第38話 二虎競食の計(1)
築城が急速に進む善光寺平城の一室。
外での築城の物音や人夫・職人達の声が聞こえてくる。
真田幸綱がいるその部屋に弟の矢沢頼綱がやってきた。
「兄上」
「頼綱。どうした」
「言われた通り、信濃中に善光寺平城の事を広め、さらに甲斐国には村上義清が武田晴信を戦下手と笑っているとの噂を流している。だが、これが何になるのだ」
矢沢頼綱は、兄である真田幸綱の指示で家臣と真田の忍びを使い、武田の支配する信濃南部と甲斐国に噂を流していた。
「ふむ、そうだな・・ならば、頼綱に儂の本音を話しておこうか」
真田幸綱は,執務の手を止め弟頼綱の方を向く。
「本音?」
「そうだ。儂の目的は小県への復帰だ」
「それは知っている。我ら真田の悲願でもある」
「儂らは長尾景虎様に拾われた。いきなり侍大将格でだ。土地を追われた者をいきなり侍大将格で雇う大名家は無い」
「それも分かっている。他では考えられない破格の待遇であることは確かだ」
「長尾景虎様の兄であり、前越後守護代長尾晴景様に話を伺うと、景虎様は大義名分の立たない戦は嫌う方とのことだ。おそらく謀略の類いはお嫌いであろうからその部分は儂が受け持とうと思っている。さて頼綱、儂は景虎様の命で善光寺平城を作り、城代となっている。我らから村上義清を攻めるなとの厳命もある。我らが景虎様の恩に報い、その上で小県郡を取り返すにはどうすればいいと思う」
「ならば,村上義清からこちらを攻めさせる」
「流石に村上義清もそこまで馬鹿ではないぞ。南に武田晴信。北に越後長尾景虎様。南北に強大な敵を作れば,挟まれて滅亡することは目に見えている。我らがこれ以上南進しないと言っている以上は、目前の敵である武田晴信だけにしたいだろう」
「ならば、兄上はどうするつもりなんだ」
「そうよな、あえて言えば、二虎競食の計とでも言えばいいか。頼綱が流している噂話はその計略のためだ」
「二虎競食の計?」
「村上義清は、武田が支配下に置いた佐久郡や諏訪郡が欲しい。武田晴信は村上義清を倒し、村上義清が支配する小県郡や埴科郡・更科郡を手にいれ、そこを足場にしてさらに北信濃,最後は越後の海へと手を伸ばしたいと考えている。お互いが相手の支配下の土地を欲している。ならば、二人で存分に食い合ってもらえばいい。そしてお互いに消耗してもらい。お互いに消耗し尽くした上で村上義清が越後に逃げ込み、景虎様が大義名分を得る。その上で我らが景虎様の先兵として動き,ここ善光寺平から小県郡、もしくは佐久郡までを一気に支配下に置くのだ」
「そんなことが上手くいくのか」
「上手くいくのかどうかでは無い。上手く行かせるのだ。そのための善光寺平城築城であり、儂が城代としてここにいるのだ。そして、北信濃の国衆はことごとく善光寺平城築城に手を貸している。つまり北信濃の国衆は景虎様の支配下に入ったも同じ。そこでさらに頼綱や真田の忍びである風介らを使い噂を広めているのだ」
「だが、村上義清が黙っていないだろう」
矢沢頼綱の目には、村上義清が大人しくしているとは思えなかった。
北信濃・東信濃の盟主を目指している武将であり、侮れない影響力を持っていると見ていた。
「我らよりも後から助けを求めて逃げ込んできた者と、力を認められ侍大将となって支えている者。どちらが長尾家中で強い影響力を持つかは比べるまでもない。我らが小県もしくは佐久まで手に入れたら、我等の害にならない場所の城の一つや二つぐらいはくれてやれば良い。そうなれば、村上義清は我らの与力も同じことになる」
「ふ〜、話がデカすぎて儂にはわからん。儂は兄上の命ずるままに動くまでだ」
「心配するな。損はさせん。この信濃の地で最後に笑うのは、武田でも村上でも無い。我ら真田一族だ」
ーーーーー
武田晴信の前に一人の男がいた。
肌の色は浅黒く,片目の隻眼,片足が不自由,手の指に欠損があり,身体中に無数の傷跡。
家中には,この男のことをいまだに大言壮語の大法螺吹きと揶揄する者達もいる。
武田晴信の軍師とも呼ばれる山本勘助であった。
片足が不自由なため,座ることも簡単にはいかない。
山本勘助はゆっくりと座る。
「勘助」
「はっ」
「村上義清が儂のことを戦下手だと笑っていると噂が流れてきている。奴が本当に言ったかどうかはわからぬが噂を捨て置くわけにはいかぬ」
「武田家中でそのようなけしからん噂をしているものたちは,すぐさま処罰すべきです」
「そのようなことをすれば,儂が噂を認めたことになる」
「ですがそのような噂を放置しておくことは,北条・今川に良くない心象を与えましょう。進めている同盟話の進展に悪しき影響を与える恐れがございます」
武田晴信は,駿河の今川義元とは良好な関係を築いていた。
その関係は,武田晴信が父信虎追放に関して今川の協力姿勢に現れている。
これをさらに進めて相模国北条を加え三国同盟として,お互いの背後を支えあう同盟とすれば,背後の守りを気にせずに兵力を前面に集中できると考えていた。
しかし、相模北条家との折衝はなかなか進展しないままであった。
「一度噂が流れれば,人の口に戸は立てられん」
「しかし・・」
「噂を払拭するには,我ら武田が村上義清を討つことで払拭するしかない」
「村上を攻めますか」
「そのつもりだ」
「ですが前回は上田原で大きな痛手を負っております」
「あれは,儂の油断が招いたことだ。同じ過ちはせぬ。村上義清は間違いなく強い」
「ならば,まともに戦うことは危険でございます。特に砥石城は難攻不落とも言われております」
「徹底的に調略をかけるしかないだろう。飯富虎昌に村上義清配下の切り崩しを命じている。勘助も飯富に手を貸し,村上義清の足元を徹底的に切り崩せ」
「承知いたしました。ですが善光寺平に越後長尾が,かなり大きな城を築いていると聞いております。村上義清は越後に助けを求めるのでは」
「村上義清は上田原で儂に勝っている。勝っている以上,儂のことを完全に舐めている筈だ。越後に助けを求めることはしないだろう。しかも,善光寺平の越後長尾の城を預かるのは,小県にいた真田と聞いている。そんな相手に助けを求めるとしたら,儂に負けた後だ。しかし,越後に助けを求めても、その時には全てを儂に奪われた後だ。どうにもできんだろう。たとえ越後の長尾が出てきても、できるだけ正面からの戦いを避け、農民を村に戻さなければならない農繁期の時期まで耐え忍ぶことができればいい。そうなれば時間切れで越後に帰るしかない」
この時代の兵士である足軽は、ほとんどが農民である。
農民を長期間拘束すれば農作業に影響が出ることになり、収穫量が減れば年貢が減り、収穫量が減れば飢餓の恐れもあるため、影響が出ないように長期間の戦いを避ける。もしくは、農繁期の戦いを避けるのが当たり前であった。
「なるほど。承知いたしました。すぐに調略に取り掛かりましょう」
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