第53話 謙信の隠し湯

秋が深まるにつれ木々の葉も赤や黄色に色づいてきており、山中では山栗や胡桃が実をつけていた。

周囲からは微かに鈴虫の鳴き声も聞こえている。

見上げる空は薄く清々しさを感じさせる水色。

水色の空に白い鱗雲が長く伸びて浮かんでいる。

そんな秋の山々の風景と秋の空を眺めながら、景虎は山中の温泉に浸かっていた。

その露天風呂は、天然の岩で作られており、熱い茶褐色の湯がこんこんと湧き出ていた。

景虎は湯の熱さを楽しみながらゆっくりと浸かっている。

信濃国善光寺平城滞在中には、戦で傷を負った兵達の治療のため、わざわざ温泉を探して湯治をさせていた。

北信濃から佐久までにいた武田の勢力を一掃し、武田対策に関して真田幸綱と打ち合わせ終えて越後府中に戻る途中、信濃国での戦で傷を負った家臣達の傷の手当ても兼ねて、関温泉(現在の妙高市)で皆を温泉に入れて湯治をさせているところであった。

露天風呂の温泉からは微かに鉄分の匂いがしている。

「まことにいい湯だ」

「景虎様。ここ関温泉はかの弘法大師空海様が発見された湯と伝えられております」

すぐ近くに控えていた斎藤朝信が関温泉の由来を述べていた。

周辺には護衛の武士達と忍びが景虎に見えないようにひっそりと控えている。

「ほぉ〜、弘法大師様か、なかなか霊験あらたかな湯だな」

「その通りですな」

「皆は温泉を楽しめておるか」

「はっ、皆は温泉の効能で傷の治りも良いと言っております。さすがは名湯でございます。日に何度も温泉に入り温泉を楽しんでおります」

「そうか、それはよかった」

「この近くには他に燕温泉と呼ばれる温泉もございます」

「燕温泉か」

「温泉の近くに燕が多く巣を作っていることから、そのように呼ばれるそうです。そこも弘法大師様ゆかりの温泉と言われており、そちらは白濁した湯と言われております」

「その温泉の霊験に惹かれて、燕が多く巣を作っているのかもしれんな」

「なるほど、それは言えるかもしれませんな」

「今後のこともある。温泉を整備して使いやすいようにしておく必要があるな」

景虎は、曲直瀬道三に出会った頃から医療医術にも関心を持ち始め、戦の後の怪我人に対する手当てを考え始めていた。

そのため、医師の育成にも力を入れ始めたところであり、その一環として湯治にも注目し始めていた。

怪我が早く治ればそれだけ戦力の低下を避けることができるからである。

関温泉、燕温泉共に謙信の隠し湯と呼ばれ、他にも三国峠にある貝掛温泉(現在の新潟県湯沢町)、日本三大薬湯と呼ばれる松之山温泉(現在の新潟県十日町市)が謙信の隠し湯と呼ばれている。

関東出兵の時には、貝掛温泉や松之山温泉を利用していたと云われている。

「上杉家で温泉の整備でございますか」

「各地の温泉を探し出してその周辺を整備しておけば、戦における傷を癒すことに使える。戦のない時は多くの者達に開放してもよかろう。だが、戦の怪我人の湯治がある時はそちらが最優先になる」

「承知いたしました。順次整備いたします」

「北信濃の湯山村(野沢温泉)の温泉も拡充整備を加えておいてくれ」

「北信濃の湯山村ですか」

「信濃国での戦のおり、怪我人を送り湯治させた。整備しておけば何かと便利であろう。湯山村の温泉は、行基様が開いた湯と言われている霊験あらたかな温泉だ」

「行基様の温泉ですか。承知しました。北信濃の湯山村も加えておきます」

しばらく湯を楽しんでいたら景虎を呼ぶ声がした。

「景虎様」

「その声は、戸隠忍びの乗堯か」

「はっ、武田晴信の動向に関しての報告でございますが、よろしいでしょうか」

「かまわん。このまま報告してくれ」

「承知しました。今川家太原雪斎殿の仲介で成立した和睦に関しては、いまだに不満を抱いている様でございます」

「そうだろうな」

「特に信義に基づく和睦と謳っていることに怒っているようで」

「そうか。奴の性格からしたらそうなるだろうな。今回の和睦は武将としての信義に基づく和睦と謳ってある。これを自分から破れば、武将として信義の無い男であると自ら天下に白状する様なものだ。それに破りたいならいつでも相手になるぞと言われていることと同じだ。今川家の仲介による和睦となっているが、奴からしたら対等に見られていないと感じているだろう」

「確かにその様な愚痴をこぼしています。そのため、どうにかこの和睦を有耶無耶にして、信濃攻めをしたいと考えている様です」

「ほぉ〜、有耶無耶にしたいか」

「山本勘助なる男に策を考えるように命じているそうです」

「奴らのやることは決まっている」

「決まっているとは」

「奴のやることは謀略と調略。それだけだ」

「謀略と調略」

「佐久か小県の国衆、もしくは真田への調略。信濃守護小笠原を焚き付け我らと戦わせ、そこに支援と称して加担してそのまま小笠原を乗っ取る。あとは我ら越後上杉に攻められたと無理やり言いがかりをつけて攻め込む。こんなあたりか」

「越後国衆への調略は無いのでしょうか」

「我らは信濃での戦いで武田を圧倒してみせた。この状態で越後国衆が武田の調略に乗っかる旨みが無い。武田側から援軍を出すと言われて信じる者はいないことは、さすがに分かるだろうからやらないだろう」

「なるほど」

「おそらく小笠原を利用するか、和睦の約定を無視して攻めてくる。そのあたりだろう」

「承知しました。特にその件を考慮して情報を集めましょう」

「真田幸綱にも知らせておいてやってくれ」

「真田殿にも知らせておきます」

温泉に熱った体に心地よい秋の風が吹いて来ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る