第52話 花も実もある漢
太原雪斎は,甲斐国で和睦を渋る武田晴信から長尾景虎との和睦についての一任を取り付け,佐久郡からは真田幸綱の案内で,景虎が滞在している北信濃の善光寺平城へ向かっていた。
「雪斎殿。間も無く善光寺平城でございます」
先頭を進む真田幸綱の声が聞こえる。
徐々に善光寺平城が見えてきた。
「まさか,これほどとは,これを二年かからずに作り上げたと言うのか」
太原雪斎は,その大きさに驚いていた。
巨大とは聞いていても,せいぜい普通の平城を少し大きくした程度であろうと考えていた。
しかし,想像を超える巨大さに思わず目を見開く。
想像とのギャップがさらにその巨大さを際立たせていた。
近づいていくに従って,城作りの異質さが見えてくる。
「これほど大きな石を使って高く石垣を組み上げるとは・・堀も広く水量も多い。この灰色の壁は一体なんだ。漆喰に似ているが漆喰ではない。石のような硬さ。壁に開いた多くの穴は何のためなのだ」
太原雪斎は混凝土の壁,壁の内側から外に向かって火縄銃を撃つための穴を見て,疑問を小声で呟きながら進んでいく。
この頃は,まだ石垣を使用した城作りは珍しく,ほとんどの城はまだ土塁などを使用している。
「真田殿。この城の総構え(城の外周)はどれほどあるだ」
「二里(約8km)ございます」
「なんと,二里もあるのか」
驚きながら進むと一人の男が現れた。
「ようこそおいで下さりました。長尾景虎様の家臣・斎藤朝信と申します。これより,この斎藤朝信が景虎様のもとへご案内いたします」
「よろしくお願い致す」
一行は斎藤朝信の案内で場内を進む。
板張りの床を歩くたびに音なる。
鶯張りの床であった。
「この床は,わざと音が鳴るように作られているのか」
「その通りでございます。鶯張りと呼ばれるそうで」
「なるほど,これなら曲者もすぐに見つかるな」
「流石でございます。そのための作りでございます」
斎藤朝信はどんどん進んでいく。
やがて中庭が見える縁側に出ると中庭に一際大きな赤い番傘が見えた。
そこには六畳ほどの畳が敷かれ,中央に茶釜。その横に一人の若者がいる。
その若者が長尾景虎であった。
「どうぞ,こちらへ」
斎藤朝信は,中庭に降りると赤い番傘に向かって歩いていく。
太原雪斎は慌てて後を追う。
斎藤朝信が跪く。
「景虎様。駿河国今川家太原雪斎殿をお連れしました」
長尾景虎は穏やかな笑顔で軽く会釈をする。
「越後国守護代・長尾景虎と申します」
「駿河今川家家臣・太原雪斎と申します」
「どうぞお座りくだされ」
景虎は,庭に敷かれた畳を示す。
太原雪斎は言われたままに畳に座る。
「景虎殿。これは一体」
「せっかく遠路はるばると駿河国から北信濃まで参られたのだ。茶でも振る舞おうと思って野点の用意いたしました」
庭に敷かれた畳からは真新しい井草の香りがしてくる。
秋の柔らかな日差しが赤い番傘で日陰を作りだす。
中庭にある木々の葉も微かに色づき始めている。
穏やかで涼やかな風が庭を駆け抜けていく。
「ほぉ〜,ここに来て,茶の湯とは思ってもみませんでした。茶の湯はかなりなされるのですか」
「兄・晴景と共に始めたばかり,細かな作法には拘らず,茶の味を楽しむことにしております。まぁ,所詮京の都で行われている茶の湯の真似事。我流の茶ですな」
景虎は,穏やかな笑みを浮かべるとともに黒茶碗に茶を点て始めた。
太原雪斎は,景虎の手の動き,顔の表情に至るまでの一挙手一頭足に至るまで見つめていた。
そして,景虎の点てた茶を受け取るとゆっくりと飲んでいく。
「美味い。よき茶でございます」
「天下の太原雪斎殿にそう言われると嬉しいものだ」
「京の都の茶人にも劣らぬ茶でございます。久しぶりによき茶をいただきました」
「そう言ってもらえると用意した甲斐があると言うもの」
太原雪斎は,自らが策略も何も無い素のままに茶の湯を楽しみ,笑顔になっていることに気がついて内心驚くと同時に,景虎にしてやられたと感じた。
厳しい駆け引きと腹の探り合いを覚悟してやってきたはずが,気がつけば無意識のうちに笑顔を浮かべ茶を楽しみ,景虎が茶を点てる姿に見惚れている。
茶の湯の真似事,我流の茶と言っているが,その姿は実に様になっており,景虎が茶を点てる姿そのものが画になると思えるほどであった。
「やれやれ,まさかこれほどの御仁とは思いませんでしたぞ。我流などとはとんでもない。景虎殿は茶人。流派など関係なく間違いなく一流の茶人でございます」
「お世辞でそう言っていただけると嬉しいものです」
「お世辞でもなく,正直な思いでございます」
穏やかな雰囲気が漂う中,景虎は雪斎に和睦の件を話し始める。
「雪斎殿」
「はい」
「和睦は三年でどうですか」
「承知いたしました。越後長尾家の北信濃から佐久までの領有を認め,武田の軍勢は三年間越後長尾の領地に入らぬことを約束させましょう」
「こちらは,同じ三年間甲斐武田の支配地へ攻め込むことはしません。それと,その間に甲斐武田は信濃守護小笠原長時殿を攻めないこと」
「なるほど。越後長尾家と甲斐武田家の和睦の期間に,武田が信濃小笠原を攻めないことは重要ですな。そうしなければ,間違いなく武田は小笠原を攻め滅ぼし,和睦が終わると同時に佐久を飛び越えて,北信濃を直接攻めることをやりかねません。分かりました。それも含めましょう」
和睦条件に小笠原を絡めたのは、景虎なりの考えがあった。
歴史通りなら来年の夏に武田晴信が小笠原長時の居城である林城を攻め、小笠原長時は信濃国を捨てて逃げることになる。
だが、景虎が飯山から佐久までを抑えたことで、武田晴信は小笠原を攻めている余裕は無いと思っているが、さらに武田晴信の動きを封じるために念のため加えたのである。
「条件はそれだけです」
「人質は如何します」
「人質は無しとする。今回は武将としての信義において和睦を結ぶもの」
「信義でございますか」
景虎の言葉に雪斎は、武田晴信は人質があろうがなかろうが、攻めると決めたら攻める男だと見ていることを知る。
「武田晴信と言う武将を知るまたとない機会であろう」
「承知いたしました。武将としての信義において結ばれた和睦の件は,今川家が責任を持って武田に守らせましょう」
「今川家のご配慮に感謝いたします」
太原雪斎は,和睦の具体的な細かい内容を決めると足早に帰っていった。
太原雪斎一行が北信濃から甲斐国に向かう道中,護衛の今川家家臣達が雪斎に問い掛けてきた。
「長尾景虎なる人物はいかがでしたか」
「武将として花も実もある漢だ」
「花も実もある漢ですか」
今川家の家臣達は,太原雪斎の言葉の意味を理解しかねるような表情をしている。
「そうだ。武将としての強さはすでにすでに知れ渡っている。戦に強いだけの武将は数多いる。だが,その程度の武将では大国を保つことなどできぬ。ましてや複数の国を治めるなどできぬものだ」
「ならば,長尾景虎は」
「越後の龍と呼ばれるのに相応しい。知勇兼備にして大胆不敵。会えば皆景虎殿の武将としての器に皆魅了される。武将とは,かくありたいものよ」
太原雪斎は笑みを浮かべながら先を急ぐのであった。
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