

将軍足利義藤は,笑みを見せながら神余親綱を見る。

「それでは」

「越後国守護代長尾景虎にを越後国主と認め、国主の証である白傘袋と毛氈鞍覆もうせんくらおおいの使用を許す」

「ありがとうございます」

神余親綱は感謝のため深々と頭を下げていた。

「待て,まだある」

「えっ,まだあるとは,それは一体なんのことでしょう」

「せっかくだ。白傘袋と毛氈鞍覆だけではつまらんだろう」

将軍足利義藤は神余親綱を見る。

「そ・それは一体」

「名門である越後上杉家をこのまま断絶させるのは惜しい。そこで,長尾景虎は越後上杉家の名跡を継ぎ,上杉景虎と名乗ることを将軍足利義藤の名において命ずる。つまり将軍である儂からの命令で越後上杉家を継ぐのだ。儂の命令であれば,国衆たちは誰も文句を言えまい」

「なんと,越後上杉家の名跡をですか」

「本日只今より,長尾景虎は越後上杉家当主上杉景虎であり,越後国国主である。ますます忠節に励むべし」

「ありがとうございます。主人長尾景虎も喜び,上様に対してますます忠節に励むものと思います」

若き将軍足利義藤の命令により,長尾景虎が越後上杉家の名跡を継いで越後国主となることが決まった瞬間であった。

神余親綱は,主君長尾景虎に報告するために急ぎ越後国へと帰国するのであった。

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