第10話 罠
いつもは暑い夏の日差しでありながら今日は雲が多く、穏やかな日差しであり気持ち良い風も吹いている。
越後府中を出発した景虎一行は、古志郡栃尾城に向かってゆっくりと進んでいた。
そして現在は、休憩のため馬を降りて休んでいたところであった。
「宗弦」
「ここに」
景虎の背後に兄から譲り受けた軒猿の猿倉宗弦が、顔を隠すように黒い布を巻いて現れた。
「黒田秀忠の動きはどうだ」
「指示通り、黒田の家臣や物見に景虎様が家臣百名と共に春日山城を出て栃尾城に向かっていると、噂を流しております。我らの流した噂に飛びついた黒田勢は既に黒滝城を手勢を率いて出発いたしました」
宗弦率いる軒猿衆は、黒田秀忠の物見や家臣たちに、旅の僧侶、商人、山伏などいくつもの姿に変装して嘘の情報を流していた。
景虎が率いる本隊は、長尾家精鋭と国衆の家督の継げないものたちから募った常備兵を合わせて七百名であり、この後続々と景虎側の国衆が集結してくる。
景虎直属となる常備兵は、徐々に集まってきており集め始めて半月の時点で四百名になっていた。
上杉謙信の使った旗印はいくつかある。
白地に毘沙門天の毘の一字を使ったもの。
全軍突撃の合図と言われる白地に乱れ龍の一文字のもの。
紺地の扇に朱色の丸を入れたもの。
父為景が朝廷より賜ったと言われる
景虎は、新たな直属の常備兵の軍勢を作ったため、その軍勢には紺地に朱色で‘’龍‘’の一文字を入れた旗印を掲げさせることにした。
そして、自らのいる場所には白地に‘’毘‘’の一文字の旗印を掲げている。
毘とは、景虎が信仰する軍神毘沙門天のことを示していた。
つまり自分は軍神毘沙門天とともにあると言っているのである。
「そいつは良かった」
「景虎様。大将が自分を囮に使う真似はおやめください。普通ありえません。そもそも本隊には偽物の景虎様を使うはず」
宗弦は呆れたようにため息をついていた。
「兄上にも怒られたが、これは儂自らがやらねばならん。儂だけが安全な場所にいる訳にはいかん。確かにありえない話だ。誰も儂自らが囮となっているとは考えない。だから敵が食いついてくるのさ。しかも供回りは、たった百名。そう聞けば、儂を狙っているものは飛びついてくるだろう」
「当然でしょう。敵からすればとても美味そうに見えます」
「敵の数は」
「250名ほど。黒田家単独で動いています」
「敵が百名で時間を与えず攻めるなら、自領とその周辺の手勢を集めるだけにとどめ、一気に攻めようとするだろう」
「黒田勢は、景虎様の見込み通りこちらが、古志郡に入る手前の峠を利用して攻めてくるつもりです」
「分かった。引き続き黒田勢を見張ってこちらに誘導してくれ」
「承知しました」
一陣の風が吹き草花が揺れたと思ったら宗弦の姿は既になかった。
そこに本庄実乃が近づいてきた。
「景虎様、今背後にいた者は何者ですか」
「儂が直接雇い入れた伊賀の忍びだ」
忍びと聞いて本庄実乃は怪訝な表情をする。
「いつの間にそのような怪しげで下賎な者たちを雇い入れたのです。そのような怪しい者たち景虎様にはふさわしくありません」
この時代の忍びの者たちの評価は、本庄実乃の言葉が表すように怪しげな連中というのが一般的であった。
「問題無い。これからの時代、忍びの力が重要になってくる。ところで、手勢の手配はできているのか」
「三条城主の山吉政久が二百。古志長尾家重臣の
「柿崎景家はどうした」
「流石に義父に刃を向けられぬとのことで、代わりに起誓文を出してまいりました。生涯忠節をちかい、景虎様に刃は向けぬと申しており、嫡男を人質として春日山に送って来ました」
「そうか。仕方なかろう。柿崎景家の事は承知した」
そこに一人の武将が入ってきた。
もうかなりの高齢で五十半ばであろう。
白髪混じりであっても、景虎の父為景と幾度も戦った男の目には、動乱の越後を生き抜いてきた不屈の強さが漲っていた。
「琵琶島城主宇佐美定満、手勢二百を率いて着陣いたしました」
「大儀である。宇佐美殿の活躍を期待しておる」
「お任せください。必ずやご期待に応えて見せましょう」
さらにその背後に二人の男が入ってきた。
白髪まじりで人当たりが良さそうな男と20歳ごろの目つきの鋭い男だ。
「赤田城城主斎藤定信、二百の手勢を率いて参陣いたしました。これなるは嫡男の朝信と申します。景虎様の手足と思いお使いください」
嫡男斎藤朝信は、後に越後の鍾馗様と呼ばれ、上杉謙信が頼りにする武将の一人となる。
戦場・内政・外交とその力を存分に発揮し、謙信が手強いと感じた相手や難しい事案には、必ずと言っていいほど斎藤朝信に任せていた。
「斎藤定信、朝信。期待しているぞ。敵は、儂という餌を目指して襲いかかってくる。これを完全に撃破して黒田秀忠の首をあげねばならん。絶対に逃すな」
「「「「承知しました」」」」
ーーーーー
黒田秀忠は軍勢を率いて景虎を待ち伏せするために山中に兵を潜ませていた。
「たった百名の供回り、倒すことは容易い」
黒田秀忠は一人ほくそ笑んでいた。
そこに物見に出ていた家臣が慌てて戻ってきた。
「一大事にございます」
「どうした」
「長尾景虎の軍勢は、百名ではなく千名にございます」
「なんだそれは、百名ではないのか」
驚いた黒田秀忠は、声高に聞き返す。
「間違いなく千名にございます。長尾家の九曜巴の旗印と宇佐美定満の旗印が見えます。さらに白地に‘’毘‘’の一文字の旗と紺地に朱色の‘’龍‘’の旗印が見えます」
「白地に‘’毘‘’の文字の旗と紺地に朱色の‘’龍‘’の旗印だと、聞いたことが無いぞ。誰の旗印なのだ」
「どうやら毘の一文字の旗は長尾景虎。紺地に朱色の龍の旗は長尾景虎直属の軍勢の旗印のようです。その数、およそ四百。他に斎藤定信と宇佐美定満・本庄実乃らの旗印が見えます」
「なんだと、景虎の直属だと・・噂に聞いた国衆の家督の継げない者たちを集めた銭雇いの常備兵か」
思わず座っていた床几から立ち上がった。
そこにさらに家臣が慌ただしく走り込んできた。
「大変でございます。庄田定賢と栖吉衆、それと三条城主山吉政久らが率いる軍勢合計六百が我らの後方から迫ってきております」
「なんだと!庄田と山吉それと栖吉衆だと、景虎を支持する国衆どもではないか。しまった。罠だ。我らは袋のねずみだ」
一際大きな鬨の声が聞こえてきた。
「景虎率いる軍勢千名が攻め寄せてきました」
「殿。ここは退却を」
家臣たちが一気に狼狽え始める。
退却をしようにも既に逃げ道は塞がれ、後方からは六百の軍勢が迫っている。
前方からは千名の敵。
「血路を切り開き、なんとしても黒滝の城に戻るぞ。わずかながら後方の敵兵が少ない。後方の敵をひたすら斬り倒して走り抜けろ。首はとるな。ただひたすら斬り倒していくぞ」
黒田秀忠は、必死の形相で斬り込んでいき、やがて景虎の指揮する軍勢に飲み込まれ、その命を終えることになった。
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