第5話 晴景と景虎
長尾景虎は,栃尾城の戦いの報告のため本庄実乃を伴い春日山城を訪れていた。
越後各国衆を集めてその目の前で越後守護上杉定実・越後守護代である兄・晴景から,お褒めの言葉と感状を賜るのは明日である。
だが,兄・晴景からは前日昼までに春日山城に来るように書状が届いていた。
このようなことは生まれ変わる前には無かったことだ。
指示されたように春日山城に到着すると,景虎一人で奥の部屋に通される。
そこには,兄・晴景が待っていた。
生まれ変わる前から数えて何十年ぶりの対面であった。
思わず懐かしさで涙が出そうになる。
「これは守護代・・・」
景虎が古志長尾家として挨拶をしようとしたが晴景が遮る。
「ここは私的な場だ。そんな他人行儀の挨拶はやめてくれ」
「で・ですが・・」
「ここは私的な場だと言ったであろう。以前のように気楽に兄上と呼んでくれ」
にこやかに話す晴景に少し困った様子の景虎。
「ハァ〜・兄上こそ越後守護代なのですから立場をお考えください」
「その前に同じ父を持つ兄弟であろう。良いではないか」
「困った兄上です。予定よりも1日早く呼んだのは何故ですか」
「そのことか,実は景虎と久しぶりに将棋をしてみたくてな」
「はぁ?将棋ですか?」
「そうだ。将棋だ」
晴景は,部屋の隅に置かれていた使い込まれた将棋盤と将棋の駒を持ち出してきた。
そして,景虎に構わずに将棋の駒を並べ始める。
「仕方ない兄上ですね」
苦笑いを浮かべながら駒を並べる景虎。
この時代の将棋は現代将棋に近い将棋で、朝倉将棋もしくは小将棋と呼ばれる将棋だ。
現代将棋と比べると一種類だけ駒が多い。
‘’
駒を並べ終わると景虎の先手で指し始める。
次第に熱中していき,二人は無言で指し続けた。
一刻程すると景虎の勝利で終わる。
「いや〜強くなったもんだ。勝てそうにないぞ。いつの間にこんなに強くなったんだ」
景虎の強さに驚きながらも嬉しそうな晴景。
「時間のある時は,本庄達を相手に指しておりますから」
「なるほど,研鑽は怠らんか」
「兄上。そろそろ本当のことを言ってください」
景虎は晴景の顔をじっと見る。
「本当のことか」
「将棋をするために1日早く呼び出した訳ではなくないでしょう」
「そうか。景虎はこの越後国の情勢はどう見ている」
「越後国の情勢でございますか。各国衆は表向きは静かにしていますが,中身はまとまりの無い己の利益のみを考える国衆の集まり。上辺だけの武威にこだわりながら,優先するのは己の利益。このまま放置は危険でしょう」
「どう危険なのだ」
「周辺諸国がまだまとまっておりませんが,それぞれの国に強力な大名家が現れたら,たちまち越後は他国に飲み込まれるでしょう」
「そうなるだろうな」
「現状,唯一危険であった伊達家に関わる部分は,兄上の策で伊達は内輪揉めで分裂しています。奥州は乱世に戻っていますからしばらくは大丈夫でしょう。ですが他は時間の問題」
景虎は,生まれ変わる前の人生において,関東対策と信濃対策に関して失敗が多かったと考えていた。
信濃をほぼ甲斐武田に抑えられ,関東の上杉家の要である上野国では力を失い,関東諸将は目指す方向が皆バラバラであり,北条と武田の勢力を増大させる結果を招いてしまったと考えている。
「合格だ」
「合格?」
「今の情勢に関する考えを持っているなら任せても大丈夫であろう」
「それはいったい何のことで」
「景虎。本日只今よりおまえを儂の養子とする。順次政務を渡し,数年以内には儂の後を正式に継いでもらうこととする」
「お待ちください兄上。兄上にこの先まだ実子が生まれるかもしれないです。それに景康兄上と景房兄上がおります」
「入って参れ」
晴景の声に合わせて三人の人物が入ってきた。
兄の正室である志乃。
二番目の兄である長尾景康。
三番目の兄である長尾景房。
「皆ですでに相談して,景虎が越後守護代家を継ぐことを賛成してくれている」
「エッ」
「景虎。儂も兄上の考えに賛成だ。そもそも、俺には槍働きは無理だ。向いていない」
「晴景・景康兄上達と同じく儂も賛成だ。俺には,あの国衆を抑えることはできない」
長尾景康と長尾景房が共に晴景の考えを支持する。
「で・ですが・・」
「景虎殿。私も貴方を養子にして長尾家を継いでもらいたいと思っていますよ」
兄晴景の正室志乃が優しい微笑みを見せる。
「志乃様・しかし・・」
「景虎殿、よくお聞きなさい。今この越後国に猶予は無いのです。越後国をこの府中長尾家でまとめ上げなければ,越後国衆はどこに靡くか知れません。景虎殿も分かっているでしょう。他国の大名に乗っ取られますよ。そして今の越後国衆の大半が容易く靡く恐れが高いのです。お父上顔負けの武威を見せた景虎殿であれば大丈夫です」
景虎は驚いていた。
四人がこのように考えているとは知らなかった。
生まれ変わる前の前世では,戦で手柄を上げるたびに自分の周囲に国衆が集まり自分を褒め称え,気がついた時には自分の周りの国衆達が勝手に動き,兄の側の国衆達と対立関係となり,もはや手の打ちようの無い状況となり最悪の事態となっていた。
守護上杉定実様の仲介で兄晴景と会談した時には,病床に伏せっていた兄の寂しそうな表情が忘れられない。
その時兄晴景は、『戦なんぞしなくとも、最初から景虎に長尾家の全てを任せるつもりだった。もっと景虎と話をして、一緒に酒を飲みたかった』と話してくれていたその寂しそうな表情が、今でも瞼に浮かんでくる。
自分が至らないばかりに兄を追い詰めて,家督を奪い取る形になってしまったことを生涯後悔し続けた。
もしも兄上が病弱でなければ,交渉力・外交力を遺憾なく発揮した名将と呼ばれたかもしてないと思うことが何度もあった。
一人孤独に決断を下さなければならない時に,交渉力・外交力に長けた兄晴景がいてくれたらと思うことが何度もあったが,それを口に出す訳にはいかず,一人で決断を下す重さは計り知れない。
その重圧から自然に酒量も増えていった。
景虎の目からこらえていた涙が溢れ流れ落ちる。
「景虎。お主には父為景譲りの武威がある。それは父も認めていた」
「エッ,父上がですか」
頷く晴景。
景虎は,自分にほとんど関わろうとしなかった父為景が,そんなこと考えているとは信じられなかった。
「父は,我らの祖父である
景虎の父である長尾為景は,敵討とはいえ主君である越後守護・
「荒ぶる魂ですか」
「そうだ。お前は全ての越後国衆が恐れた長尾為景と同じ武威を持っている。それを誇っていいのだ。お前には越後をまとめ上げる力がある」
「私にできると言われるのですか」
「大悪人と呼ばれ,日本中を敵に回して一歩も引かなかった父長尾為景が認めたのだ。できるさ」
兄晴景は,両手をついて頭を下げた。
「景虎。この越後を救うために家督を継いでくれ」
兄晴景の胸の内を知り,その姿を見て景虎は決断した。
「兄上・・承知いたしました。不肖、景虎。守護代長尾家家督を継ぎ,この身を使い越後の民を守り長尾家を守ることをお誓いいたします。ですが,この景虎はすでに軍神毘沙門天に帰依しており,生涯妻を持たず,子をなさずを誓っております。私の後継は血縁者を養子とすることをお認めください」
事実上本来の歴史よりも4年早く、景虎が越後守護代長尾家を継ぐことが決まった瞬間であった。
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