第一章②

 バン、と障子が開く音が響いたのは、正玄がすべてを言い終える前。

 天霧屋の関係者に、生き神である正玄の言葉を遮る者など存在しないため、これには天馬だけでなく門下たちも驚き、場が一気に緊張を帯びた。

 もっとも慌てていたのは、障子の前に座っていた正玄の世話役、田所。

 田所は廊下側からいきなり開いた障子にパニックを起こした様子で、慌てて引き手に手をかける。──しかし。

「ねえ、どんだけ待たせんの?」

 田所が閉めかけた障子を強引に開けて現れたのは、見覚えのある女だった。

「お前……」

 それは忘れもしない、悪霊を傘一本で祓った謎の女。

 女は思わず声を出した天馬に視線を向けると、記憶のままの、不敵な笑みを浮かべた。

「ああ、まつえいじゃん。ね、私の正体はすぐにわかるって言ったでしょ」

「…………」

 女はそう言うが、天馬はむしろ余計に混乱していた。

 閉鎖的な天霧屋の、しかも核となる本堂に入り、おまけに正玄の発言の邪魔をする人間に、思い当たる者などいないからだ。

 一方、女はそんな天馬の反応など気にも留めず、明け方に見たままのスウェット姿で本堂にずかずかと立ち入り、正玄の肩を気安くたたいた。

「ねえ、まだ時間がかかるなら、先にご飯食べてきたいんだけど」

「…………」

 これは荒れるぞ、と、天馬は思う。

 正玄に対し、無礼な振る舞いをかろうじて許されているのは、肉親である天馬以外にいないからだ。

 もっとも、正玄は多少の失言をどうこう言う程面倒臭い老人ではないのだが、本人よりも周りがそれを許さない。

 現に、慶士が早速怒りをあらわに立ち上がり、女の腕をつかんだ。

「……何者か知らないが、当主に触れるな」

 普段の慶士は、天馬と一緒に正玄をすることも多々あるが、ものに対しては、さすがにそういうわけにはいかないらしい。

 ただでさえ圧の強い大きな目が、強い怒りを宿していた。

 しかし、女はあっさりとそれを振り払うと、正玄の肩を雑に揺らす。そして。

「もしかして、まだなにも説明してないの?」

 慶士の態度にひるみもせず、面倒臭そうに正玄に文句をこぼした。

 ついには慶士までもが硬直する中、全員が正玄の反応に集中する。

 天馬の頭に浮かんでいたのは、追い出すよう田所に指示するか、いっそ殴るかの二択。

 しかし、正玄はどちらも選ばず、普通に頷き返した。

「……待たせてすまない。これから話すところだ」

 その穏やかな口調には、そこに同席した全員がきようがくしていた。

 天馬ですら何年も耳にしたことがなく、背筋にゾワッと悪寒が走る。

 かたや、女はさも迷惑そうな表情を浮かべた。

「やっぱり……。老人は前置きが長いから」

「悪かった。今から話すから、よければ同席してくれ。こうなってしまった以上、いてくれた方が話が早い」

「いいけど、短めにして。私、めちゃくちゃお腹がすいててイライラしてるから」

「……後で食事を用意させる」

 とても聞いていられないやり取りだった。

 そんな中、正玄はようやく自らに集中するげんな視線を察したのか、短くせきばらいをした後、女を残して壇上へと上がる。

「……まさか、再婚の報告じゃないだろうな」

 慶士が冗談めかしてコソッとつぶやいたけれど、さっきの光景を目の当たりにしてしまった天馬には、一笑に付すことができなかった。

 とうに妻を亡くしている正玄が誰とどうなろうと自由だが、どう見ても孫と同世代の女を紹介されたところで、すんなり受け入れられるものではない。

 万が一慶士の予想が当たっていたとしても、こういう場で大々的に報告せずにこっそりやってほしいと思わずにはいられなかった。

 正玄がお茶をひと口飲む間にも想像が飛躍していき、天馬の心の中はモヤモヤしたもので埋め尽くされていく。──しかし。

「では、……単刀直入に言う。儂が引退した後の天霧屋は世襲を廃止し、当主の座はもっとも実力を持つ者に譲ることにした。実力さえ高ければ、天霧屋や三善家とまったく無関係な人間であっても一向に構わない」

 正玄が口にしたのは、衝撃のひと言だった。

「……どういう、ことですか」

 ポカンとする天馬を他所よそに、真っ先に声を発したのは慶士。

 慶士は顔にわかりやすく動揺をにじませ、今にも正玄に詰め寄りそうな勢いで身を乗り出していた。

 正玄はそれを鋭い視線で制し、さらに言葉を続ける。

「本来ならば、天霧屋は昨晩の悪霊によって壊滅していただろう。はらいは、そんなことでは成り立たない。弱い者に渡せば、みるみる弱体化しいずれは滅びる」

「ま、待ってください。壊滅していたとおっしゃいますが、昨晩の悪霊は天馬がはらったでしょう……! わざわざ余所者を選ばずとも、天馬には十分な実力が──」

「俺じゃない」

「は?」

「祓ったのは、そこの女だ」

「…………」

 天馬は絶句する慶士を見ながら、こんな修羅場で告白することになるくらいなら、無理にでもさっき話しておくべきだったと少し後悔していた。

 女は、放心した慶士を見ながらニヤリと笑う。

「そうだよ、昨日の悪霊を祓ったのは私。そこのお坊ちゃんが馬鹿みたいに苦戦して、自己犠牲の精神でギリギリ抑えてたんだけど、もう見てられなくって。つい、体が動いちゃったわ」

「……天馬はうちの次期当主だ。侮辱するな」

「次期当主だろうがなんだろうが、事実だから。あんただって、かっこよく駆けつけたくせにあっさりやられてたじゃない。私が行かなきゃ、あんたも死んでたんだよ。つまり、今の天霧屋に悪霊祓いの仕事は荷が重いってこと」

「荷が重い、だと?」

「そこのお坊ちゃんに代替わりする頃まで持つかどうか、正直危ういと思うよ。あと数年で全滅して終わっちゃうかもね」

「…………」

 ふたたび絶句した慶士の額には、はっきりと血管が浮かび上がっていた。

 今にも暴れ出しかねないと、天馬は念の為に慶士の着物の背の部分を摑む。

 門弟たちもまた、話に付いてこられないのか完全に固まっていた。

 ただ、こんとんとした空気がまんえんする中、天馬だけは、妙に冷静に女の言葉を受け止めていた。

 むしろ、祓屋なんてものはいずれ滅びゆく宿命なのだと、心の中にあり続けた思いをはっきりと言葉にされ、スッキリとすらしていた。

 なにせ天馬には、天霧屋を絶対に存続させねばならないという強い気概も、使命感もない。

 それでもここまで居続けた理由は、今すぐ逃げ出したいと思う程環境が悪くなかったこともあるが、幼い頃から祓屋になるべく育てられ、すっかり世間知らずになった自分が一般社会で通用するとは思えなかったからだ。

 そうやって自分を客観的に分析する日々の中、面倒なことは先延ばしにし、すべて流れに身を任せることにした決定的な理由は、天霧屋の末裔として自分に受け継がれた、他よりも少しだけ高い能力があったからこそ。

 いわば、それだけが、自分の役割を明確にしてくれる要素だった。──のだが。

 つい昨晩、凡才であることを知ってしまった。

「……確かに、その女の言う通りだ。あのままでは全滅していたと思う。俺の自己犠牲も、無意味に終わっていただろうな」

 根に持っている部分をあえて強調しつつ言葉を挟んだ天馬に、女がカラッと笑う。

 慶士はさらに怒りを露わに、天馬をにらんだ。

「お前……、あれだけ侮辱されて悔しくないのか。あの女は、お前の居場所を奪おうとしているんだぞ……」

 どこか傷ついたような目を向けられ、天馬の胸がチクリと痛む。

 しかし、それでもなお慶士のように熱くはなれず、天馬はなだめるように笑みを浮かべた。

「悔しくとも、事実、俺はあの悪霊に太刀打ちできなかった。全員死ぬくらいなら、守れる人間が上に立った方がいい」

「まさかお前、あっさり譲り渡す気か……? お前が当主になることを信じてきた俺らの気持ちはどうなる……!」

「信じてくれているならなおさら、俺のせいで皆が死ぬのは忍びない」

「おい! お前は唯一、天霧屋の正統な血を引く人間なんだぞ……! 誰より高い資質があるんだから、そう思うならもっと修行して力を伸ばせばいいだろ! プライドはないのか!」

「そんなものより、命が優先だ」

「天馬……!」

 その瞬間、慶士の目に滲んでいたのは怒りではなく、かつてない程の落胆。

 慶士の純粋さや熱い人間性については理解していたつもりだったけれど、天馬が当主になることをここまで望んでくれていたとは知らず、天馬は少し戸惑っていた。

 ふいに頭をよぎったのは、生きていた頃の父親のこと。

 ──『俺らは表に出ることはないが、陰ながら世の中を守る重要な役割を担っている。与えられた宿命にプライドを持ちなさい』

 それは、父親がかつて、どんなに悪霊を祓っても誰にも感謝されないことに不満をこぼした天馬を宥めながら口にした言葉だ。

 しかし彼はその数日後、むごい死に方をした。

 それも影響してか、天馬はあのときの父親の言葉を、正しいと思ってはいない。

「プライドなんか、なんの意味もないよ。ただの自己満足だ」

 あえて言葉を付け加えると、慶士の表情から力がスッと抜けた。そして。

「それが本心なら、お前とは……」

「──うける」

 突如会話を遮ったのは、笑い混じりのひと言。

 視線を向けると、女が横でニヤニヤと笑っていて、天馬は途端に我に返った。

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