幕間 旬がもたらす戦闘力
「へえ、今日から処暑、なんですね。これなんでしたっけ、細かい暦みたいな……」
店頭に掲示してあるこのチラシを入れ替えてきて、と指示されて手に取ったその紙。ポップなフォントで「八月二十二日からは処暑!」と大きく文字が書かれており、下には旬の食材がイラスト付きで列挙されている。
「そ、二十四節季ってやつ。昨日入れ替えるの忘れててさ。鮮魚にも商品棚のところにそのチラシを置くところがあるから、中身を入れ替えてきてくれればいいよ。あ、あと、見たことあるかもしれないけど。売り場に立ってる銀色のポールにも、旗みたいに付けてあるから……こっちの、ポスターサイズの方を付けてきてもらえるかな」
八月二十二日、十八時。
明日の仕込みや値下げ、広告POP作りが一段落したタイミングで、小倉さんに指示された作業。セロハンテープとチラシ、ポスターを片手に売り場へと向かう。曰く、二十四節季が入れ替わるたびに広告媒体を入れ替える必要があるらしい。旬の食材欄に、魚は鮭のイラストが書かれていた。なるほどだから鮭を使った冷凍食品や、鮭の切り身をたくさん売り出しているのだろう。
アルバイトは初めて、そして恥ずかしながらスーパーマーケットに来ることも今までなかなか無かったため、当たり前であろうことに今気が付くことが多い。昔訪れたスーパーマーケットでも、こうやって季節ごとに広告媒体を入れ替えたり、装飾を工夫したりしていたのだろうか。売場へ続くスイングドアを開き、ふと顔を上げると、天井から吊り下げている大きなPOPが目に入る。「ぞろ目の日はポイント5倍!」と景気よく書かれた天吊りPOPも、明日までには取り替えなくてはならないだろう。二十二日は今日で終わってしまうから。後でやらなきゃ、と頭の中でやることリストにメモをしておく。
商品棚に置かれたチラシの場所には心当たりがあった。昨日商品整理中にちらと見かけたからだ。迷いなくその場所まで向かい、近くを通ったおばさまにお辞儀をしつつ口を開く。「いらっしゃいませ」
チラシの入れ替えはすぐに済んだ。残っていた「立秋」と書かれたチラシはとりあえず丸めてエプロンのポケットに入れ、次はポスターの入れ替えだ。確か銀色のポールがなんとか、と言っていた気がするが、とポスター片手にきょろきょろしていると背後から声が聞こえた。
「あ、雨水君じゃ~ん。やっほ」
「え? あ、た、高草木さん……痛ッ!」
勢いよく振り返りすぎて、そばにあった何かの棒に足をぶつけた。声がした方を見ると、大きな商品カートを押しながら高草木さんがひらひら手を振っている。頭に付けているバンダナもゆらゆら揺れている。というか傾いている気がする。「高草木さんバンダナ緩くないですか?」と聞いてみると、彼はそっとバンダナに手を当てたあと「あちゃ~」と言いながら結び目を解き、結び直し始めた。
「う、売り場で結び直すのっていいんですか? お客様とか、統括とかに見られたら……」
「え~? じゃあ雨水君一旦俺のこと隠しといて」
「いや俺よりあなたの方が十センチくらい高いじゃないですか無理ですよ」
そんなことを言ってるうちに結び終えたのか、高草木さんがバンダナから手を離す。本当に少しだけ緩んでいただけのようだった。まあいいか、と釈然としないまま追及を止める。
「雨水君なにしてんの? なんかキョロキョロしてなかった?」
「え、い、いや、その……大丈夫です。というか高草木さんこそどうしてここに……? 鮮魚に何かご用ですか」
高草木さんの所属する青果の売り場は、鮮魚からは少し遠い。精肉売り場を挟んだ向こう側だ。緑色のエプロンを見かけることもあまりない気がする。鮮魚売り場付近で見かけることは初めてだ。
「ん~? 俺は、惣菜売り場に置いてあるカット野菜を補充しに来ただけだよ」
「カット野菜……惣菜売り場にも、野菜を置いているんですね」
「そ。ついでに買おうか、ってなるお客さんも結構いるみたいでまあまあ無くなるんだよね。だから補充~」
これこれ、と高草木さんが商品カートを指さすので、そっと中を見てみる。袋に入れられたカット野菜がいくつか入れられていた。
商品カートは青果の人が使う専用のものらしい。お客様が買い物の時に使用するものよりも箱が大きく、品出しの際に便利そうなカートだ。野菜もたくさん詰められそうである。
「で? 雨水君は何してたの?」
別に面白いこともないのだが。ニコニコ楽しそうな高草木さんを見てなんとなく邪険にすることもできず、ポスターの件を話す。ニコニコ頷いていた高草木さんは俺の話が進むにつれて不思議そうな顔になっていき、銀色のポールの話までし終えると、首をかしげて人差し指を立てた。
「なんですかその指。な、何か俺変なこと話しました? いやその、まだ見たこと無くてその、ポールとかいうやつを……すみません間抜けで」
「いや、だから……ここじゃない? それ。ほら上」
上? 見上げると、立秋、と書かれた大きなポスターが目に飛び込んできた。Tの字になっているポールの横棒に、洗濯バサミのようなはさみで吊り下げられている。これだ。ということは、銀色のポールというのもコレ?
「真横にあったなんて……」
「会った時思いっきりそのポールに足ぶつけてなかった?」
「ぶつけましたね……」
こんなに傍にあったのに気が付かないとは、注意力散漫すぎる。恥ずかしく思いながらポスターを入れ替えようとポールの高さを下げていると、高草木さんがケラケラ笑いながら手を振った。
「あはは、見つかってよかったよ。それじゃ、俺はこれで~また夜にね~」
「あ、は、はい! また閉店後、倉庫で」
「──雨水君、できた?」
いきなり聞こえた第三者の声に思い切り肩が跳ねる。ガチャン、と再度ポールに足をぶつけて大きな音が鳴った。そばにいたおばさまが目線をこちらに向け眉を顰めるのが見えた。慌てて頭を下げて謝った後、声を発した人物を思わず責めるようにじっとりと見つめる。
「う、漆畑さん、いきなり声をかけないでくださいよ……びっくりしました」
段ボールを乗せた品出しカートをそばに止めた漆畑さんが笑っている。新人バイトを驚かしたい人しかいないのかこの職場は。
「あははごめんごめん。なんか楽しそうにしてたからつい。誰かと話してなかった?」
「あ、え、ええと……遅番の先輩の人がいたので」
「あー例のね。上手くやってるみたいでいいじゃん! ね、どんな人なの先輩って? どの部門の人?」
「えっと、青果の人なんですけど……」
ポスターを入れ替えた後、冷凍の鮭の切り身を品出しする漆畑さんを手伝う。うんうん、と楽しそうに相槌を打ちながら俺の話を聞いてくれる漆畑さんを見て、ほっと胸を撫でおろす。良かった、どうやら話の内容は聞いていなかったみたいだ。ついうっかり閉店後、とか倉庫とか言ってしまったから冷や汗をかいてしまった。遅番の仕事は、遅番担当と店長以外には禁句。例え従業員だとしても。仕事中に高草木さんに会って浮かれていたとはいえ、うかつに遅番の話はしない方がいいだろう。一人反省しながら手を動かした。閉店まで、あと二時間。
▽▽▽
閉店後、二十時二十分。
「よっし準備おっけー。今日はすでにパックに切り身が入ってる状態だから、開店準備が楽でいいね」
「そうですね……レジを用意するだけでいいですもんね」
青色のパック詰めされた切り身を机に並べ終え、二人で一息をつく。これで売り切ってしまえれば今日の仕事は終わり。まだバイトを初めて数日だが、なんとなく流れを掴めた気がする。明日以降も続けていけば、もっとスムーズに用意ができて、もっと役に立てるようになるだろう。
「じゃ、開店しようか。さっさと売り切って上がっちゃ──」
「やあご機嫌麗しそうだな二人とも。仕事の準備もできていそうで何よりだ」
「……」
「あぁ〜……」
ベルを手に取った高草木さんの手を抑えるように、真っ白い足が見えた。高草木さんの手を踏みつけ、真っ白天使が俺たちを見下ろす。宙に大きく広げられた白い翼がはためいた。むっとした表情の高草木さんが手を払うも、天使さんは体勢を崩す前にひらりと宙返りをしながら飛ぶ。高草木さんが露骨なため息を吐いた。
「嫌な予感しかしなーい……」
「お話をしに来たとかだったり……?」
「なんだボクと話がしたかったのか? あいにく今日はそんな暇、なさそうだが。次の機会にでも話くらいならしてやろう。なんなら倉庫にお前たちが来たその時点でボクも合流してやろうか。何、それくらいなら構わないよ」
「勝手に話進めないで雨水君何も言えずにぽかーんとしちゃってるよー。てかなんでそんな乗り気なの? 普段ずっと一人だからコミュニケーションに飢えてるのかな。今更俺となんか話したいことでもあんの?」
「は? お前じゃない魚屋へのファンサービスだ」
「いや俺そこまで熱望しているわけでもないというか……じゃなくて、その、天使さん。もしかしなくても悪霊が出た、とかですか……?」
空中で寝転がった体勢で天使さんがこくりと頷く。やっぱり。まだ商品を一つも売り切れていないのに悪霊が出てしまったらしい。商品を取られてはいけないのに。
眉を顰めた高草木さんがベレー帽を外し、ハーフアップにまとめている髪ゴムを取る。緩んでいたのだろうか、再びハーフアップに結び直しながら、渋々といった様子で口を開いた。
「……まあ、出ちゃったんなら倒すしかないもんねぇ……しょうがないか」
慣れた手つきで髪を結び終え、ベレー帽を被り直し、慣れた手つきでエプロンのポケットから折りたたまれたバンダナを取り出す。緑色のバンダナが光をまとって輝いた。
「さっさと倒そ。俺今日残業したくないから」
ちらりと左に目をそらしため息を吐く高草木さんの様子を見るに、本当に残業は嫌らしい。ならば俺も協力して、頑張って早く倒さなければ。ポケットから青色のバンダナを引き抜く。俺たちの様子を見て、天使さんが体勢を整えてそっと人差し指を遠くに向けた。
「あっち、パン売り場の方だ。ここからは距離がある、まだ対して近づいてきてはいないだろう。行くぞ」
天使さんが羽を動かし進むと同時、俺たちも駆け出した。バンダナを手首に巻き、光を纏いながら駆け抜けていく。先導する二人は揺らめく商品棚を華麗に避けながら進んでいく。バイト数日ド新人の俺は慣れておらずこのままでは遅れてしまうため、独自の方法を取ることにした。
「マグロさん!」
青い魔法陣とともにマグロが現れ、即座に俺の横に並走するようにぴったりと付く。思い切って飛び上がり、その背に着地した。マグロに乗せてもらった方が断然早いだろう。マグロの背を撫で、さあ進むぞ、と意気込むと同時。背後に衝撃を感じた。ドスン、ドカン。マグロの背が衝撃に揺れる。驚いたのか、ヒレをパタパタ揺らしていた。
「え、いやちょ、何!?」
二発の衝撃に慌てて振り返ると、マグロの背に跨ってピースをする高草木さんと気だるそうにあくびをする天使さんがいた。いやなんで勝手に乗っているんだ。
「あれ!? お二人ともさっきまで前走ってませんでした?」
「走るの疲れちゃうから乗せてもらおうかなーって。マグロくんもいいでしょ?」
普段よりもゆったりとした泳ぎのマグロが、再びヒレを揺らす。いいよ、の意だと思う。多分。高草木さんがありがとー、と背を撫でた。
「優しいねー。あれ、でもなんで天使ちゃんまで乗ってるの? 君飛べるんだからいいじゃん。なに? もしかして怠けてんの? 店長に言うよ?」
「勝手に言っておけ。アイツが何を言おうと脅しにもならんからな。飛ぶのも疲れるんだから、たまにはいいだろう」
なぜ三人仲良くマグロに乗っかって進まなければならないのだろうか。いつだったかローカルな遊園地で乗った動物の乗り物を思い出す、この感じ。軽快な音楽を出しながら、親が歩く速度よりも遅いスピードでゆったり歩くパンダの乗り物。懐かしい。朧気すぎる記憶の中では、友人が後ろに乗っていた気がする。今一緒に乗っているのはバイト先の先輩と天使だから、あの時ほど微笑ましい光景では全くないのだが。
「まあいいですけど、飛ばしますからね!? ちゃんと掴まっててくださいよ」
二人の体を固定する水のリングが出現したのを確認して、マグロさんの背に手を当てる。大きくヒレを動かしたのを確認した瞬間、弾丸のように前に進みだした。背景がぐんぐん後ろに飛んでいく。「ウワー!?」悲鳴が背後から聞こえる。無視したままマグロさんにしがみついていると、目の前に巨人が現れた。三メートル近い真っ黒い巨体、悪霊だ。大量の目玉がぎょろりと俺たちを見下ろす。
「いました! 悪霊です! どうしますかお二人とも、降りますよね、今マグロさんに下に向かってもらうのでその時に……聞いてます!?」
返事がないことに焦れて後ろを見ると、くすくす笑う天使さんがいた。何事かと視線を向けると、下に人差し指を向ける。指先を追うように目線を下ろすと、マグロの背に伏すようにして高草木さんが目を回していた。完全に伸びている。
「え? え!? 高草木さんどうしたんですか、大丈夫ですか」
「コイツ、マグロのスピードが速すぎて吐きそうになってるっぽいぞ。ハハハ! こいつそんな弱点があったなんてな。傑作だな!」
「八百屋、さっさと復活しないとボクと魚屋で倒しちゃうからな!」そう言って天使さんはマグロの背を離れ、悪霊の元へ向かう。俺は高草木さんの背をそっと撫でながら声をかけることしかできない。うう、とうめき声が聞こえる。
「う、うすいくん……ごめん、ちょっと、ちょっとまってね……」
「だ、大丈夫ですそのままで! え、ええと、でもどうしようかな……」
マグロに乗ったまま戦いたいが、そうすると余計に高草木さんが苦しくなってしまう。かといってこの状態の高草木さんを地面に降ろして一人にしてしまったら危ない。マグロと天使さんで戦ってもらって俺は高草木さんを介抱するか、いやでもこちらに攻撃が来たらどうしようもないし……
考え込んでいると、高草木さんが俺の手を押しのけ体を起こす。合った目線はなんだか虚ろだし顔色もめちゃくちゃ悪い。心配でしかない。しかし高草木さんはゆっくりと息を吐くと、マグロに掴まりながら地面に降りる。
「だ、大丈夫ですか……? すみません俺、何も考えずに飛ばしてしまって」
「いや、俺が言わなかったのが悪いから……うん、大丈夫、でもちょっと上手く動けそうにないから、この子だけ召喚しておくね」
高草木さんがバンダナを巻いた手を挙げると、緑色の魔法陣が現れる。中から飛び出てきたのは巨大な——梨。ドシン、と揺れる地面に高草木さんがふらつく。
「指示はちゃんと出すし戦うけど、ちょっと、あっちの方で体調整えておくね。ほんとごめん」
「い、いえ! 大丈夫です。無理しないでくださいね」
ヘロヘロの引きつった笑顔で高草木さんが離れていく。俺はマグロに跨ったまま、悪霊の元へと向かった。梨も同時に悪霊へとドシン、ドシンと振動を響かせながら向かって行く。悪霊がこちらに体を向けた。そして足に該当するであろう部分を大きく伸ばし、攻撃をしかけてくる。マグロと息をあわせて躱すと、目の前に白い影が飛び込んできた。天使さんが両手で足を受け止め、ぐぐ、と押し返して突き飛ばす。
「天使さんすごい!」
「誉め言葉は後でまとめて聞こう! 防御はボクが担当するから、お前が倒せ!」
悪霊がミサイルのように体の一部を飛ばしてくるが、縦横無尽に宙をかける天使さんが全て防いでいく。様子を見つつ悪霊の背後に回り攻撃を隙を伺うも、目ざとい悪霊がこちらに攻撃を飛ばしてくる。躱すのは容易だが、悪霊に噛みつく隙がない。ならば隙を作らなければ。
「マグロさん、ミラクル起こせたりします?」
攻撃手段はあるだろうか、マグロを見つめると彼はヒレを動かし、そして口を大きく開いた。バンダナから青い光が生まれ、マグロの口に収束していく。光は水へと変化し、マグロの口の中で球体になっていく。バンダナに力が満ちていく。左手が震えた。マグロの意志が手に取るようにわかる。俺は左手の拳を前に突き出し、マグロにアイコンタクトを取った。
「行きますよ! ——貫け水流!!」
拳を開いた瞬間、マグロの口から水のビームが発射される。空を裂く水流は瞬く間に悪霊の元へと到達し、反応できずにいる目玉のいくつかを貫く。悪霊が悶絶する声を上げた。よし、いける。マグロの背に手を当て、一気に悪霊の元へ近づく。
——ぐちゃり。マグロが大口を開き、その体を食いちぎる。悪霊に風穴が空いた。金属音のような悲鳴が辺りに響き渡り、一瞬だけ耳を塞いで耐える。一気に旋回してもう一発を攻撃を、と思った瞬間、悪霊がその体を大きく広げた。空いた穴を塞ぐように、網のように薄く広がった悪霊が、俺に覆いかぶさるように周囲を浸食する。予想外の動きに俺とマグロの動きが止まる。
「——え」
大量の目玉が俺を見下ろしている。にやり、笑われた気がした。黒に染まっていく目の前をただ凝視していると、その中に、光を見た。
「梨ボンバー発射~」
気の抜けた声が響いた後、一瞬で黒に穴が空く。悪霊を突き破ってなにかが飛び込んできたようだった。よく見なくてもわかる。輝く大きな実、梨だ。梨が悪霊を突き破ってこちらに飛び込んできたらしい。すぐ隣を隕石のように梨が通っていく。梨はそのまま地面に突き刺さり、大地震のような振動と衝撃音をもたらす。
——ドガアァァァアァァアァァァン!!!!!
「いやつっよ!?」
穴の開いた悪霊が、そのまま地面にべしゃりと落ちる。梨はすぐさま刺さった巨体を抜くと、悪霊へとプレスをしかける。
耳が破裂するのではと思われるような爆音が鳴った後、悪霊の悲鳴が響いた。
強すぎないか、前高草木さんが一緒に戦っていたリンゴよりもよっぽど強いような気がするのだが。いや、そんなことを考えている場合ではない。今だ、今しかない。梨が巨体を動かし移動したのを確認した後、マグロの背にしっかりと掴まり、一緒に突っ込んでいく。悪霊は平たくなった体を起こし立ち上がろうとしているが間に合わない。再び大口を開けたマグロが、一直線に悪霊へと飛び込んだ。一口。悪霊に穴が空く。旋回して二口。三口。徐々に小さくなっていく悪霊。
「一気に平らげちゃってください!」
最後、風前の灯火の悪霊を、一口。丸のみしたマグロが咀嚼し飲み込めば、辺りは静寂に包まれる。
「倒した……今日もなんとかなった……」
へたりこみそうになりながらマグロに地面へ降ろしてもらい、慌てて高草木さんの元へ駆けよる。天使さんが近付いてきて俺の肩を叩いた。
「よくやったな魚屋。いい攻撃だった」
「あ、ありがとうございます。天使さんもありがとうございました」
二人とマグロ一匹、梨一体で高草木さんの元へ。ドシン、ドシンと梨が跳ねるたびに体が揺れるが、なんとかたどり着いた。商品棚に背を預けたまま、座り込んだ高草木さんが片手をあげる。見たところ外傷はない。
「なんとかなったみたいだね」
「高草木さん! すみません助かりました。体調悪いのに助けていただいて、ありがとうございます」
「別にそれくらいなんでもないよ。仕事はちゃんとしないとね」
高草木さんが笑顔でウインクをする。天使さんも一瞬嫌そうな顔をしていたが、その様子を見て安心したのか、ほ、と静かに息を吐いていた。
「ここから見てたけど、随分スムーズだったんじゃない? すぐに倒せたみたいだし。やっぱ雨水君向いてるよこの仕事」
「え? いや、やられそうになりましたし、天使さんや梨さんがいなかったら、全然……というか気になることがあるんですけど、梨さん、強くないですか?」
普段から梨と一緒に戦えばいいのでは。そう疑問に思い聞いてみると、高草木さんは「あー、えーっと」と言葉を探しながら立ち上がる。梨をそっと撫でながら、巨体に寄りかかった。
「食材には旬の時期、ってのがあるじゃない? もちろん野菜や果物にもあって、梨は大体八月くらいなんだ。いわゆる処暑の時期だね」
「処暑……二十四節季ですよね」
「そう。今日雨水君が持ってたアレだよ。あのポスター」
昼間に見たチラシが頭に浮かぶ。そういえば、梨のイラストもそこにあったような気がする。
「俺らが召喚する食材、旬の時期に戦闘力が左右されるみたいで。時期じゃない食材でも戦うことはできるんだけど、旬だともっと強くなるんだー。だから、今の時期梨はめっちゃ強い。リンゴは品種にもよるんだけど、もうちょい後だから、今の時期は梨の方が強いんだよね」
高草木さんの言葉に、梨がちいさく体を揺らす。なるほど、旬の時期で強さが変わるのか。
「じゃあ、俺も高草木さんみたいに色々召喚できるようになったら、もっと強くなるってことですよね」
「まあそうだね。でも旬の時期だからってその子を召喚できるように頑張ろう、とかしてると、案外旬って短いからすぐ過ぎちゃったりするし、あんまり気にしなくてもいいかも」
なるほど、良いことを教えてもらった。頭の中でメモをしている間に、高草木さんが梨さんからそっと離れ、魔法陣を召喚していた。「ありがとね~」慌てて俺もマグロを帰すためにバンダナを振る。梨とマグロはそれぞれ俺たちに挨拶をした後、瞬く間に姿を消していった。
「ふー、終わった終わった……」
「やりきった感を出しているがお前たち、これから商品を売るんだからな? 頼むぞ。売り切ってくれないとまた悪霊が出るかもしれないし」
「君が俺ら呼んだのにめちゃくちゃ上から目線じゃんね~」
「あはは……あ、た、高草木さん、大丈夫ですか。体調が悪いなら、俺がその、頑張るので……」
準備をした切り身の売り場へと三人で向かう。高草木さんは未だ顔色が悪いような気がするが、大丈夫だろうか。案じながらそう言うと、高草木さんは笑顔を作りこちらを振り返った。
「もう大丈夫。休ませてくれてありがとうね。俺ジェットコースターとかもダメだから、ちょっと……ヤバかったけど。でもまあいい体験だったよ」
「ふ。なあ八百屋、そんなことを言ってまだ辛いんだろう? ボクが背負って飛んで行ってやろうか。何、すぐに着く。そっちの方がいいだろう」
「いや絶対飛ばすじゃん。またグロッキーになるじゃん。無理すぎ最悪マジで」
高草木さんがじっとりと天使さんを睨むが、彼は気に留めることなく翼を動かしている。むしろ上機嫌にも見える。
「て、天使さん。なんでそんな嬉しそうなんですか」
「ふん。コイツ、完璧超人ですーみたいな面して飄々生きてるだろう。それが鼻についてな。だから、弱点を知ることができて嬉しいんだ」
「悪趣味……」
つやつやとした笑顔の天使さんとげっそりとした高草木さんの間に挟まれ、苦笑することしかできない。しかしまあ、完璧そうに見える高草木さんのそうでもないところを知れたのは、俺も少しだけ嬉しかった。天使さんのように手放しに喜んだりはしないが。ベタベタと慣れ慣れしくする気は当然ないし、迷惑になるようなことをする気もない。でも、少しだけ彼のことを知って、親近感が湧いて、距離が縮まったような気がして。
「苦手なことがあったら言えよ、八百屋? ボクがフォローしてやってもいいんだからな。もちろん魚屋も。ボクが全てを解決してやるからな」
「は、はい。ありがとうございます。……あの、高草木さん。俺もその、召喚できる魚を増やして……頼りにしてもらえるように頑張るので。なのであの、良かったら、また、頼ってください」
「——んふふ、ありがと。天使ちゃんは当然こき使うとして、雨水君とは協力して頑張っていきたいな。よろしくね」
「はい!」
「間違っているぞ八百屋。お前がボクをこき使うんじゃない、ボクがお前を救うんだ。感謝しろ。涙を流してありがたがるんだな」
「きっも」さらにげっそりした顔の高草木さんに同情しながら歩を進める。ふと見上げた視線の先に、精肉、と書かれた看板を見つけた。精肉売り場だ。ということは、青果売り場も近いな。
「そういえば、お肉には旬の時期ってあるんですか?」
ふと気になったので尋ねてみるも、高草木さんはお肉には詳しくないのか、曖昧に首をかしげるだけだった。天使さんに尋ねようとしたが、彼は露骨に目をそらし、何か考え事をしているようだった。恐らくわからないのだろう。視線を高草木さんに戻す。
「精肉担当の子に聞いたらわかるかもね。多分すぐに会う機会があると思うから、その時にでも聞いてみるといいんじゃない」
「わかりました」
精肉担当に知り合いはいないが、まあ確かにいつか会えるだろう。その後は高草木さんととりとめのない話をしつつ売り場に戻り、商品を売りきった。気が付いた時には天使さんはすでに帰ってしまっていたようで、お礼をきちんと言いそびれてしまった。
いつか俺も、たくさんの食材と協力して戦えるようになりたい。そうして高草木さんや天使さんの力になって、いろんな人の助けになれるように。願いをそっと心に抱えたまま、軽快な足取りで帰路についた。
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