第8話 イカを召喚したい!

  除霊を生業としている家に生まれたくせに、幽霊が苦手だった。だから、居場所がなかった。


 家族はまともに仕事もできない私に「気にするな」と言ってくれたが、その目に見える憐れみは隠しきれていなかった。それが悔しくて、だから努力した。除霊ができなくても生きていけるように。家族に迷惑をかけずとも居場所を持てるように。


 幸いにも努力はそこそこ実を結び、勉強も運動もなにもかもで一位になることが増え、周りの人はみんな私を褒めてくれた。ただ、家のために貢献しようという気は全くなかった。私は家族にとってはお荷物だから、離れなくてはならない。そんな姿が自分勝手な薄情者に見えたのか、家族とはだんだん険悪になった。だから、中学生になると同時に家を飛び出した。


 叔母の家に駆けこんで、優しく接してもらって、面倒を見てもらって、感謝はしていたけれど、次第に罪悪感が膨らんでどうしようもなくなった。だから、もっと自分一人で生きていけるようになろうと思った。


 県内有数の進学校に入って、学費を自分で稼いで、全うに学生をして、それなりに忙しく過ごしていれば気は紛れた。今までの努力のおかげで優秀な人扱いをされたから周りに人はたくさんいた。みな、私に期待と願望と理想を預けていた。最初は居場所ができたみたいで嬉しかった。けれど私が努力すればするほど、私を本当に理解してくれる人はいなくなっていく。


 生きる意味が分からなくなった頃、バイトで新しい仕事を命じられた。そこで出会った彼女の姿を見て、人生が変わるかもと希望を持った。救いの象徴のような純白と圧倒的な美貌。背中から生える翼のきらめき。天使なら、対等に私のそばにいてくれるのではないか。


「お前は本当にすごいな! お前のその強さは本当に——尊敬に値するよ。ボクのバディがお前で良かったよ」


 しかし、対等に私を見てくれるのではないか、そう思って心躍らせた彼女も、すぐに私の重荷に代わってしまった。眩しすぎる白が次第に直視できなくなっていく。


 根本的なことに気が付いた。別に優秀な人間になろうと努力したところで、勝手に親友が生まれるわけでもない。そもそも一人で生きてけるように、そのために努力していたのに、本当は一緒にいてくれる誰かが欲しくて、あれ、じゃあ私、一体何を目指していたんだ? 


 結局私は、孤独と一生付き合っていけるほどの強さも、誰かと理解し合える優しさも持ち合わせていなかったんだ。——だから、自殺をすることにした。ただそれだけの、選択を重ねた末の決断だった。


「ひとりで生きていけないなら、ワタシがそばにいようか」


 そっと手にしたロープ越し、視界の奥に見えた救世主。差し出された真っ白な手と美しくなびく長い黒髪、空に透ける細く長い脚。ずっと誰かに言ってほしかった、求めていた言葉。役目を全うすることができなくても、期待に応えられなくても、ただそっと寄り添って隣にいてくれる誰か。——心を奪われた。だから、迷わずその手を取った。


 孤独感と疎外感にはもう耐えられそうになかった。だから、救世主が幽霊だとしてもその手を取りたかった。ただそれだけの話である。実際その後の人生は自殺願望もなく順風満帆。だから、離れろとうるさいだけのあの天使のことは嫌いだった。私のことを眩しそうに見る視線も、煩わしくて仕方がなかった。



 九月十八日、二十時五十分。


「マグロさん、お願いします!」


 弾丸のようにマグロが泳ぎ、標的の前で鎌のようにその身を薙ぎ払った。尾の攻撃を受けた悪霊がぐらりと体勢を崩す。その隙を見逃さずに高草木さんが声を上げた。


「いいねえそのスイング! きゅうり君も真似してみて!」


 高草木さんが右腕を掲げる。はためく緑色のバンダナの上を巨大なきゅうりが通過していった。悪霊の元までたどりついたきゅうりは、バットを振るかのように実をしならせ、鋭く横一閃の攻撃を決める。「ナイス!」


 ボールのように弾き飛ばされた悪霊は、そのまま対角線上にいたマグロの元へ。待ってましたとばかりにマグロが口を開けると、吸い込まれるように悪霊がその口に収まった。ぱくりと口を閉じれば、今日の悪霊退治は終了。高草木さんと頷き合って、お互いの巨大な仲間にお礼を言い、素早く売り場へと戻る。


「ありがとうございましたー」


 戻った売り場で丁寧に切られた緑色の刺身をレジでスキャンし、お客様へ渡す。真っ白に変化した刺身を持ちお客様がレジの前を離れると、次のお客様が青色のりんごに似た丸い果実をカウンターへと置いた。レジを通して隣に立つ高草木さんに商品を渡すと、慣れた手つきで袋へと果実を入れてくれる。「こちら一点でーすありがとうございましたー」


 一連の作業を何度か繰り返していると、気が付けば最後のお客様。商品を渡して見送る。ぱくりと刺身を食べ、光の粒子となって消えていく姿を最後まで見届けてから、大きく伸びをした。


「終わった……!」


「お疲れ様雨水君。レジ、大丈夫そうだね」


「はい。さすがにもう何度目かなので、慣れましたね」


 ふわり。上から俺たちを見下ろしていた天使さんが降りてくる。


「まあ、そうだな。今日も最初の方は声が裏返りまくり噛みまくりの挙動不審だったが」


「う、そ、それは……」


「えー? 幽霊なんだからそんなこと気にしちゃいないでしょ。……あ、でもなんか何番目かのお客様が肩震わせてたような」


「え!? それ笑われてたってことですか!?」


 初出勤より一か月。夏休み終了まであと数日。大学の課題もあるため毎日バイトをしていたわけではないが、この夏休み、色々な事を経験してかなり仕事を覚えられたと思う。今日も悪霊退治は順調に完了し、その後レジをやったが作業自体のミスは無かった、と思いたい。現実のレジは未経験の状態で特殊な方を先に覚えてしまったため、後で苦労しなければ良いのだか。


 もちろん遅番の仕事だけでなく、鮮魚部での仕事にも慣れてきた。清掃、接客、品出し、値下げ。広告のPOPの作成と貼り出し、イベントごとの売り場の装飾。色々なことが把握できてくると達成感を覚えることができて、それが嬉しい。値下げのタイミングの見極めにはまだまだ失敗してばかりだが。今後も仕事を覚えて、皆の役に立てるように努力していきたい所存である。


「あ、そうだ。雨水君、マグロ以外の子も出してみたら?」


「マグロ以外の子?」


「そう。ほら、前に旬の話したじゃん? やっぱ色々呼べる方が戦力強化になるし。そろそろ仕事に慣れてきた頃だろうから、チャレンジしてみてもいいんじゃない?って」


 レジを片付けながら、突然高草木さんがそんなことを言った。数秒考えた後苦笑いで答える。


「ええっと……高草木さんみたいに、りんごとかかぼちゃとか色々出してみたいとは思っているんですけど……なんでか、応えてくれるのがマグロしかいないんです。他にも色々思い浮かべてみても、全然手ごたえがない、というか、声が届かなくて」


 俺の言葉に、先輩は「ああ」と合点がいった表情をした。


「それは多分、マグロ以外のことをよく知らないから、親しみを感じていないからじゃないかな。だとしたらすぐに解決できると思うよ。そうだねぇ、まあなんでもいいけど、試しに何か別の魚を捌いてみたり刺身にしてみたりとかすれば、上手くいくかも?」



 そして翌日、九月十九日、鮮魚の作業場、十六時。


 昨日の夜、高草木さんに言われたことを思い返して悩んでいると、漆畑さんが声をかけてきた。慌てて口角を引き締める。


「雨水君? なんかあったの百面相して」


「へ!? そんな変な顔してました!?」


「ニコニコしたかと思ったら深刻そうな顔して、何かなーと思って。何か困ったことでもあった?」


 もちろん相談できるならしたいのだが、漆畑さんには話せない。心苦しく思いながら誤魔化す。


「い、いや、大丈夫です。頑張れば、俺だけでなんとかなりそうなことなので。頑張りたくて」


「そうなの? ……ふふ、なんか頼もしくていいね。バイト、楽しい?」


「あ、ええっと……そう、ですね。ここを選んでよかったと思ってます」


 その質問に関しては嘘を吐く理由もないため正直な気持ちを言うと、漆畑さんは嬉しそうに笑った。


 あの日、高草木さんを助けるために無我夢中でマグロを呼び出して戦った日。遅番としてアルバイトを続けることを決めた日。


 悪霊が見えるただそれだけでなく、退治することもできるようになれば誰かを見捨てずに済む。望んでいたものを手に入れることができた高揚感は、あれからすでに時間が経った今でも俺の原動力となっているらしい。初めはへんちくりんなバイト先を選んでしまったと後悔していたが、今はここを選んで良かったと思えるようになっていた。それもこれも、高草木さんや漆畑さんら周囲の人たちのおかげではあるのだが。


 そんなことを考えていると、ふと頭の中に昨日の光景が現れた。そして一つのことを思いだす。そうだ。今日は漆畑さんにお願いしたいことがあったんだった。でも決まっていないことがある。具体的に何を教えてもらうか。どうしたら、と考えて視線を向けた先、ガラス越しに見える売り場で、おばちゃんが手に取ったのは——イカ。捌かれ輪切りにされたイカを買い物かごへと入れる姿を見て、これだ、と思った。


「漆畑さん! 俺にイカの捌き方を教えていただけませんか」


 「……へ?」漆畑さんは目を丸くして俺を見た。


 俺も初めはりんごしか出せなかったと高草木さんは言っていたが、今たくさんの野菜や果物の力を借りられているのは仕事を通して得た経験によるものなのだろう。だとしたら、俺もたくさんの魚に触れあえばいい。そう考えて、漆畑さんにイカの捌き方を教えてくれと頼んだのだが脈絡が無さ過ぎて不審になってしまった。慌ててフォローをしようとあたふたしていると、漆畑さんがくすりと笑った。


「いきなりどうしたの? イカに目覚めた?」


「いやっ、その、いきなりなのは本当にすみません……その、もっと色々捌けるようになりたくて。いつもお客様に捌くのを頼まれた時、漆畑さんや小倉さんに頼んでいるじゃないですか。俺もできるようになれば、二人の作業を止めることなくお客様の対応ができるんじゃないかと思って……」


 それも大きな理由の一つではあるが、もちろんもう一つ狙いはある。高草木さんのアドバイスの通り、マグロの時と同じように捌き方を知れば力を使うことができるのではないかと思ったためだ。捌くというか、調理ができるようになればいい。単純にできることが増えるのもありがたいし、一石二鳥である。それがイカなのは、単純に今おばちゃんが買って行ったところを見たから。それに加えて、ちょうど今くらいの時期がスルメイカの旬だからである。


 俺の言葉を受け漆畑さんは不思議そうな顔をしていたが、やがて笑顔を見せた。


「私は別に、頼まれて作業が中断されてもそんなに嫌だと思ったことはないけど。雨水君がやりたいって言うなら私は協力するよ。幸い、今はやることもそこまでないし。でもアレだね、そういうのは小倉さんの方が教えるの上手いと思うんだけど、今日休みだしなあ……私でもいい?」


「へ? いや、むしろありがたいです。その、ご迷惑でなければ」


「よしおっけーじゃあやろう!」


 懐の深さと行動までが早いところ、漆畑さんから見習うべき点である。手早く雑務を片付けて作業台の前に立つ。イカを捌くときには汚れやすいため蛇口のある作業台がいいということで、普段社員さんが作業をしている作業台の前に立った。少し年季の入っている様子の蛇口と作業台の上に置かれた、台を覆いつくすほど大きなまな板。この大きなまな板の上で豪快にマグロやサーモンを切り、魚を捌き切り身にしていく社員さんはさぞかっこいいのだろう、いつか見てみたいものである。想いを馳せながら包丁を用意していると、漆畑さんがこちらにやってきた。


「これ忘れないでね、エプロン」


 手渡されたのは俗にいう魚屋エプロン。水をはじく素材でできており、足元までを覆うそれは普段エプロンと聞いて想像するものとは全く異なる。長靴と合わせてこれを身に着けることで、足元に水がかかることを防ぐことができる。掃除の時に普段は身に着けていたが、今度は捌くために使うのだ。分厚いそれを腰に巻くと、すっかり魚屋気分である。


「おっけー、大丈夫そうだね。そうしたら、イカここに置くね。売り場から持ってきたやつだから、切り終わったら調理済みとしてパックしてまた出そう」


 まな板の端にイカが置かれる。つるりとした白い輝きが見えた。普段調理される前の状態で魚を見ないためこういう時はいつも興味深く見ているのだが、どの魚も目玉を見ると少し恐ろしい。イカも例外ではなく、ぽこりと浮き出た二つの目玉が鈍い輝きをもって俺を見ていた。じっくりと目玉と見つめ合っていると漆畑さんが声をかけてきた。


「社員さんが皮と吸盤は取っておいてくれてるから、そこはやらなくていいからね。それ以外のとこだけやろう」


 皮と吸盤は取ってあるとはいえ、内臓もそのままのこの状態ではお客様は買って行ってはくれない。家でわざわざ捌くのが面倒だから。そのため陳列の時に最初から捌いておくこともあれば、お客様から切ってくれと頼まれることもしばしばある。今日捌き方を極めることができれば、この先お客様に頼まれても一人で捌いてお渡しすることができるようになるだろう。そして何よりイカを呼ぶためにも、頑張らなければ。


 俺の横の作業台の前に漆畑さんが立つ。エプロンも同様につけ、準備バッチリだ。隣で実際に漆畑さんがやっているのを見せながら教えてくれるらしい。わかりやすくてとてもありがたい。


「まずこの胴を持って、内臓を取ろう。……あ、そうそうその頭っぽいところ。頭に見えるけどイカの胴は実はここなんだよね。だから、内臓もここに入ってるんだ。親指を突っ込んで、一気に引き抜くと上手く抜けるよ」


 ぐ、ぐ、とイカの胴に親指を入れたかと思うと、漆畑さんはずるりと何かを中から引きだした。黒みがかっており、すこし膨らんでいる。これがイカの内臓かと思うとグロテスクだった。内臓の下には頭があり、チャーミングな二つの目が俺を見つめている。イカの頭だと思っていた部分の構造は思っていたよりも複雑怪奇で、なんだか興味が出てきた。


 「さて、ここまでやってみて」と言われ見様見真似でやってみるも難しい。とりあえず引っこ抜けばなんとかなるかと思い指を突っ込んで内臓を掴み一気に引っ張ると、中で何かが弾ける感触がした。恐る恐る弾けたそれをずるりと引き抜くと、茶色のどろどろが指にべちゃりと付いていた。


「あー、まあ最初はそうなるよね。でも洗って、中に残ってるやつも全部取れれば大丈夫」


「この茶色いべちゃべちゃは……?」


「それは肝! 今回は捨てちゃう部分だから爆発しても問題ないよ」


 漆畑さんの言葉に従い、どろどろを洗い流す。そして胴から残った内臓と、さらに透明な軟骨を取り出す。軟骨はきちんと取ってと言われたため、しっかりと確認した。


「ここからは簡単だよ。まずは、頭と内臓を切り離しちゃおう。目玉の上くらいで切ってもらえれば大丈夫」


 目玉の上を狙って包丁を入れる。無事に内臓と頭を切り離せたら、次にゲソと頭を切り離す。ゲソの根本辺りを狙って切ると、ぽろりと何かが飛び出てきた。白く丸い何か。目玉ではない。漆畑さんに尋ねるとこれは「くちばし」らしい。つまりイカの口はこれというわけである。足の根本に口があるなど、やはり不思議に思える。なぜくちばしと言うのかと思ったら、その白丸の中に黒い爪のような、とがった部分が鳥のくちばしに見えるのだとか。


「さて、じゃあゲソを食べやすいように切るんだけど、雨水君。イカの足は何本あるか知ってる?」


「え? 十本、ですよね? あれ、違いますか?」


「ふふん。正解は八本! 残り二本は正確には腕なんだよ。触腕っていうんだけど、こーんな細い見た目して結構力が強いんだって。んで、この腕は足よりも長くできてるから、食べやすいように足に合わせて切ってあげると親切かも」


 手元のゲソをよく見ると、確かに二本だけ長いものがある。これが腕なのか。なるほど、と頭に入れながら腕をそろえて切る。ゲソもパックに入れて売るらしいので、一度まな板の端に邪魔にならないように置いておくことにした。


「よし。じゃあさっそく胴の部分切っていこうか」


「頭じゃなくて胴……なんですよね。やっぱり不思議な感じだな……」


「まあ内臓がここに詰まってるわけだから、おかしくはないんだけどね。……あ、一回洗った方がいいかも。んで今回は輪切りになるようにするから、そのまま右から切ってくれれば大丈夫。三角の耳はエンペラって言うんだけど、これも切って大丈夫」


 耳が左に来るように置き、包丁を手に取る。特に考えずに普段通りに包丁を入れると、漆畑さんがふは、と吹き出した。


「ちょっと厚いかも? それだとおじいちゃんおばあちゃんが喉に詰まらせちゃうかもね」


「え!? そ、それは困りますね……」


「でしょ? うーんと、一センチかなー。目安としては」


 一センチ、一センチ……意識すると逆になんだかよくわからなくなってくる。自分なりの一センチで切ってみるも「だから大きいって!」とケラケラ笑われてしまった。


「いざ一センチと言われるとわからなくなってしまって……」


「まあ普段そんなに一センチを意識することないもんね。この際一回忘れていいよ。単純に食べやすいサイズ、普段目にする輪切りのサイズにしてみて」


 大体これくらいかと手探りで切ってみると、いい感じ、と漆畑さんの声が弾んだ。感覚を掴めた気がする。ここまでで胴の半分くらいまで。残りはきちんと切るぞ、と景気よく包丁を握り直した。


 その後は普通に仕事を終え、閉店後の作業をした後一人で事務所へ。今日は漆畑さんも早めに上がってしまったためほとんど一人で作業をしていたが、なんとか不備なくできた、と思う。何か不備があったら、明日チーフに大人しく𠮟られよう。拳骨でも罵声でもなんでも受け止める覚悟である。廊下はムシムシと熱く、手で汗をぐいと拭った。もう夕方だというのに暑い。九月とはこんなにも暑い月だっただろうか。


 そろそろ大学の夏休みも終わるということで、シフトもかなり変更することになった。土曜日は昼から、それ以外は平日の大学終わりに二日。三日しか遅番がおらず大丈夫なのかと高草木さんに尋ねると「もう一人遅番担当の子いるし、毎日開店してるわけじゃないからね」だそうである。——もう一人の遅番担当。まだ見かけたことすらないが、一体どんな人なのだろうか。高草木さんと同じ社員さんなのだろうか。そもそも部門は? 鮮魚部の遅番は俺だけだし、青果の遅番だったら高草木さんからそう紹介がありそうである。だとしたら、惣菜か精肉だろうか。というかどちらだったとしても部門くらいは教えてくれても良くないですか、高草木さん。


 変なところでテキトーな先輩に文句を言いながら書類を手に廊下を歩いていると、対面から誰かが歩いてきた。赤いエプロン、精肉担当の人だ。特に気にすることもなく「お疲れ様です」と言いながらすれ違おうとすると、「あの」と呼び止められた。何だ、気に障るようなことをしてしまったのか、今の一瞬で? 恐る恐る振り返る。「は、はい……?」


「……これ、落としましたよ」


 赤いエプロンとバンダナを身に着けた、小柄な女の子だった。差し出された彼女の手にあるのは、一枚の紙。見覚えのあるその紙を見て慌てて手元のファイルを見ると、書類を通すリングが緩んでいた。間違いなく俺が落としたものだろう、「ありがとうございます」と受け取ると、彼女は軽く会釈をして去って行った。おさげにした黒髪が揺れている。姿勢が綺麗だ、去り際もかっこいい。しかし、どこかで見たことがあるような……なんとなくその後姿を見送ってから、ハッと我に返り事務所へと向かう足を早める。油を売っている暇はない。


 歳は近いように見えたが、俺よりも堂々としていて立派である。ネームプレートに書かれていた名前、あれは苗字だろうか。珍しいな、「火口」……カコウさんと読むのだろうか。——何よりも気になったのは、彼女からした幽霊の気配。ここしばらく感じていなかった気配に思わず驚いてしまったが、あれは十中八九幽霊だろう。でも、これもどこかで感じたことのある気配のような。


 そんなことをぼんやり考えていたら、あっという間に事務所に着いていた。ファイルを抱え直して事務所の扉を開き、早足でファイルを返却する棚へと向かう。幽霊の気配がしたからつい気になってしまったが、部門も違うため話しかけることは今後ないだろうし、すぐに記憶も風化するのだろう。実際、高草木さんの元へ向かって挨拶をした後は、今日覚えたイカの捌き方について話したくてうずうずしていた。今日あった嬉しかったことについても話したくて興奮気味である。後から思い返して死にたくなるだろうが、抑えきれなかった。そんな俺の様子に気味悪がるわけでもない高草木さんの態度が本当にありがたい。


「へえ、じゃあ次悪霊と戦う時にはイカを呼べるようになってるかもしれないんだ」


「いや、でも上手く捌けたわけではないので、まだ足りないかもしれませんけど……」


「ええ? でもお客様が買ってくれたんでしょ? なら商品として上手くできてるってことだよ。少なくともそのおばちゃんにとって、君の捌いたイカはお金を出してでも手に入れたいものだった。それってかなりすごいし、そこまでできたなら呼べるようになってるんじゃない」


「そ、そうですかね……?」


「そうだよ。知らんけど。呼び出せなくても俺は責任取らないけど」


「テキトーじゃないですか」


 良い言葉をもらうことができたと思ったら、このちゃらんぽらん具合。別に真剣に俺のフォローがしたいわけでもないのだろう。思わず苦笑いをしてしまう。


 あの後、俺と漆畑さんで捌いたイカ達は無事に店頭に並ぶことになった。漆畑さんが切ったものに比べて俺のものは不格好で、こんなもの商品として出すことはできないと抗議したが漆畑さんに押し切られてあっさり俺の主張は却下された。そうして並べられたイカが売れたかどうか気になって他の作業中もちらちらと売り場を見ていると、一人のおばちゃんが手に取ってくれた。その瞬間俺がどんな顔をしていたかあまり想像したくはないが、ごくりと唾を飲み込んだことと手汗がべっとり出ていたことは確かである。おばちゃんは数秒そのイカのパックを眺めた後、流れるような動きで買い物カゴへと入れた。


 ——その時の感動といったら、人生で一番かもしれないくらいである。俺のイカは商品足りえたのだ。これで売れ残ったら確実に精神に悪影響を及ぼしていただろう。危ない。ありがとう見知らぬお客様。後はイカを呼ぶことさえできれば、完璧なのだが。


 真っ黒いたまねぎのような形状の、野菜なのか果物なのかもよくわからないものを袋に詰めながら、高草木さんとぽつりぽつりと会話をしていた。彼は今日機嫌がいいらしく、いつもよりもさらにニコニコとしていた。会話の中でも、左を向いて笑いを堪える仕草を今日はよく見る気がする。


 「何かいいことでもありましたか」と聞いてみると、「ちょっとね」だそう。彼にとってはなんでもない、ただの返事だったのかもしれないが俺はこれで「俺には話したくないことだったのか。それはそうだ。プライベートなことに踏み込んだ俺が悪い」と勝手に悲観的に受け取ってしまう。良くないことだと、嫌な性格であることを理解してはいるものの全く直せる気がしない。自分に自信を持てるようになったかと思ったが、そう簡単に人は変わらないものである。


 そんな俺の様子を気に留めることもなく、高草木さんは黒野菜を全て袋に詰め終えると値札を出し袋に貼りつけ始めた。


「たまには悪霊来なくてハッピーな感じで終わって欲しいよねえ。ってか、あ、思い出した。そうだ今日は雨水君に言わなきゃいけないことがあったんだった」


 「へ?」何だろうかと少し身構えながら続きの言葉を待っていると、高草木さんがくすりと左に顔をそらして笑った。


「あは、ごめんごめんちゃんと言うよ。……そんなに身構えないで。変な事は言わないから。ただ俺が有休取るからよろしくねって」


「へ??」


 予想だにしていなかった言葉に体が固まる。そして俺に降りかかるであろう試練を想像する。高草木さんが有休。つまり、もしかして、俺、一人で仕事をしなければならないのではないか。俺の引きつった顔を見て、高草木さんがあははと楽しそうに笑っていた。

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