第10話 精肉の遅番担当さん

 小倉さんから怪談話を聞き、閉店まで仕事を行い、満を持して遅番業務をしに向かう。今日は高草木さんがいないため青果の作業場に行く必要はない。初めから倉庫に向かって、備品と今日の商品を取りに行こう。廊下を進んでいると、白い影が横切るのが見えた。


「あれ? 天使さん?」


 影は階段の方に行ったように見える。階段付近にあるものと言えば例の倉庫くらいしか思い当たらないが、備品を運ぶのを手伝いに来てくれたのだろうか。ありがたい。早速倉庫の扉に向かい、社員証をかざす。ピッ、と軽快な電子音を鳴らしてロックが解除された。自動で扉が開いていく。


 そっと中に足を踏み入れ、冷たい廊下を真っすぐ進むと俺の足音以外の音が聞こえた。思わず立ち止まり音を探ると、扉の奥から声が聞こえた。不審者ではない。先ほどの白い影が天使さんで合っているのだとすれば、彼の声だろう。例の遅番担当ヒグチさんの声は聞こえないが、天使さんの声が大きいからだろうか。その声のトーンは穏やかではなく、怒鳴りつけているように聞こえる。今から俺はこの中に飛び込まなければならないが、恐らく喧嘩をしているだろう二人組の間に割り込みたくはない。遠慮したい。どうしたものかと悩んでいると、一際大きな声が響いた。天使さんだ。


「お前がその幽霊風情をそのまま憑りつかせていたら、お前の命が危ないかもしれないんだぞ!!!」


 好奇心が体を動かした。扉にそっと近づき、聞き耳を立てるともう一人の小さな声も聞くことができた。


「……そうなってもいいから、彼女と一緒にいたいんです。あなたこそ、なぜそれがわからないんですか。……いや、そもそもわかっていただく必要すらない。仕事は今まで通りにこなしますし、それでいいじゃないですか」


「そんな言い方……! ボクはお前を心配して!」


「結構です。自分のことは自分でなんとかします。今までだってそうだったんですから。……それと、頭ごなしに否定し続けるのはやめてください。不愉快です」


 どうやら思っていたよりも険悪な関係らしい。高草木さんは少し前からこんな感じだと言っていたが、一体何が原因なのだろうか。昨日の天使さんの様子を見ている分には、ヒグチさんのことをとても大切に思っていたように思えるが。


「ボクがお前から離れてもいいのか!? お前とボクは最良のバディだと、そう思っていたのはボクだけだったのか……?」


「……それ、は……あなたが離れたいと思うなら、どうぞ。私は止めません」


「お前……ッ、クソッ」


「うわっ!?」


 いきなり目の前の扉が開いたかと思うと、白い影が弾丸のように通り過ぎていった。俺は咄嗟に横に回避したが、天使さんは俺がいたことに気が付いていたのかどうか。ドキドキ跳ねる心臓を抑えながら呆然と天使さんが飛び出していった方向を見ていると、背後から声をかけられた。


「……あれ。驚かせましたよね。すみません。……ここにいるということは、もしかしなくてもあなたが鮮魚の遅番担当さんですか」


 振り返ると、そこにいたのは見覚えのある少女だった。黒髪をおさげにした、小柄な少女。赤いエプロンと赤いバンダナをつけた彼女のネームプレートには「火口」と書かれている。この人が例のヒグチさんだろう。ああ、火口でヒグチと読むのか! 俺が勝手に合点している間、火口さんはかすかに目を見開いていた。


「……どこかで……ああ、先日廊下かどこかでお会いしました……よね? あの時は、碌にご挨拶もできずすみませんでした。改めて自己紹介をしますね。私は火口 小雪(ひぐち こゆき)。精肉の遅番担当です」


 そしてもう一つ思い出したことがある。彼女は忘れているようだが、出勤初日にもお世話になっている。エプロンの紐を正してくれたのはおそらく彼女だったと思う。感じる幽霊の気配も同じ。この間この気配にデジャヴを感じたのは、単純に会うのが二回目だったからだろう。


「あ、その節はどうも、ありがとうございました。俺は雨水令と申します。鮮魚の遅番担当をやらせていただいてます。まだ入ったばかりですけど……」


「……いえ、新しく入っていただけただけでこちらとしては大助かりです。なんせ仕事が特殊なので、ホイホイ人員を追加してくれなくて……」


「そうですよね、前提として霊感がないといけないですし、化け物と戦わないといけないですし……同僚に、天使がいますし」


「……改めて考えると相当変な仕事ですね、これ」


 火口さんはかすかに口角を上げて笑った。天使さんから聞いた経歴から想像していたエリートなイメージとは少し異なる、良い意味で素朴な落ち着いた人だった。小さめの声とゆっくりとした話し方、独特な間の取り方。表情はほぼ無表情だが、こちらに不信感や嫌悪感を抱いている様子はなく、これが彼女の素なのであろうことが伺える。


 というか今うっかり天使さんのことを話題に出してしまったが、特に気を害した様子もない。喧嘩中なのではないのか、それとも気にしないタイプなだけ?


「……先ほどはいきなりお見苦しいところを見せてすみませんでした。その、あまり気にしないでください。彼女と私の問題なので……」


 俺が思わず微妙な表情をしてしまったことを察知してか、気まずそうに彼女が言った。何と返すべきかと口を開いて「ああいえ、全然大丈夫です」としか言えずに黙る。


 「お前が幽霊風情をそのまま憑りつかせていたら」と、先ほどの天使さんの言葉が頭に残り続けている。幽霊の気配が彼女からするのは確かだし、そのことについてかなり気にはなるが、今聞くことではない。俺が頭を悩ませている間に、彼女はバンダナを頭から外すと慣れた手つきでベレー帽を被った。


「えっと……多分ですけど、商品とかレジとか、備品を取りに来てくださったんですよね。私一人で持っていくのは大変なので……助かります。いつもはあの人が手伝ってくれるんですけど……まあ、さっき喧嘩しましたし今はちょっと険悪な感じなので、来てくれなさそうですね」


 あの人というのは天使さんのことだろうが、やはり険悪な感じ、らしい。なぜ喧嘩をしているのかますます気になってしまう。聞いてもいいのか、いやでも気持ち悪いかと悶々としていると、火口さんの方から口を開いてくれた。


「天使とはまあ、一応バディなんですけど……最近は言い合いばかりなんですよね。先ほどみたいな。話せば長くなるんですけど、頑張って手短に言うと……私の大切な人と私の仲を引き裂こうとするんです。碌に話も聞かずに。だから嫌なんですよ」


「へ、へえ……?」


 それだけ聞くと火口さんの恋人との仲を天使さんが引き裂こうとしているように聞こえるが、なんとなく事情が見えてきた。というかあまり隠し事はしないタイプらしく、あっさり話してくれたな。さらに追及することもできそうな気もするが、本人が許してくれたとしても不躾に聞くのは憚られた。


「そうしたら、品出しカートにもう色々置いているので、持っていきましょうか」


 促されてカートへと向かった。確かにすでに段ボールなどの備品が積まれている。あの発泡スチロールは今日の商品だろうか。


 俺がカートの前を引き火口さんは後ろから押してくれる。そのまま黙って売り場へと向かおうとすると「今日の商品は肉だったので、精肉売り場にお願いします」だそうだ。初めて高草木さん以外の人と遅番の仕事をすることに改めてドキドキと緊張が強まる。しかし売り場の光景はいつもと変わらず、蜃気楼のような商品棚も巨大になった面積と天井も全くそのままだった。普段は不気味に思っているが、今は少し安心感を覚える。やることはいつもと同じなのだから、大丈夫だ。


 言われた通り精肉売り場に向かい、その前でカートを止める。精肉売り場は鮮魚の隣であるためよく通る場所ではあったが、まじまじ見るのは初めてだった。精肉も鮮魚と同じでその日売る商品を朝にパック詰めするので、売り切りの商品を売った今の売り場はすっからかんだった。テーブルを開いて設置し、台車からレジを取り出し、本格的に開店準備へ。悪霊が現れる気配は今のところない。


「肉を売るのは初めてですよね? 大体すでにパックに入った状態で箱に入っているので、値札のシールを貼って事前準備は終わりです。……高草木さんとは数回しか一緒にやったことはないですけど、野菜や果物は色々やることがありますよね。袋詰めとか。……鮮魚はどんな感じなんですか?」


「まるまる一匹でパックに入っているやつに値札を付けるだけ、な時もありましたけど……大体フシとかサク——刺身にする前の状態で発砲スチロールに入ってます。なので、それを切る手間がちょっとありますね」


「ええ……なんだか大変そうですね」


「精肉では、お肉を切ったりはしないんですか?」


「……チーフが、アルバイトにあまり機械を触らせないというか……肉を切る機械……スライサーっていうんですけど、その機械はちゃんと扱わないと危険なので使わせてもらえないんです。少々不服ですけど、危険がないように配慮してくださっているのはありがたいので、まあ。しょうがないですよね」


 知らなかった。てっきり精肉もわざわざ切る手間があるのではと思っていたため、少しだけ羨ましく思った。しかし遅番の時にスライスの機会を貰っていることでいい練習にもなっているので、あながち面倒なばかりではない。そう呑気に思っていると「……なんだか申し訳ないですね。そんなに業務量に差があるとは思っていなかったので」と眉を下げた火口さんに言われて慌てて首を振った。


「いえ! 火口さんが謝ることじゃないですし、俺にとっては勉強にもなるので、全然、むしろ練習の機会を得ることができて嬉しいです」


「……真面目な方ですね。このアルバイトを始めたのも、もしかして魚に興味があったから?」


「ああいえ、それは全然。たまたま求人を見つけて、その、成り行きで応募することになっただけで……なので知識もないですし、魚についてもスーパーマーケットについても素人です。火口さんは、もしかして何か理由があってここに?」


 値札をつけながら「ええと、」と口を開いた。すんなり教えてくれるらしい。


「別に私も精肉に興味があったわけじゃないんです。ただ、叔母が昔スーパーマーケットで働いていたみたいで、いいんじゃないかと勧められて」


 そう話す横顔が綻んでいるような気がして、叔母さんの存在が彼女にとってどのようなものなのか、なんとなく察せられた。


「叔母の家に住んでいるんですけど、ここから近いので通勤も楽ですし」


「そうなんですね。家から近いのもいいですね、俺は自転車でそこそこかかるので……」


「雨水さんはご実家ですか?」


「あ、はい。そうです。火口さんは……? ご実家はここから遠い感じ、ですかね?」


 叔母の家に住んでいるということは、何かやりたいことがあって実家を出ているということなのだろうかと思い聞いてみた。……のだが、なぜか返事がかえってこない。もしかして失礼なことを言ってしまったのでは。密に冷や汗を垂らしていると、火口さんが一つ呼吸の間を置いた後口を開く。


「実家は……遠いですね。まあもう帰ることもないので、支障はないんですけれど」


 どうやら実家の話は踏み込んではいけないラインの奥にあるらしい。何を言えばとまごまごしていると、火口さんが隣から離れた。見ると全ての商品に値札が貼られている。いつの間に作業が終わっていたのか、すっかり会話に夢中になっていた。慌ててレジの具合を確かめていると、火口さんがそっとベルを手に取る。「開店しますね」


「レジは私一人でできますので、雨水さんは悪霊の見張り、店の巡回をお願いします」


 そうか、いつもは仕事を教えてもらうためにレジに二人で入っていたが、慣れてしまえば一人でできるようになるのか。当たり前のことなのだが、簡単にそう言ってのける火口さんがかっこよく見えた。俺も早く仕事を覚えて、高草木さんの役に立たなければ。「はい!」と一丁前に返事をして、ひとまず開店を待つ。からん、からんとベルの音が鳴ると、すぐにレジの前には行列ができた。鮮やかな手つきで商品を受け取ってはレジを通して渡していく火口さんの動きは匠のようで、もはや手元しか見ずに真剣に作業をしている。幽霊のお客様が接客態度を気にするわけもないので、全く目を合わせずとも何の問題もない。


 本格的に俺の力は必要そうにないので、火口さんが集中して仕事ができるように治安維持に努めることにする。まずは人手が欲しい、ということで天使さんを探すことにした。もしかしたら近くにはいないのかもしれないが、あまり離れて火口さんのそばを離れすぎるのも心配だ。ひとまず周辺を見渡してふわふわ浮かぶ白を探す。


 俺の足音だけが響く店内。あの白は視界の端に捉えただけですぐにわかると思うのだが、視界の端にすら入らない。大声で呼びかけながらとにかく歩き回っていると、一瞬だけちらと何かを捉えた。白ではない、——黒い影。悪霊だ。悪霊がこちらに何か、石のようなものを投げてきた。いや、きっと石ではない。攻撃だろう。ファンネルのように自身の体の一部を撃って来たのだ。


 頭が認識するよりも早く体が動き、飛んできたそれを避ける。一目散に距離を取り振り返ると、案の定そこにいたのは悪霊だった。大きな目玉が一つ、俺をじっと見つめている。


「一つ目……ってことは天使さんなら」


 簡単に倒せるのではないか。いつだったか「一つ目なら簡単に倒せる」と言っていた天使さんを思い出す。しかしそう思いつきはしたものの今ここにいるのは俺だけ。天使さんが来る気配もない。火口さんはお客様の相手をしているし、俺がなんとかしなければ。そっとポケットからバンダナを取り出し、左腕に巻き付ける。


「お願いします!」


 見慣れつつある青い光が身を包む。エプロンがひらりとはためく。全身に力がみなぎるのを感じていると、やがて光はバンダナへと吸い込まれていった。気配を手繰り寄せ、左手を前に掲げる。「マグロさん!」


 青い魔法陣が目の前に出現し、ゆっくりと巨体が現れる。そこで思い出した。あ、イカが出せるかどうか確かめればよかったのに。焦っていてそこまで気が回らなかった。


「ま、まあ次回試せばいいだけですもんね。マグロさん、お願いします!」


 声をかけるとマグロは俺を認め、ゆるりとヒレを動かす。俺は軽やかに飛び上がりその背に乗ると、しっかりと背びれを持った。青いリングが俺とマグロさんを固定するように伸びれば準備完了。ふわりと泳ぎ始めたマグロの背からしっかりと標的を見定め、このまま目玉を狙おうとすると、悪霊が瞬きを一つ残し、空中に溶けるように姿を消した。


「え!? ど、どこに行ったんですか!」


 店内を泳ぐマグロの背から辺りを見渡すも見当たらない。次第に増していく焦りを抑えながら視線を動かしていると、遠くに見える火口さんと、その背後にずるりと現れた悪霊の姿を捉えた。


「火口さん!」


 叫ぶも距離が遠すぎて声が届かない。幽霊たちの列は長く、火口さんはそれをさばくのに集中しているのか気が付く様子がない。即座に火口さんの元へ向かおうと速度を上げるも、それよりも先に彼女の背後から悪霊が手を伸ばして——その瞬間、火口さんが思い切り後ろを振り返り、咄嗟に目を瞑った様子が見えた。


 ——キイン!


 俺の目の前を、白い弾丸が一筋の線を残して飛んでいく。純白の弾丸はまっすぐに悪霊の目玉を背後から狙って——直前に気づかれたのか、するりと避けられた。


 振り返ると天使さんが顔を歪めているのが見えた。良かった、火口さんのピンチに気が付いたようだった。当たらなかったが、隙ができただけでもありがたい。悪霊が注意を天使さんに向けている間に俺が火口さんの元にたどり着き、火口さんを乗せ素早く距離を取る。その手には商品の入った籠が抱えられている。悪霊から守ろうとしたのだろう、ナイスである。さすが火口さん、と嬉しさ露に彼女に向き直ろうとすると何かを腕に押し付けられた。


「雨水さん、これ預かっててください」


 見れば、商品の入った籠だった。思わず受け取ってしまったが、まだ悪霊は倒れていない。俺がとどめを刺すつもりだったため「え、でも」とまごまごしながら火口さんの顔を見ると、彼女は依然目を瞑っていた。何か目に異常でも起きたのかと尋ねてみると「いえ。そういうわけではないので、大丈夫です。私がわざとやっていることなので」と平然と返される。そしてマグロからひらりと降りると、小さく伸びをした。追いかけるように俺もマグロから降りる。


「火口さん……?」


「すみません、お手数をおかけしました。後は私がやるので、雨水さんはそれ、守っておいてください」


 彼女は静かにそう言うと、俺とマグロさんを押しのけるように前に出る。その手に握られているのは、真っ赤なバンダナ。俺や高草木さんのものとも異なる、幾何学模様を宿した赤いバンダナを、右足にそっと巻き付ける。「足……?」思わず疑問が漏れた。彼女はそっと姿勢を正し、目を瞑ったまま一歩を踏み出す。


「……危ない。雨水さんにご迷惑をおかけしてしまいました。これは、私一人で倒して始末をつけるべき場面ですね。……できれば、大雪の力は借りたくないのですが」


 一歩、踏み出した火口さんの右足から、バンダナを起点として炎が噴き出る。依然目を瞑った状態のまま、トン、と火口さんが右足のつま先を鳴らした。するとつま先を中心として炎がさらに吹き上がり、天高く伸びていく。炎は次第に火力を増して揺らめきながら動き、空中に魔法陣を作り上げた。——赤い魔法陣。俺や高草木さんと同じ。


「……豚さん、私と一緒に来てください」


 魔法陣が赤く燃え盛る。すでにかなりの熱を持っていそうな魔法陣の中をさらに燃え上がらせるように、背に炎をまとった豚が現れた。空中の魔法陣から、ずるりとその姿が徐々に露になっていく。その巨体と背後の燃え盛る炎が合わさり、すべてを覆いつくすような巨大な影を俺たちに落とした。やがて炎の豚は魔法陣から飛び出すように着地し、真っすぐに影を見据えた。大きな鼻息とともに鼻の穴から炎が噴き出る。悪霊は現れた敵を排除しようと腕を伸ばし、鞭のように振るった。両腕がそれぞれ豚さんと火口さんを狙う。


「——そんな攻撃、見なくても避けられます」


 目を閉じたままの火口さんが横に体をずらし、最低限の動きで悪霊の攻撃を躱す。一方の豚さんは鼻から漏れる炎で悪霊の腕を焼き尽くした。腕が慌ててひっこめられると同時、火口さんが形勢逆転と言わんばかりに駆け出す。彼女の足にくくられたバンダナからは炎が漏れ出ており、通った地面を鮮やかに焦がしている。並走する豚が悪霊の攻撃を払い、炎で燃やす。火口さんは悪霊の前まで躍り出ると、瞳を閉じたまま跳躍した。右足を後ろへ引き、悪霊に叩きつけるように鋭い蹴りと入れた。目を瞑っているのにその狙いは正確。一体どうやっているのかわからないが、右足のバンダナからあふれ出る炎が狙い通りに悪霊を燃やしていく。赤色が悪霊の体の黒を覆うように浸食し、悲鳴のような音が聞こえてくる。


「豚さん、どうぞお好きなタイミングで」


 一瞬の静寂の後、豚が悪霊の目玉へと頭突きをお見舞いする。金切り声が音量を増して響く。暴れるように振り回される腕を避け、豚が大きく口を開いた。徐々に動きが鈍くなっていく悪霊は、炎と溶け合うように小さくなっていく。やがて俺の身長くらいの大きさになった悪霊を、炎ごと豚がぱくりと食べた。——どうやら、終わったらしい。途中からただ行く末を見ることしかできなかった俺を、マグロがじっと見ていた。彼はずっと俺を守るように周囲を泳いでいてくれていた。ハッとしてその背を撫でる。


「俺は大丈夫ですよ。すみません、ぼーっとしてしまって」


 マグロは一つ大きく瞬きをすると、再びゆったりと泳ぎ始めた。そうだ、まずは火口さんの安否を確認しなければと視線を戻すと、彼女はおもむろに目を開き、ほっとした表情で豚を撫でていた。よかった、大事ないらしい。その様子を俺も安心しながら見ていると、横に気配を感じた。肩を撫でる柔らかい感触。白が視界の端に映る。


「……強いだろ、アイツ。前までは幽霊とは戦えない、って言っていたのに、今じゃ自分で戦う術を身に着けた。……ボクがいなくても……大雪が来てからだ。やはり奴の影響なのか」


 振り向くとやはり天使さんだった。俺に言っているのか独り言なのか判別できないことをブツブツ言っている。マグロも怪訝に思っているのか、少し離れたところを泳いでいた。天使さんの目線はまっすぐに火口さんを見ているが、何を考えているのかはまるでわからない。ただただ変わらぬ美しさだけを持った、無機質な瞳。俺はマグロが火口さんの元へ泳ぎ始めたのを見て、ついていくようにそちらへと向かうことにした。天使さんは動く様子がない。彼の心に踏み込む勇気はなかった。

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