第一章⑥


「──天馬、起きて……」

 それは、夜中の一時を回った頃のこと。

 天馬は蓮の呼びかけで目を覚ました。

 重い体を起こすと、蓮がただならぬ様子で天馬にしがみつく。

「……どうした」

「なんか、……なんか、気配が」

「気配?」

「海で会った、女の人の霊の……」

 途端に脳裏に浮かんだのは、由比ヶ浜で遭遇した、砂に埋もれた女の霊のこと。

 慌てて枕元の羅針盤を手に取ると、針は不自然に揺れながら盤の上をゆっくり回っていた。

 微々たる反応だが、強い結界が張られた天成寺の敷地内においては反応すること自体が異常であり、頭が一気にかくせいする。

「確かに、羅針盤も反応してるな。あのときの霊の気配で間違いないのか?」

「うん、間違いない……。けど、近くに来てるってわけじゃなくて、多分、昼よりも、気配が強くなってるような感じが、して……」

「……やっぱり悪霊化したか」

「わからないけど……、なんだか、すごく、怒ってるような」

 蓮はそう言って、不安げに瞳を揺らした。

 天馬には霊の気配から感情の機微まではわからないが、その点蓮は鋭く、その所見はいつも正しい。

 海で不穏なことが起きているのだろうと、天馬は推測していた。

 同時に、やはりあのときはらっておくべきだったと強い後悔が込み上げ、天馬はすぐに立ち上がって支度をし、自室を出る。

 蓮も慌てて後を追い、天馬に並んで階段を下りた。

「お前はここで待ってろ。さすがに危険だ」

「ううん、連れて行って……! それに、僕がいた方が、早く気配に気付けるでしょ……?」

「だとしても、あの霊が今どんな状態になってるかわからない以上、守ってやれる保証がない」

「だ、大丈夫……。僕はもう、自分で結界を張れる」

 蓮はそう言いながら、懐からじゆを取り出して天馬へ見せた。

 呪符とはすべての術の基盤となるもっとも重要な道具であり、悪霊を祓うことも結界を張ることもできるが、その威力の強弱は使う者の能力に左右される。

 蓮は、最近になってようやく結界を張れるようになったばかりであり、到底悪霊に通用するような仕上がりではない。──けれど。

「……わかった。じゃあ、手伝ってくれ」

 天馬の心の中にあったのは、昼間にも考えていた通り、過保護に守るよりもこれからは鍛えるべきだという思い。

 もちろん、天霧屋が崩壊した後に蓮がはらいになることを想定しているわけではないが、天馬がしてやれることは、それ以外になかった。

 蓮は大きくうなずくと、瞳にわずかな恐怖と強い決意をにじませ呪符を仕舞う。

 その様子は、かつて父親にあこがれを抱いていた頃の自分をほう彿ふつとさせた。

「……俺のような目に遭わせるわけにはいかないな」

 込み上げたままに呟くと、蓮がキョトンと首をかしげる。

 天馬は小さく首を横に振り、蓮を連れてこっそりと宿舎を出ると、山門を出てすぐ横にある駐車場へ向かい、一番手前に停めてあった当主専用のベンツに乗った。

 緊急時にいつでも動かせるようにという配慮からかぎはかかっておらずグローブボックスに入れっぱなしになっている。天馬は蓮が助手席に乗るやいなやエンジンをかけた。

 普通に考えればかなり不用心だが、人の目を避け、地図にも載っていないこんな場所まで盗みに来た者は今のところおらず、そもそもられたところでたいした痛手でないことは、次々と入れ替わる車種や、ざらしに停められている雑な管理状態が物語っていた。

 天馬は車を発進させ、急いで由比ヶ浜へと向かう。

 そして、ものの十分程度で到着すると、海岸沿いに車を停めて砂浜へと降り、早速、胸騒ぎを覚えた。

「……異様だな」

 伝わってくるのは、まだ三月だからという理由では説明できないくらいの、不自然に冷えきった空気。

 それは、いわゆる霊障と呼ばれる、霊の気配が近いときに起こる不可解な現象のひとつだ。

 ただ、悪霊が近くにいると考えるには、少し弱いように思えた。

 羅針盤を見ると、針はさっきと比較にならない速さでぐるぐると回っているものの、それでもやはり弱い。

 おそらく、まだ悪霊になりきれていないのだろうと、天馬はひとまずほっと息をついた。

「幸いまだ苦労なく祓えるレベルだが……、気配が急激に変化したことを考えても、早めに見つけた方が良さそうだな」

 そう言うと、蓮も小さく頷く。

 しかし、その顔は酷くこわっていて、天馬はわずかに違和感を覚えた。

「どうした?」

「なんか……、泣き声が聞こえた気がして……」

「泣き声?」

 そう言われて耳を澄ましてみたもののなにも聞こえず、おそらく小さな浮遊霊たちが、気配に敏感な蓮の気を引こうとしているのだろうと天馬は思う。

「海は気配が集まりやすい上に、今はもっとも活動する時間だ。しかもお前は敏感だから、からかわれやすい。余計な霊が寄って来ても全部無視して、視えても目を合わせるなよ」

「わ、わかった……」

つらかったら、結界を張ってやるから」

「……だ、大丈夫、自分でやる。それに、結界を張ったら気配がわかりにくくなるんでしょ?」

「よく勉強してるな」

「それは、……天馬の役に立ちたいから」

 おびえながらも気丈に振る舞う蓮をたくましく思うと同時に、普通の子供なら必要のない苦労を背負わざるを得ない宿命が、びんに思えてならなかった。

 生まれたときから天成寺で育った天馬にはそういった苦労がなく、親にすら気味悪がられたという蓮の心の傷は計り知れない。

 今でこそ天成寺での生活にすっかりんでいるが、預かった当時の蓮は、誰に対しても、常に子供らしくない引きつった笑みを浮かべていた。

 まるで、もう誰にも拒絶されたくないと訴えているかのように。

「一応言っておくが、お前は俺の仲間だよ。役に立とうが、立つまいが」

「うん」

「だから、怖いことがあっても隠さなくていいからな」

「……うん」

 頷きながら、蓮は天馬の手をぎゅっと強く握る。

 天馬はそれを握り返し、波打ち際の方へ足を進めた。

 霊障は海に近寄るごとに強まり、次第に、漂う気配の数も増えていく。

 やがて、気配だけにとどまらず、辺りをふらふらと彷徨さまよう不自然な影も目立ちはじめた。

 見る限り、祓う必要のない浮遊霊ばかりだが、目が合った途端にひようへんすることは多々あり、天馬はただまっすぐ前を向いて気配を探る。

 しかし、他の気配があまりにも多いせいか、なかなか目的の霊の場所を定めることができなかった。

「いっそ、弱い霊を一気に追い払うか……」

 次第に焦りが込み上げる中、ふと頭に浮かんだのは強引な手段。

 そういった方法は静かな霊の感情までもあおりかねず、できるだけ避けるべきとされているが、切羽詰まった状況の中、目的の霊が悪霊化するリスクの方がよほど深刻だと天馬は考えていた。

 結果、天馬は懐から呪符を取り出し、気配の弱い霊だけを避ける結界を広範囲に張るべく、祝詞のりとを唱えはじめる。──そのとき。

 突如、すぐ近くから、まるでれた砂を掘り返すかのような、ボコッという奇妙な音が響いた。

 とつに視線を向けるやいなや、思わず祝詞が途切れる。

 それも無理はなく、天馬のほんの数メートル先の砂の上には、女の頭部が突き出していた。

 その姿は昼に見たままであり、天馬はついに現れたと、呪符を握り直して女の霊の方へ向き直る。

 かたや女の霊は天馬ではなく、明らかに蓮の方をまっすぐに見つめていた。

「て、天馬……!」

 蓮もそれを察したのだろう、震える声で天馬の名を呼ぶ。

 天馬は即座に蓮を背中にかばいながら、おおかた、昼に遭遇したときに蓮に目を付けたのだろうと推測していた。

 子供はまだ精神が成熟していないため、心を侵食するのが容易だからだ。

 つまり、肉体を欲しがるたぐいの霊は、大概、子供を狙う。

「蓮、離れるなよ」

「あの霊、こ、こっちを、向いて……」

「見るな、大丈夫だから」

 そうは言っても、女の霊のあまりに痛ましい姿は子供に耐えられるようなものではなく、蓮は頷きながらも全身をガタガタと震わせていた。

 この状況ではあまり時間をかけられないが、女の霊の気配は数時間前とは段違いに大きくなっており、とても一筋縄ではいきそうになかった。

 普通ならそんなことはあり得ず、天馬の心の中では、いったいこの霊になにが起きたのだろうと疑問が膨らむ。

 しかし、考えている間にも霊障によって辺りの気温はみるみる下がり、全身が冷え固まっていった。

 そんな中、女の霊はゆっくりと首を動かし、突如、砂の中からボコッと両手を出す。

「……っ」

 昼にはなかった動きに警戒し、天馬は咄嗟に一歩下がった。

 すると、女の霊は骨が露出した指をかぎのように砂に突き立てながら、ゆっくりとい出て来る。

 水で膨張した体は砂にえぐられ、動くごとに肉がげ落ちていった。

 その姿はとても見ていられず、天馬は、一刻も早くはらうべく祝詞を唱えはじめる。──しかし。

「天馬っ……!」

 蓮の悲鳴が響き渡ると同時に、たった今まで目の前にいたはずの女の霊が、視界から消えた。

 混乱した天馬は、慌てて周囲を確認し、──思わず息をんだ。

 女の霊はいつの間にか天馬の背後に移動しており、うつ伏せになった体の下には、蓮の体があったからだ。

「蓮……!」

 駆け寄りながらも、あまりに一瞬の出来事に天馬は混乱していた。

 近寄って蓮に手を伸ばしたものの、蓮の体は女の体に押しつぶされるようにして、みるみる砂に埋もれていく。

「て、ん……」

「蓮!」

 このままでは窒息してしまうと、天馬は無理やり冷静さを保ち祝詞を唱えはじめた。──瞬間、海の方から突如伝わってきたのは、過去に経験がない程のおぞましい気配。

 これは間違いなく悪霊だと、察した途端に体が強張り、手からじゆがひらりと落ちた。

 身動きが取れず、それどころか声すら出せず、天馬の思考は真っ白になる。

 それらは霊障に耐性のある天馬であってもどうにもならないくらいに強力であり、あらがおうとすればする程に体が震え、ただ無駄に気力と体力を消耗する一方だった。

 そんなときにふと頭をよぎったのは、やはり、父親が悪霊に殺されたときの記憶。

 まるで昨晩の再現のように、自分の死に方も結局父親と同じなのだと、頭の中をまったく同じ思考が巡りはじめる。──けれど。

 昨晩と今日とでは、今まさに蓮の命が危険にさらされているという、深刻な違いがあった。

 だからこそ、かつてない程の最悪な状況に追い込まれていてもなお、悲観的な考えに吞まれて運命を受け入れるわけにはいかなかった。

 天馬は慌ててネガティブな思考を頭から追い出し、全気力を振り絞って霊障に抗い、海の方から伝わる強い気配の方へ視線を向ける。──瞬間、全身にゾクッと悪寒が走った。

「なん、なんだ……、これは……」

 ようやく出た声は、絶望で震えていた。

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