第一章⑦

 それも無理はなく、天馬の視界に映っていたのは、月明かりに照らされた、おびただしい数の人の腕。

 それらは海のいたるところから突き出し、続々と増え続けていた。

 大きく広げられた手のひらから、触れるものすべてを海に引き込もうと言わんばかりの強い悪意が伝わってくる。

 普段はいでいる海面がその一帯だけ不自然に荒れており、ひどまがまがしい気配を放っていた。

 正直、この状況を処理するのは容易ではなかった。

 なにせ、こうも強力な悪霊がこんな近くに、しかも二日連続で現れるなんて、天霧屋に大昔から引き継がれてきた悪霊祓いの記録の中ですら、一度も目にしたことがなかったからだ。

 いったいなにが起きているのだと、天馬は不気味な海の様相をぼうぜんと眺める。──しかし。

「て、ん……」

 背後からかすかに聞こえた蓮の声で、たちまち我に返った。

 そして、海の悪霊の方が明らかに危険ではあるが、今は蓮を助け出すことが先決だと、天馬は霊障に抗い懐から呪符を取り出す。

「蓮、……もう少し、耐えて、くれ……」

 声をかけたものの返事はなく、もうあまり時間が残されていないことは考えるまでもなかった。

 ただ、身動きが制限されているこの状況では、焦るばかりで祝詞を唱えることすらままならない。

 蓮を捕まえている女の霊は、体さえ動けば祓える相手だとわかっているのに、どうにもできない自分がもどかしくてたまらなかった。

 しかし、今投げやりになったらすべてが終わりだと、天馬は冷静な思考を取り戻すため、こぶしを強く握る。

 爪が食い込んだ手のひらからじわりと血がにじみ、突き抜ける痛みが、思考をほんの少しだけクリアにした。

「まずは、この霊障を、なんとか……」

 ちなみにはらいかいわいでは、霊障の影響を受けるか否かは、個々が持つ精神力が大きく関わるとされている。

 よって、祓師たちが日常的に行っている修行の目的は、精神力を鍛えるというただ一点にあるといっても過言ではない。

 どんなに高い霊能力を持っていようと、悪霊を前に身動きが取れなくなれば詰んでしまうからだ。

「……散々、無茶な修行を、させられてきただろ……」

 天馬は、これまで散々受けてきた正玄の半パワハラ的指導を思い浮かべながら、さらに拳を強く握って心の中で祝詞のりとを唱える。

 この絶望的な状況の中、恐怖や焦りや混乱といった心の隙を潰していく作業は簡単ではなかったけれど、この危機を切り抜ける可能性はそこにしかなく、天馬はひたすら集中を続けた。──そして。

「動、け……!」

 こんしんの力を込めてそう口にした途端、──フッと、体を拘束していた力が緩んだような感覚を覚える。

 完全にとはいかないが動くには十分であり、天馬は改めて呪符を取り出すと、まずは蓮を救うため、女の霊に的を絞った。

 しかし、女の霊は蓮の体に両手両足をしっかりと絡めたまま、すでに体の半分が砂の中へと埋まっている。

「蓮……!」

 蓮の姿はほとんど見えず、天馬は反射的に足を踏み出した──瞬間、背後から、突如はかますそを強く引かれた。

 今度はなにごとかと視線を向けると、さっきまで海面に漂っていたはずのたくさんの腕が砂浜から伸び、天馬の動きを妨害している。

 あまりの力に振り払うことはできず、ふと辺りを見回すと、夥しい数の腕が海から砂浜へ続々と這い上がってきており、しかもそれらは天馬を通り過ぎてまっすぐに女の霊の方へと向かっていった。

 悪霊の狙いもどうやら蓮らしいと、全身からサッと血の気が引く。

 女の霊ならまだしも、こんな悪霊の手に渡ればまだ七歳の蓮はどうなるか、想像しただけで全身に震えが走った。

 もはや一秒の予断も許されない中、天馬の頭に浮かんでいたのは、女の霊に蓮を解放させるための手段。

 天馬は動けないため祓うことはできないが、祝詞によって少しでも女の霊の動きを封じ、その隙に蓮自ら脱出させるというのが、今考え得る中で唯一可能性のある方法だった。

 ただし、それを成功させるには、まだ蓮が意識を保っていることが前提となり、さらに逃げる気力を残していなければならない。

 可能性は微妙だが、迷っている暇はもうなく、天馬は女の霊へ向けて祝詞を唱えはじめた。

 途端に女の霊はビクッと体を震わせ、小さくうなり声を上げる。

 効いていることは確かだが、想定よりも反応が弱く、天馬の心にみるみる焦りが広がっていった。

 そうこうしている間にも、海から押し寄せる悪霊の腕はあっという間に女の霊に迫り、もはや蓮が解放されるのを待ち構えているかのように周囲を囲う。

 もちろん蓮を悪霊に奪われては意味がなく、天馬は引き続き祝詞を唱えつつ、今度は蓮が無事に逃げるための時間稼ぎの方法を頭に巡らせていた。

 とはいえ、ここまで追い込まれた中で浮かんでくるのは、自分が盾になるという最終手段のみ。

 もはや死は避けられないだろうとわかっていたが、普段から常にそうなることを想定して生きてきたぶん、躊躇ためらいはなかった。

 天馬は、自らを餌に悪霊たちの注意を引く方法を頭に巡らせながら、女の霊の下の蓮に向かって、どうか無事に逃げてくれと祈りを込める。──そのとき。

「ああもう! そっちじゃないって言ったのに……!」

 突如響き渡ったのは、今だけは聞きたくなかったうつとうしい声。

 とつに視線を向けると、怒りをあらわにズカズカと近寄ってくる真琴の姿があった。

「お前、また邪魔を──」

 最後まで言い終えないうちに、みぞおちに真琴からの重い一撃が入り、天馬はひざから崩れ落ちる。

 あまりの威力に呼吸すらままならず、今は争っている場合ではないと反論することもできなかった。

 一方、真琴は迫り来る悪霊には目もくれず、天馬の胸ぐらをつかんで間近からにらみつける。そして。

「まじで、日本一馬鹿なの?」

 小学生のような悪態をつき、いまだ苦しんでいる天馬の胸元に容赦ないりを入れた。

 天馬は背後に大きく倒れ、危うく途切れそうになった意識を必死につなぎ止める。

 かたや、真琴はいつたん女の霊に迫るもはらうことなく、どこから持ってきたのかサップのパドルを手にし、まっすぐに海の方へ向かいながら天馬に鋭い視線を向けた。

「あんたはそのままステイ! 動くな、祓うな、余計なことを考えるな! いい!?」

 真琴はそう言い放つと、ザブザブと海の中へ入っていく。

 よく見れば、真琴のかつこうは短パンにラッシュガードと、まるでこうなることを想定していたかのごとく、完全な海仕様だった。

 やがて、真琴が海の闇に消えゆくにつれ、砂に上がってきていた数えきれない数の腕も、その後を追うように海へと戻っていく。

 天馬はわけがわからずその光景を呆然と眺めていたが、ふと蓮のことを思い出して我に返り、みぞおちと胸の痛みをいまだ引きずったまま、女の霊の方へ向かった。

 まがまがしい気配を放つ腕が一斉に海に引き揚げたせいか、霊障はずいぶん弱まっていたけれど、蓮を捕まえたまま砂にうずまる女の霊は、依然として異様な空気を放っている。

 天馬は即座にじゆを取り出し、──ふと、動きを止めた。

 決して、祓うなという真琴の忠告に従ったわけではない。

 ひとまず最悪の状況から脱し、少し冷静になって改めて目にした女の霊の印象が、少し違って見えたからだ。

 さっきは、蓮を砂の中へ連れ込む気だと思って焦ったけれど、見れば、蓮は首から上を砂から露出させ、意識こそないもののどこか穏やかな表情を浮かべている。

 さらに、女の霊は片方の手で蓮の頭をしっかりと支え、その仕草には我が子を守っているかのような雰囲気すらあった。

「どういう、ことだ……」

 悪霊になりかけた霊を前にして奇妙ではあるが、少なくとも、ただちに蓮の命を奪いそうな気配はなく、天馬は困惑する。

 ただ、改めて考えてみれば、仮にも正玄の信頼を得ている真琴が、子供の命をみすみす犠牲にするような判断をするとも思えなかった。

 おそらく、真琴はさっきの一瞬の間に、蓮が安全であることを察したのだろう。

 だとするなら、かたくなに天馬に「祓うな」と言っていたことにも、なんらかの理由があると考えるのが自然だった。

 とはいえ、危険な霊は即座に祓うものとして育った天馬には理解できないことだらけで、勝手な推測を信じてあんすることも、逆に逆らうこともできずに、ただぼうぜんと立ち尽くす。──そのとき。

 海の方で突如せんこうが走り、大波が崩れるような激しい音が響いたかと思うと、砂浜になにかの塊が次々と降り注いだ。

 これはなにごとかと、天馬は咄嗟に自らの体で蓮をかばいながら、砂に落ちた物体のひとつを手に取る。──瞬間、思わず息をんだ。

 真っ先に目に入ったのは、塊の中から突き出した、白い骨。

 これは朽ちた肉と骨だと、──つまり人体の一部だと理解した途端に全身にゾッと寒気が走るが、それは間もなく天馬の手の上で霧と化し、空気に紛れるように消えてしまった。

 辺りを見回すと、同じく砂浜に降り注いだすべてが次々と、砂にくぼみだけ残して跡形もなく消えていく。

 同時に、さっきまで濃密に漂っていた悪霊の気配もまた、なにごともなかったように消失した。

 いったいなにが起きたのか、前の自分なら想像もつかなかっただろうと天馬は思う。

 しかし今はもうある程度予想ができてしまっていて、ふと海の方へ視線を向けると、サップのパドルを手に、さつそうと駆け寄って来る真琴の姿があった。

「お前……、この一瞬で、あの悪霊を祓ったのか」

 尋ねると、真琴はあっさりとうなずく。

「祓ったよ。海で死んだ人の霊が寄り集まって悪霊化して、もうどうにもならなかったから、パドルで強引に散らしたところ」

「そんな、ただのパドルで……」

「さすが、水の中で扱いやすいよう上手うまく出来てるよね。派手にやっちゃったから、ざんがいがこっちまで飛んできてたでしょ?」

 そう語る真琴には疲れた様子ひとつなく、砂にパドルを突き立てると、ぐっしょりとれたまとめ髪を両手で絞った。

 すっかり一件落着の空気だが、天馬としてはそうはいかず、女の霊を指差す。

「それで、……こっちは、どうする気だ」

 すると、真琴はなにかを思い出したかのように何度か頷き、短パンのポケットに手を突っ込んだ。

「こっちも平気。かろうじて無事だったから」

「無事……? なんの話だ」

「これだよ、ほら」

 そう言いながら真琴が手のひらを開くと、そこに載っていたのは、小さく光るなにか。

 それは蛍のようにふわりと宙に舞い、ぎこちない動きで女の霊の方へと吸い寄せられていった。──瞬間、暗くよどんでいた女の霊の両眼に、かすかな光が宿る。

 そして、ゆっくりと砂からい出ると、近寄ってきた光を迎えるかのように両腕を伸ばした。

 光はふわふわと両腕の中へ向かい、やがて、わずかに光を広げる。

 同時に、骨がき出しになりひどく痛ましかった女の霊の姿は、まるで生きている人間さながらに美しくよみがえった。

 女の霊はいとしげに光を抱きしめ、そっと頰擦りをする。

 その光景を呆然と見つめる天馬の横で、真琴がほっとしたように息をついた。

「あの光るやつは、あの人の子供の魂だよ。ちっちゃいカケラしか残ってなかったけど、まだ幼いから悪霊に捕まっても汚れずに済んだみたい」

「子供の、魂……? どういうことだ……」

「え、わかんないの?……こんだけ説明しても?」

「わからない。……教えてくれ」

「…………」

 真琴はおそらく、天馬をいらたせようとあえてあおる言い方をしたのだろうが、今の天馬はとてもそんな気分にはなれなかった。

 心の中を占めていたのは、無力感と、圧倒的な敗北感。

 真琴は張り合いがないとばかりに肩をすくめ、渋々口を開く。

「この人の子供、海で死んだんだよ。多分、死体が揚がらなかったんだと思う。だから、この人は心の整理ができずに、後を追って海に入ったの」

「自殺……」

「そう。だけど、そんな無念と悲しみに吞まれたまま浮かばれるはずもなく、子供を捜し続けて彷徨さまよってるうちに……、蓮くんだっけ? を、見つけたんだと思うのよ」

「蓮を自分の子供と間違えたってことか」

「いやいや、母親が子供を間違えるわけないじゃん。単純に、蓮くんは気配が特殊だから目立っていて、自分の子供と重ねて放っておけなかったんだと思う。多分、その瞬間から、守ってあげなきゃっていう思いが膨れ上がって、一時的に気配が膨張してたんだよ。だってこの海には、さっきの悪霊が巣くってたしさ」

「まさか、霊が、蓮を守ったってことか? いや、……待て、その前に、さっきの悪霊が、この海に巣くってただと……?」

「そう、ずっと鳴りを潜めていたみたいだけど、数日前から急に暴れ出して……って、まさか気付かなかったの?」

「…………」

「噓でしょ」

 由比ヶ浜が生活圏内である天馬には到底信じ難い話だったが、実際に目にしてしまった以上、反論のしようがなかった。

 天馬は一度深呼吸をして無理やり混乱を鎮め、ふたたび真琴と目を合わせる。

「……というか、なんでお前に霊の過去のことがわかるんだ」

「なんでって……」

 続けざまの問いに、真琴は心底面倒臭そうだった。

 天馬もまた、正玄や父親以外にこんな疑問をぶつけたことなどない。

 悪霊ばらいに関しての知識は十分すぎる程持っていると思っていたし、現に、自らの知識不足を自覚するような出来事に直面したことがなかったからだ。

 しかし、今日に関しては、目の前で起きたことのほとんどが、天馬には理解できなかった。

 答えを待っていると、真琴は脱力したようにめ息をつく。──そして。

「むしろ、なんでわからないの?」

 苛立った口調で、逆に質問を返した。

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