第9話 男子更衣室の不審人物?
高草木さんはもちろん一社員なわけで、有休を使う権利は当然ある。俺はまだ出勤日数が足りていないためもらえていないが、高草木さんはそうではない。有休を使うことくらいザラにあるのである。当然の話であるのはわかっているのだが、俺はそれを聞いた瞬間莫大な不安を抱えた。だって、高草木さんが休みを取るということは、必然的に俺はひとりになるということで。俺が一人になったら、悪霊退治も接客も俺が全部やらなければならないということで、それはつまり俺がミスをしたら、取り返しがつかなくなるということで。
「あれ? プルプルしちゃってるわ」
「身構えておいて正解だったんじゃないか、魚屋?」
突然目の前に降って現れた真っ白天使に驚いて後ずさり、商品棚に背をぶつけた。天使さんはそんな俺の様子にクスクス笑うのみ。額を抑えながら天使さんを睨むと、さらに笑い声が大きくなった。俺の顔のどこが面白いというのだ。
「天使ちゃん、無駄に驚かさないでよ。というか雨水君、ビビらせてごめんなんだけど、まだ話には続きがあるからそんなに気負わないで聞いてね。五日後に有休を取ることにしたんだけど、その日雨水君も出勤日じゃん? でもさすがに一人でやらせるのは早いかなあってことで、もう一人の遅番ちゃんが来るからその子と一緒にやってほしいんだよね。これは店長指示」
「もう一人の遅番?」「コユキのことか!?」
天使さんが一瞬で高草木さんの前に詰め寄り、顔をずずいと近づける。高草木さんはそんな彼をうっとおしそうに払った。
「ちょっと、話題に出しただけでそんなに食いつかないでくれない? そんなんだからヒグチちゃんに嫌われたんじゃないの?」
「は? テキトーな事を言うな。嫌われたわけじゃない。ただ、その……距離を取るべき時はあるだろう。今はそれだということだ」
「距離を取るべき、ねえ。そう言ってから何か月経ったんだか」
そんな高草木さんの言葉に言い返すこともなく、天使さんはただばつの悪そうな顔をしていた。先ほどから全く話が読めないが、彼らはいったい何の話をしているのか。どうすればいいのかわからずソワソワしている俺に気が付いたのか、高草木さんが話を戻した。
「あ、ごめんね話が脱線して。さっきも言ったけど、うちにはもう一人遅番担当がいるから、俺がいない時は臨時でその子と仕事をしてほしいんだ。まあ~不安かもしれないけど、あの子真面目だから大丈夫。精肉部門の子で、年は……いくつだっけ。雨水君と同じくらいだったような気がするけど」
「十八。名はヒグチコユキ。高校入学と同時にアルバイトを初め、勉強もアルバイトも両立する優秀な子でな、もちろん成績優秀。文武両道の才色兼備とはまさにコユキのことだ。仕事を覚えるのも早いし、悪霊退治もスマートにこなすようになったし……アイツが出てくるのは癪だが、戦い方もかっこいい。何といっても家が除霊一家だからな、その血を受け継いでいるのだろう。まさに完璧超人だな。さらにだな……」
「天使ちゃーん。雨水君目がまんまるになっちゃってるよ。引かれてるよー。……雨水君、大丈夫?」
「……待ってください。今十八ってことは高校生!? 年下!?」
「あれ、思ったよりちゃんと聞いてたっぽい。というかそこに驚いてたの?」
もう一人の遅番担当がいることは知っていたが、まさか年下だったとは。勝手に社員さんを想像していた俺が悪いのだが、驚きを隠せない。しかも除霊一家という言葉が聞こえたし勉強アルバイトなんでもござれの文武両道。もしかしなくてもかなり優秀な人なのでは。もしかしなくても、俺のような雑魚なぞはゴミを見るような目で見られてしまうのではないか。
「お、俺、そんな人と一緒に働く自信が……だ、大丈夫でしょうか……?」
「ああー、今度こそガチガチに身構えちゃった。大丈夫だよ、天使ちゃんがヒグチちゃん大好きすぎてあんな声高々に語ってるだけで……確かにまあ、優秀な子ではあるけど親しみやすくもあるから。ってか、天使ちゃんもそんな呑気に語れる余裕あるんだね。本人とはギスギスしてるのに」
その言葉に、テンション高く語っていた天使さんの顔がくしゃりと歪む。
「ギスギスなんてしていない!! コユキが強情なのが悪いんだ。ボクは、ただコユキのためを思って言っているだけなのに」
「そんなに心配するようなことかなぁ? 俺から見たらあの子……名前なんだっけ、あのもう一人のヒグチちゃんも問題ないと思うけどね。まあ強いて言うならお互い依存しすぎてる気がするけど」
再び俺には事情のわからない話が繰り広げられたため、黙って話を聞いていることにした。ヒグチさんの恋人に天使さんがちょっかいをかけているのだろうか。だとしたら、天使さんが出しゃばりすぎているように思えるが。口を挟むのもなんとなく憚られたため、ただひたすらに黒野菜を袋に詰め値札を付けるマシーンになる。
「てか今は天使ちゃんの話はどうでもいいんだってば。雨水君、とにかく、ヒグチちゃんと仲良くよろしくね。彼女、ずっと天使ちゃんとバディでやってるし俺もそんなに一緒に働いたことはないんだけど……まあ、いい子だった気がするし! 雨水君ならダイジョブよ」
「は、はい……」
遅番は昔から二人一組でシフトを組むらしい。今までは俺が入ったばかりであることもあり高草木さんとずっと組んでいたが、それが崩れる日も来るのだろうか。天使さんのヒグチさんへの執着を見ていると、俺がその人と組むことに難色を示しそうではあるが。
「おい待て。なんで魚屋とコユキが一緒に働くみたいになっているんだ。ボクもいるんだぞ。魚屋はおまけだろう」
案の定である。
「はいはい、そうだねー。まあ当日は喧嘩せずにうまくやってよ。雨水君に迷惑かけないようにね。そうしたら値付けも終わるし、悪霊が来る前にさっさと売り切っちゃおう」
いつの間にか手元にあった黒野菜たちは全て袋詰め値付けを終えた状態で鎮座していた。天使さんはむすっとした顔のままどこかへと飛び去って行く。そんな彼の様子を見てか、隣からため息が聞こえた。
「めんどくさいなあ……本当。ごめんね雨水君変な話ばかり聞かせて」
「い、いえ。俺は大丈夫なので。高草木さんは、気にせず有休をばっちり取ってください」
「んふふ、ありがとね。ちょっとした用事があるからすっごく楽しみなんだー。あ、内容は言えないんだけどね。雨水君だけじゃなくて天使ちゃんにも言えないし~」
その顔はやたらニヤケており、よっぽど何か楽しいことがあるのだろうと推測する。機嫌がいいのもそのためだろう。高草木さんはす、と左に目線を向けると、ふふ、と意味深に笑っていた。周囲の人誰にも用事の内容は話していないのだろう。俺だけじゃないようなのでそこには安心した。軽口を叩く余裕も出てくる。
「なんですかその笑い不気味で……じゃなくて、いや、違います今のは無しです」
「雨水君言うようになったなあ。俺の教育方法が悪かったのかなあ? ねえ?」
「すみません許してください!!!」
結局その日悪霊は来ず、あっという間に日々は過ぎ去り大学は再開、高草木さんの有休デーの日になった。履修登録や課題など大学の方でも忙しい時期なのに、スケジュールを見るたびに「あ、もう少しで高草木さんの有休の日だな」などと考えてしまい何度も無駄に緊張してしまった。この日が近付くたびに心臓が不安で傷んだ。こんな調子でこの先生きていけるのだろうか。ストレスに弱すぎる。
今日の講義は空きコマなしのびっちりデーだったため、バイト前にすでに疲労感がある。大学自体は嫌いではないし、毎日がキツいだとかそういうわけではないが、さすがに時間割を考え無しに組みすぎた。将来のために今のうちに単位は取りたいから、なんとか頑張りたいのだが。
疲れてはいるが、それでもシフトにオーケーを出したのは自分なのだから行かなければならない。電車に乗っている間はうとうとしていたが、店に近づくにつれ緊張で目は覚めていった。時刻は十七時三十分、ほぼほぼ閉店後の業務のために出勤するようなものである。着替えて鮮魚部に向かうと、商品の仕込みをしている小倉さんがいた。今日は漆畑さんはお休みの日だったっけ。
「おはよう雨水君、大学お疲れ様」
「おはようございます。小倉さんも、お疲れ様です。今日はどうでしたか、忙しさは……」
「ん? まあ、ぼちぼちだったよ。火曜日っていつもそんな感じだからね。心配しなくても平気だったよ。……あ、それより雨水君。ちょっと話があるんだけど聞いてくれない? 話したくてしょうがないことがあってさ」
「え? いやでも、仕事が……」
「掃除も値下げも大丈夫だから、仕込み手伝ってよ。ついでに話も聞いて」
強引なその様子に断ることもできず、彼の隣で仕込みをすることにした。どうやら明日出すブリの照り焼きの仕込みをしていたようである。銀色のバットに透明なシートを敷き、別のバットに照り焼きのたれを多めに出す。小倉さんが用意していたブリの切り身をそっと手に取り照り焼きのたれをたっぷりとつけてシートの上に乗せていく。すでに何度かやったことのある作業であるためすんなりできた。
「それで、話って?」
「聞いてよ雨水君。俺、幽霊見ちゃったんだ。この間、この店で」
ぴくりと大げさに肩を揺らしてしまった。
年がら年中見えてしまっている俺にとっては、まあ、といった話ではある。幽霊というものは生活の中に溶け込むように存在し、一見ぼうっと周りを見ているだけでは幽霊の存在に気が付けないこともある。普通の人でももしかしたら見えていることがあるのかもしれないが、霊感がなければそれを幽霊とは決して認識できない。共存しているような、そんな状態だ。だから幽霊がいると言われても俺は驚かないのだが、今回はその話を聞いて怪訝に思った。この店で幽霊が見える——霊感があるのは俺たち遅番担当だけ。それは遅番担当の人員不足っぷりから考えても自明である。つまりおかしいのは「霊感のない人たちが幽霊を幽霊と認識している」こと。
先ほども言った通り、霊感のない人は幽霊が見えていたとしてもそれを幽霊とは認識できないはずなのである。でも小倉さんは今「幽霊が見えた」と言った。これは一体どういうことなのだろうか。まさか、小倉さんも霊感を?
「どこで見たんですか?」
「お、食いついたね。雨水君もそういう話得意な人? ええっとね、さっきこの店で見たって言ったけど、詳しく言うと男子ロッカーで見たんだよね。……雨水君も使うよね、男子ロッカー。怖いよね?」
この人はどうやら俺を怖がらせたいらしい。やはり作り話か?
「ちなみにどっかで聞いた怪談話とかではないからね。ね、詳しく聞きたいでしょ?」
「——ええ、是非」
俺がそう言うと、小倉さんは意地の悪そうな顔でにやりと笑った。作業はテキパキとこなしながら彼の話に耳を傾ける。
「この間、一週間前くらいかな? 漆畑さんも雨水君もいなくて俺だけ出勤だった日。その日ちょっと忙しくて俺、残業しちゃったんだよね」
びくりと再び肩が揺れた。もしかして悪霊退治している姿だとかなんだとかを小倉さんに見られたのでは、と考えて我に返る。俺がいなかった日と言っていたし、それはつまり高草木さんの出勤日でもないということ。……あれ、でももう一人の遅番さんがいる可能性は?
「もう閉店した後だからさ、従業員も誰もいないの。仕事を終えて、へとへとの状態で更衣室を開けて。着替え始めたら——ドアがかちゃり、と開く音が聞こえたんだ。誰もいないはずなのに。警備員の人が巡回に来たんだとしたら、誰かいますか、って声をかけてくれるはずなんだ。でも、無言だった。俺は何となく声を出さない方がいいんじゃないかと思って、物音を立てずにじっとしゃがみこんでいた」
この時点で、俺はなんとなく真相を察していた。
「そうしていたら、聞こえた気がしたんだ。——足音が。ぺたり、ぺたりってね。ゆっくりとこちらへ歩いてくる足音。俺のロッカーは一番奥の列だから見えないんだけど、その俺のロッカーに、足音は近づいてきているようだった」
べちゃり、とブリのたれが飛んで白衣についた。慌ててペーパーティッシュで拭く。シミは広がるばかりで、諦めて作業を続けることにした。
「怖いしさ、疲れてるから人と話すのもめんどくさいじゃん。だから俺は壁の方に逃げたわけ。壁際のロッカーの横に隠れた。しばらくそこで息を殺していたんだけど。そこら辺から心臓がバクバクし始めちゃって。なんとなくなんだけど、入って来たのは従業員じゃないんじゃって、そう思えて仕方がなかった。背筋がゾクゾクして、夢中で息を殺したよ。だからはっきりとは覚えていないんだけど、近くのロッカーが開く音と、更衣室をうろうろする足音だけが聞こえてた。ずっと動かずにただ何事も無いことを祈っていたんだけど——しばらくして我に返ると、足音も何者かの気配も消えてたんだ」
その後はマッハで着替えて家に帰ったよ、と笑う小倉さんの顔は普段通りで、その体験により何か不安を覚えている様子ではない。恐らく面白い話のネタくらいにしか考えていないのだろう。俺はその様子にホッとした。
「怖いですね……何事もなくて良かったです。ちなみにそれは、何時くらいの話ですか?」
「ん? ええと……多分二十一時くらいじゃないかな? 閉店して一時間経つくらい」
だとしたら俺の仮説は合っていそうだ。もし小倉さんが幽霊を幽霊であると認識できていたのだとしたら、少し、いやかなり心配だったが、そうではなさそうである。まず幽霊モドキは例のもう一人の遅番さんだろう。時間帯的にも、遅番業務を終えて帰るくらいの時間帯だから辻褄が合う。寒気だとかなんだとかは、まあ、小倉さんの勘違いだろう。良かった。もし幽霊が見えていたんだとしたら異常事態だった。
「にしても小倉さん、怪談話とかお好きなんですか? お話、すごく上手かったです」
「まあ嫌いじゃないからね。精肉に仲がいいやつがいるんだけど、そいつが怪談話大好きで。というか雨水君全然ビビッてないじゃん! めっちゃ幽霊苦手そうな顔してるのに!!」
「あ、あはは……てか幽霊苦手そうな顔って……」
自信のなさそうな顔をしている自覚はあるが、なんとも悲しいイメージである。期待に添えず申し訳ない。ともかく、そこまで気にすることはないだろう。でも心配だから高草木さんには話してみようか。頭の中でなんとなく記憶をしておきながら、漬け終えたブリを手に冷蔵庫へ向かった。
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