第24話 河越夜戦(3)

扇谷上杉の軍勢を蹴散らし殲滅した北条氏康の軍勢を、少し離れた闇夜の中に潜み見つめている軍勢がいた。

長尾景虎率いる越後の軍勢と真田幸綱の軍勢である。

もともと長尾景虎とその軍勢は、関東管領上杉憲政の陣から少し離れた後方にいた。

事前に夜襲への準備を終えて、すぐに移動できるようにして軒猿の報告を待っており、軒猿から北条が動き出しとの報告を受けすぐさま軍勢を率いて移動してきていたのだ。

既に扇谷上杉と北条の戦いは始まっていて、まもなく北条氏康の勝利で決着が付きそうである。

真田幸綱は長尾景虎の横で扇谷上杉での戦いを見ている。

「景虎殿の申す通り夜襲が始まりましたな。扇谷上杉の陣へ向かいますか」

「真田殿。今向かっても扇谷上杉と北条の見分けがつきません。もう少ししたら北条は上杉憲政様へ軍勢を向けます。その軍勢の真横を突き、北条氏康とその軍勢を包囲殲滅する方がいいでしょう。宇佐美定満」

「はっ」

長尾景虎は宇佐美定満を呼ぶ。

「宇佐美定満は3千を率いて、北条の後詰め2千を叩きつぶせ。ただし、退却の指示が出たら速やかに引け」

「承知いたしました」

真田幸綱は、ここまで正確に北条の動きを予測し、手を打てる景虎に驚いていた。

ここ数ヶ月、長尾の軍勢は軍紀が乱れることも一切なく、規律を保ち油断することなくこの時を待ち続けてきたように見えた。

数ヶ月にも及ぶ長期の滞陣でこのようなことは他の軍勢では無理である。

睨み合いに飽きて軍紀が緩むものだ。

しかし、軍紀が緩むどころか、陣中では己の鍛錬に勤しむ者達ばかり。

そして、景虎はまるで今日のことを全て知っているかのような冷静な振る舞い。

人は景虎を軍神毘沙門天というが、案外本当なのかもしれないと考え始めている真田幸綱であった。

越後の軍勢は一言も発すること無く、じっと景虎から命が降ることを待っている。

やがて景虎は腰の刀を抜くと夜空に向けて掲げた。

すると雲に隠れていた月が顔を見せ、景虎を照らす。

景虎の愛刀が月の光を反射して輝いていた。

皆の目が景虎の向けられる。

「我は軍神毘沙門天。これより逆賊北条氏康を討ちとる。我に続け」

景虎は先陣を切って馬を駆けさせた。

全ての軍勢が景虎に遅れまいと走り始める。

真田幸綱は、その姿に驚いた。総大将が自ら先頭を切って敵陣に向かったからである。

そして、真田幸綱もその姿に惹かれるように馬を走らせていた。

馬を走らせながら真田幸綱は口元に笑いを浮かべている。

「こんな湧き立つような気持ちは始めてだ。不思議なものだ。戦でこんな湧き立つような気持ちになるとは、景虎殿は本当に毘沙門天の化身なのか」

長尾景虎に率いられた軍勢は、北条氏康率いる6千の軍勢を真横から強襲する。

想定外の実態に激しく動揺して長尾景虎の軍勢に崩される北条の軍勢。

「狙うは北条氏康の首一つ。逃すな」

景虎の声に呼応するように一際大きな鬨の声を上げて、北条勢を討ち倒していく。


ーーーーー


北条氏康とその軍勢は、宿敵の一人である扇谷上杉家上杉朝定を討ち取り、高揚感に包まれていた。

気勢を上げて残る宿敵関東管領上杉憲政を討つため、北へと向かったその時、ここにいないはずの敵に、軍勢の真横から攻め込まれて大混乱となった。

「敵だ・敵襲〜」

「敵・敵だ」

敵襲を叫ぶ声が響き渡る。

ふいをつかれた北条勢はあっという間に斬り倒されていく。

「何が起きた」

北条氏康は何が起きたのか分からずに狼狽えていた。

北条氏康を守ろうと近習の者達が周辺を固める。

そこに家臣が報告に来た。

「越後長尾勢による強襲です」

その報告に驚く。

「馬鹿な、越後長尾の連中は、関東管領上杉憲政の軍勢の後方にいたはずだ。なせここにいる」

「氏康様危険です。多目殿の後詰めの方にお逃げください」

「ここまで来て逃げられるか、長尾の若輩者に背中を向けて逃げるわけにはいかん」

しかし、月に照らし出された戦場の中で,北条氏康の目前まで越後勢の姿が迫ってくるのが見えている。

「このままでは囲まれ、逃げ場を失ってしまいます」

「ウグググ・・・」

そんな混乱状態の中、馬を操り、刀を振り回し、北条の足軽を切り払いながらこちらに向かってくる武将がいた。

その武将の目と北条氏康の目が合った。

その瞬間、全身が総毛立つ気がしたと同時に、ゾッとする感覚が全身を駆け巡る。

そして全身から嫌な汗が吹き出してきた。

この男は危険だと北条氏康の武将としての感覚が訴えている。

そして無意識に馬の向きを変えて後方に走らせていた。

「北条氏康、逃さんぞ。この毘沙門天、長尾景虎が討ち取ってくれる」

自らを毘沙門天になぞらえる男の声が戦場に響き渡った。

北条家の中でも豪胆と言われる北条氏康。

そんな氏康が景虎を見た瞬間、他の武将に無い異質な恐ろしさと危険を感じ、無意識に馬を反対側に走らせていた。

逃げる北条氏康を家臣達が守るように固める。

長尾景虎はそんな北条氏康を追いかけるが、北条の家臣達が必死に立ち塞がる。

そんな長尾景虎に本庄実乃達が引き留めた。

「景虎様これ以上の追撃は危険です。お戻りください」

周囲を見渡せば、既に北条勢は総崩れで散り散りになり逃げていた。

「仕方あるまい。実乃、引き上げの法螺貝を」

「承知いたしました」

越後勢引き上げの法螺貝が響き渡り、長尾景虎達は関東管領上杉憲政の陣へと向かった。

河越城に立て籠っていた北条綱成達3千は、北条氏康敗北を知ると城を捨てて退去して行った。

これにより河越夜戦は、扇谷上杉家当主上杉朝定が討たれたものの、北条氏康大敗により関東管領の勝利へと歴史が変わった。

そして武蔵国東半分は、扇谷上杉家から関東管領上杉憲政の山内上杉家が支配する国へと変わり、北条の勢力は大幅に後退することになった。

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