第6話 「君のやりたいことは何?」

 二十時十五分。

 


 事務所を出て、薄暗く人の気配が希薄な廊下を進む。閉店後は皆撤収が早いのか、残っている人はほとんど見かけない。青果の作業場の奥まで行くと、高草木さんがパソコンのデスクに座っていた。足音で気が付いたのか、振り向いて俺の姿を認めるとにこやかに挨拶をしてくれる。


「おはよー、雨水君。今日もお疲れ様」


「お疲れ様です。もしかしてまだ作業中ですかね……?」


「あー、ごめんごめん。ちょっと明日のためにやっておきたいことがあっただけだから、大丈夫」


 その言葉は本当なのだろう、すぐに開いていたウィンドウを閉じた。ちらりと見えた画面は見慣れないもので、社員にしか触れない領域の事なのだろう。雰囲気が脱力しているため余計に親近感を覚えてしまうが、高草木さんも社員の一人だ。そんな人が、新人が俺しかいないとはいえ付きっ切りで指導をしてくれるなんて。恐れ多いことである。


「お待たせ。そしたら今日は、店の準備から一緒にやるから倉庫に行こうか。着いてきて」


 辞めるかどうか、今日の仕事で決めるんだ。せめて真剣に、誠実にやらないと。密かに気合を入れ直す。先を進む高草木さんの半歩後ろを歩き、元来た道を戻るように進む。どこへ行くのかと思っていると、二階の事務所へと続く階段の前まで来た。どこに倉庫があるのかと思っていると、高草木さんが階段の横のスペースへと進む。なにかあるのかと後ろから覗くと、高草木さんが壁に従業者証を押しあてた。すると、ただの壁のように見えた場所がスライドして開く。驚いて思わず声が出た。先には廊下が続いているようだが、暗くてよく見えない。隠し扉のようなものがここにあったようだ。


「こんなところに扉が……普通は気づけないですよね」


「気づかれないようになってるんだって。開けるにも、遅番の人のカードがないと開かないようになってる。ここに昨日使ってたあの台車があるんだけど……まあとりあえず入ってもらおうかな」


 最近のスーパーマーケットは隠し扉まであるのか。しかも自動、ハイテクである。高草木さんが先立って入り、俺が後に続く。先はやはり暗くてよく見えない。ひんやりとした冷気が体にまとわりつく。鮮魚作業場の冷蔵庫を思い出すような冷たさだったが、さすがに冷蔵庫より冷たいなんてことはないだろう。不安も相まって感覚がおかしくなっているのだろうか。


「おっけー。そしたら閉めるね。ここ誰にもバレちゃいけないから、開けたら即閉めるようにして。閉める時はもう一回カードかざせばオッケー」


高草木さんが振り返り、入口にカードを当てる。数歩進んで待っている間どうすればいいのかわからず立ち止まると、突然視界が真っ暗になった。


「え!? は、何!?」


「あっごめんごめん電気つけるの忘れて閉めちゃった。待ってね、ええっと……」


 コツコツと靴の音。「あー」だの「あれー?」だの、こちらが不安になるような声を聞きながら待っていると「あ」という声とともに視界が明るくなった。


「あったあった電気。横の壁にあるから、閉める前につけた方がいいよ、マジで真っ暗になるから。いつもテキトーに前に進めば倉庫があるからめんどくさくてつけてなかったんだよね。失敬失敬」


 あははと笑う高草木さんの様子に苦笑する。いい意味で図太い人だ。電気がつき視界が開けたのであたりを見てみると、やはり廊下は奥に続いているようだった。まっすぐ進めば倉庫があると言っていたが、その通りなのだろう。扉が見える。廊下を進むと靴音が大きく反響し、無駄に腰が引けてしまう。


「基本的に閉店後の業務が終わったらこっちに来てほしいんだ。倉庫から必要なものを持っていかないと仕事が始められないからね」


「幽霊を成仏させるため、ですよね」


「そうそう。昨日は俺が色々用意してたと思うんだけど、基本的にその日出勤してる遅番全員でやるから。今日は一緒にやろう」


 高草木さんが奥にあったもう一つの扉の前に立つ。今度はどこにでもあるようなアルミのスライド式ドアで、入口のドアのように壁に擬態してはいなかった。高草木さんがおもむろに扉を開けると、室内にパッと電気がつく。


「こっちは手動なんですね」


「なんか予算足りなかったらしい。中途半端だよねぇ」


 するりと入室した高草木さんに続いて足を踏み入れた。ひんやりとした空気に鳥肌が立つ。中は倉庫と聞いて想像するそのままの風貌だった。いくつもの段ボールや発泡スチロール、品出しで使うカートや折り畳みコンテナ、番重などの備品が置かれている。レジも置かれていた。広さは高校の教室より少し小さいくらいで、特に異常はないが一つ気になるものがある。


「あの小さな扉は何ですか?」


 俺が指さした方向に高草木さんが顔を向け「ああ」と小さく声を出した。入口のドアからちょうど対角線にあるそれを見て何なのかと尋ねてはみたが、恐らく給食室などにある食品用エレベーターなのではないかと思った。疑問なのはその先、どこに繋がっているのか。


「あーあれはちっさい冷蔵庫。店長がその日仕入れた商品を入れておくだけのやつ。元は食品用エレベーターだったらしいんだけど、改造したんだって」


 当たっているが微妙に違うようだった。開けていいよと言われたのでそっと近づきドアを開けてみると冷気が伝わる。中には発砲スチロールが一箱入っていた。店長が仕入れているという、例の「商品」。そっと持ち上げてみるとずっしりと重かった。


「これ、取っていいですか?」


「うん、ありがとう。それが今日売る商品だから、カートに乗せちゃっていいよ。品出し用のカートね」


 高草木さんは何をしているのかと見てみると、段ボールを持ち上げていた。俺は隅に置かれていた品出し用のカートをガラガラと引き、倉庫の真ん中に持ってくる。両端に梯子のようなパーツが付いており、そこに橋をかけるような形で板を置くと二段のカートになるものだ。今日初めて見たものだったが、昼間に小倉さんから使い方を教わった。板を持ち上げ、二段になるように掛ける。


「ありがとう」


 高草木さんはそう言いながら下段に段ボールを乗せた。中身をちらと見てみるとレジだった。俺は上段に先ほどの発砲スチロールを乗せる。近くにあったハンドベルや商品を乗せるバスケット、梱包用資材の詰まった段ボールも乗せていく。


「これで全部かな。よし、売り場にゴーだね。今日の商品は魚らしいから、鮮魚売り場に行こうか。俺が前持って引くから、雨水君は後ろから押してね」


 指示通りの位置につき、壁にぶつからないように慎重にカートを押していく。スライド式のドアを出て廊下を進み、重たそうな扉の前へ。高草木さんがカードをかざすと、扉が自動で開いた。二人でよいせとカートを動かして扉の外へ出ると、廊下は既にいくつか電気が落とされており薄暗かった。警備員さんに不審がられないよう、手早く進んでいく。


「店長から今日の商品は魚だって聞いたんだけど、今までは魚が出たことってなかったんだよね。雨水君が来たのが影響してるんだと思うんだけど、新鮮でいいねえ」


 よくわからないが、遅番担当が所属している部門の食材だけを発注できるということなのだろうか。だとしたら、今後はお肉なども出てくるのだろう。精肉の人に教えてもらわないと、商品詰めなどは全くわからないだろうが。観音開きのスイングドアを開くと、昨日と同じ、異空間への入り口が開かれる。店の裏側、もう一つの顔だ。距離の伸びた売り場を進み、鮮魚売り場と思しき場所に到着すると、早速準備に取り掛かる。昨日もやったことなので手順は覚えている。テーブルを出して、その上に商品を並べて……


「……え?」


 開封した発砲スチロールの中。予想だにしていない形のものが入っていた。また不思議な色合いの魚がパックにでも詰められているのかと思っていたが違う。パックに入っているのは、大きなサク。色は青色だが、見覚えのある長方形に思わず声が出た。今日切ったものよりも倍くらい長い。


「んー? どうしたの? ……うわこれ困ったなあ。あー、別の段ボールにトレーとかが入ってたのはそういうことか。なんか梱包資材多いような気がしたんだよね」


 一人納得した様子の高草木さんにどういうことかと目で尋ねる。


「要するに、これ切ってトレーに入れて売れってことだと思うよ。うわー、ごめんね。俺普通に魚がボカーンと入ってて、それを売るもんだと思ってたから……まさか刺身で来るとは」


「切るっていうのは、その、サクの状態で売るのでもいいんですかね……? このままだと大きすぎるので、小さめに分けて。スライスしないといけなかったりとか、そういうのってあります……?」


「んー、まあ別に指定されてないし、トレーに入ればいいんじゃない。だって、さすがに雨水君習ってないでしょ? これをスライスするのとか」


「一応習いはしたんですけど……でも全然できないですし……」


 俺の言葉を聞いて高草木さんがぽかんと口を開ける。そして徐々に顔をほころばせると、俺の肩をがしりと掴んだ。「うわっ」突然の衝撃に弱弱しい声が出る。


「なにそれ超すごいじゃーん。ならせっかくだし切ろ切ろ! 他の準備は俺がやっとくから!」


 でも自信ないし、上手くできないし、とモダモダしていたが高草木さんには通用しない。ぐいぐいと押されてそばにあったスイングドアを開き、鮮魚の作業場に放り込まれた。


「がんばって! 雨水君ならいけるよ!」


 サムズアップを残して嵐は去って行った。まさか数十分後に再びここに戻ってくることになるとは。作業場の電気をつけながらため息をつく。とんでもないことになってしまった。ちらりと見ても、青色のサクが勝手に切れてくれる様子はない。作業場の窓から、テーブルをセットする高草木さんの姿が見えた。その表情は楽しそうで、自分のことでもないのにテンションが上がっているようである。まだ上手くできるとも決まったわけでもないのに。


「……まあ、でも……」


 その様子を見ていると、やってもいいか、という気分になってきた。そもそも、俺は彼の力になりたいんだし。俺にできることは少ないんだから、ここで役に立たないと。急いで電気をつけてまな板と包丁を用意する。手をしっかりと洗い、ビニール手袋をつける。サクを取り出して、まずは切りやすいようにある程度の大きさにする。筋をよく見て置いて、包丁を手に取り——教えてもらった通り切り始めた。上手くいった、そう思い軽快に切った次のスライスが、崩れてぐちゃぐちゃになる。次こそは、焦って入れた包丁の位置をミスして、厚みのバランスが悪いスライスが生まれてしまった。


 切り方が下手になるたびに、なんで引き受けてしまったんだと後悔が募る。ミスをするたびに、幽霊を前に動けなかったこと、サクを上手く切れなかったこと、ゼミでの発表が上手くいかなかったこと、グループワークで発言できずクラスメイトに呆れられたこと、これまでの後悔が頭に現れてそのまま居座ってくる。途中で手が震えて止まりそうになった。こんな調子の俺に、バイトを続けるという選択肢があるのだろうか。


 自分に適性がないことは昨日でわかった。幽霊と接するのは怖いし、悪霊と戦うのも怖い。幽霊は想像以上に自分のトラウマとして人格形成に影響を与えたようだったが、それを今更なんとかしようとする行動力はなかった。今日一日の成果で決断しようと思っていたが、やはり俺がこの場所で役に立つことなど一つもない。ミスの一つ一つが俺の心にのしかかっていく。高草木さんや小倉さん、漆畑さんの迷惑にしかならない。やはり俺はダメ人間なんだ。調子に乗って役に立ちたいなんて舞い上がって、最低だ。スライスされて徐々に小さくなっていくサクが、自分の将来の姿のようで。


「おい。……おい! お前まだ切ってんのか!?」


 思考の途中、突然声が聞こえてハッとした。手元には、切りかけのサク。考え事をしながら切っていたが、思ったよりも綺麗に切れていて自分で驚いてしまう。おかしいな、不格好なものばかり生み出していた気がするのだが。呆けていると、再び声が聞こえた。


「おい聞いてんのか!! 耳ついてないのか人間は!!」


 キインと耳鳴りが起こる。何事かとようやく顔を上げると、目の前に天使さんがいた。空中に浮いた状態で腕を組み俺を見下ろしている。その表情はいかにも「怒ってます」と言いたげで、俺は身を竦ませた。なんで、何があったんだ。


「は、はい、ええと、なんでしょうか……?」


「なんでしょうかじゃないこの阿呆!! いいから来い!!」


「え!? いや、ちょ……!」


 天使さんに腕を引かれ、戸惑ったまま作業場を出て売り場へ。勢いよく開かれた扉の先、何が起こっていたのかようやくわかった。


「悪霊……?」


 鮮魚売り場の前に、悪霊がいた。いくつもの目玉を持つ巨大な影。昨日高草木さんが倒していたそれが、闇に溶け込むように存在していた。しかしその目玉の視線はこちらに向く様子はなく一点を見つめている。何を見ているのかと身を乗り出して愕然とした。——高草木さんが腕を押さえてうずくまっている。自分の身を守るように蔦を展開した状態で座り込み、顔を引きつらせていた。


「攻撃を受けたんだ」


 天使さんが小声で俺に伝える。「腕を見ろ」と言う言葉に従い注視すると、高草木さんの右腕に黒い靄のようなものが取りついているのが見えた。正体はすぐにわかった。影だ。ひゅっ、と喉の奥で空気が鳴る。俺が高草木さんの名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、悪霊がその腕を振り上げる。ドガン、と衝撃の音がした。高草木さんの蔦がミシリと音を立てる。


「あの影は徐々にお前たち人間の体を蝕み命を奪う。だからなんとかしなければならない」


「なんとかって……! ど、どうすれば!?」


 天使さんが冷え切った瞳で俺を一瞥した。


「倒すんだ。あいつを倒さなければ高草木はいずれ死ぬ。バンダナを巻き防御をすることはできたようだが、それ以上のことはできそうにない。ボク達がなんとかしなければ」


 愕然とした。俺が何をやらかしたのか理解した。呑気にサクを切って、呑気に自分のことばかり考えている間に高草木さんが攻撃を受けたんだ。俺の居た作業場からは売り場が見えたから、しっかり周りを見ていれば気が付けたはずなのに。全く気が付かなかった、そればかりか、天使さんが呼ぶ声すら無視しそうになった。——ああ、俺はなんてことを。


 俺は絶望するばかりだが、事態は進んでいく。天使さんの声が隣から聞こえる。


「お前、高草木のこと、気が付かなかったのか? それとも気が付かないふりをしていたのか。まあこの仕事に乗り気じゃなさそうだったもんな?」


「っち、ちが、」


「まあどちらでもいい。お前に今できることは、選ぶことだけだ。——ボクが戦っているのをそこで眺めているか、あいつと戦うか」


 天使さんが俺の手を離しふわりと浮く。白い二枚羽が優雅に羽ばたいた。


「ボクに見惚れていたいのなら作業場の中にいろ。そして後生大事に商品を抱えて絶対にやつに渡すな」


「て、天使さんは、倒せるんですか……?」


 ぴくり、形の良い眉が動く。彼はため息をつくと、サラリと髪の毛を揺らした。


「まあ厳しいだろうな」


 どこか諦めたような表情で、天使さんが翼から一枚、羽を抜き取る。手のひらの上にそっと乗せると、羽は輝きながらその姿を変えていく。——弾丸だ。手のひらサイズの弾丸が、真っ白く華奢な手の中で浮いている。彼は弾丸からそっと手を離すと、手で銃を撃つポーズを取った。弾丸はふわりと浮いて、人差し指の前に装填される。人差し指が狙う先は、悪霊。殺気を感じたのか、悪霊がこちらに視線を向けた。


「——バン!!」


 隙を突き、純白の弾丸が放たれた。それは目にもとまらぬ速さで悪霊の元までたどり着き、その目玉のうち一つを打ち抜く——かと思いきや、影の中の目玉が一瞬で消えた。いや、目を閉じたんだ。弾丸は悪霊をすり抜けて貫通し、売り場の奥へと消えていく。攻撃が当たらないのか?


「っくそ、やはり駄目か」「ど、どうして」


「あいつらの本体は目玉だ。目玉に攻撃をしなければ倒せない。だがボクの攻撃は一点集中型、目玉の数が多くても閉じられては的がわからなくなり当てられない。多眼型は的が小さいし……ボクは、狙いを定めるのがそれほど得意ではないんだ。悔しいがな」


「何発も同時に撃ったりとかは……」


 天使さんが俺をちらりと見て、顔を歪める。


「……ボクがもっと器用なら、できたかもしれないな。……そうだ、こんな体たらくだからあいつは……」


 天使さん何かをぶつぶつと言いながら二発、三発と弾丸を撃つも全てすり抜けていく。おまけに一瞬彼の動きが止まった隙を突いて、悪霊がビームのように影を飛ばしてきた。空中でするりと華麗に躱しているものの、天使さんの表情は晴れない。俺は咄嗟に悪霊から離れた場所へと走る。揺らめきながらもまだ実体のある商品棚の影に隠れ高草木さんの方を見ると、彼は苦しそうに呼吸をしていた。


「せ、せめて高草木さんのところに」


 悪霊は天使さんの方へ注意を向けている。今だったら、高草木さんをこの場から離脱させることができるかもしれない。そう考え、隠れながら商品棚の間と間を縫うようにして進み、悪霊に気づかれないように高草木さんの元へ近づく。そばに寄り一度呼吸を整えるために立ち止まると、気配を感じたのか高草木さんと視線が合った。その瞳が見開かれる。


 冷静に悪霊を確認。天使さんは俺たちからあいつを引き離そうとしているのか、鮮魚売り場から少しずつ離れるように移動している。今ならいける。一気に高草木さんの元へと駆けた。蔦は未だ高草木さんを守るようにして展開されているため、蔦越しの再会である。


「——高草木さん!」


「雨水君……! 危ないから、ちょっと離れて」


「い、いえ。天使さんが注意を引き付けてくれているようなので、大丈夫、です。ここから離れましょう。立てますか?」


 高草木さんが眉を下げて笑った。しゃがみ込んだまま、腕をそっと抑えている。


「ごめんね、雨水君。油断して攻撃喰らっちゃって……いつもだったら気付けたのに、なんでだろ、雨水君と一緒で浮かれてたからかな?」


「い、今は話をしている場合じゃ……! それに、悪いのは俺なんです。サクを切ることに集中していて周りを見ていなかった俺が、悪いんです。おまけに高草木さんがこんなに頑張っているのに、辞めることばかり考えて、天使さんにも迷惑をかけて、俺なんてなんの役にも立たないのに中途半端に仕事をしようとして……すみません、ごめんなさい、やっぱり俺はダメなんです。幽霊が見える変人でしかないんです。勇気のないただの凡人なんです。俺がやることは、昔から全部、全部迷惑で無意味で無駄でしかないんです」


 やっぱり来なければよかった、自分に何かできるかもなんて希望を持たなければよかった。何もできないくせに出しゃばって迷惑をかけて、昔から何一つ成長していない。俺が力になろうとしたら、いつも失敗するんだから。だったら、何もしない方がマシだ。その結果俺の心が痛み続けても無視すればいい。俺のことはどうでもいいんだから。ぎゅ、とエプロンを強く掴んだ。こんなに感情を揺さぶられるなら、もうこの場には来たくない。遠くで何かがぶつかる音が聞こえる。天使さんが、今も戦っている。俺の足は震えたまま動かない。


「……逃げましょう。ここであなたを失うことだけは避けたい。そんなことになったら今度こそ死にます。お願いします、逃げてください」


 悪霊たちの離れた今、辺りはひたすらに静かで、寒い。高草木さんは俺をじっと見た後、蔦の隙間からそっと腕を伸ばした。そして俺の腕を取り、ぐい、と引っぱる。そして俺の目をじっと見た。至近距離の威圧感にさらに体が動かなくなる。


「これは俺が勝手に油断したせいで起こったことだよ。雨水君が辞めようとしていたこと、サクを頑張って切っていたこととは関係ない。俺が君に頼んだんだから。それに、新人にフォローをさせるような社員になった覚えもない。君のフォローを俺がしなきゃいけないんだから。だから、悪いのは君じゃない」


 ああ、俺はどうやら失礼な事を言っていたようだった。余罪が積み重なっていく。絶望する俺をよそに、高草木さんがそっと視線を外して微笑んだ。


「ありがとうね、雨水君、色々頑張ってくれて。そして不甲斐ない社員でごめん。辞めてもらうことは全然構わないし、俺も引き留めたりしないけど……最後に、一つ、頼んでもいいかな。……君がどうしてそこまで自分を責めているのかはわからない。幽霊がすごくトラウマになっているのはわかるし、酷なことをさせようとしているのはわかってる。でも今だけ、どうか力を貸してほしい」


 高草木さんが蔦を消し、ゆっくりと立ち上がった。


「ごめんね、俺が一人でやらないといけないことなのに、巻き込んで。天使ちゃんはあいつを倒せない。俺もいつもみたいな力が出せない。——でも君なら倒せるんだよ」


 高草木さんが緑色のバンダナに視線を落とす。少しくたびれた様子のそれをそっと撫でた。


「ねえ、聞いてもいい? 君のやりたいことって何?」


「やりたいこと? そ、んなもの、思いつきません。俺が何をやったところで、またみんなに迷惑をかけてしまうし。……俺の行動は、悪手にしかならないんですから」


「うぬぼれかもしれないけどさあ、俺が悪霊と戦ってる時の雨水君の目、キラキラしてるように見えたんだよね。俺の気のせいだったのかな」


 その言葉に息をのむ。恐らく、昨日高草木さんがりんごと一緒に除霊した時の話だろう。あんな風に除霊できたらと一瞬でも思ってしまったあの時。しかしそれは無理な話だとすぐに理解して、取り繕ったはずだった。恥ずかしさで高草木さんの顔が見られない。言い訳も思いつかない。


「……君は迷惑って言葉をよく使うけどさ、俺、別に君のことそんな風に思ったことないよ」


 ぴくり。肩が跳ねる。


「一生懸命仕事覚えてくれるし。こんなヤバい仕事、普通は皆嫌がって逃げちゃうだろうに、でも君は怖がりながらもちゃんと向き合おうとしてくれてた。今日だって、もしかしたら来てくれないかなと思ってたけど、ちゃんと時間通りに来てくれたし。……俺は、雨水君にマイナスイメージ、持ってないよ。君が君自身にレッテルを貼りつけてるだけで」


「で、ですが俺、高草木さんのように上手く戦える自信なんてありません。俺のミスでお二人の命が……そんなことになったら、そんなことになるくらいだったら辞めたくて……!」


 何を訴えたいのかもよくわからないまま頭に出てきた言葉を吐きつらねる。目の前にいる大先輩はそれどころではないピンチなのに、なぜか俺が追い詰められているような気がして必死になっていた。目頭がジンと熱くなる。高草木さんはそんな俺の様子を気にしているのかいないのか、あはは、とケラケラ笑った。驚いて思わず顔を上げる。笑顔のままだが、しかし有無を言わさせない迫力のある視線が俺を射貫く。


「覚えてるかどうか知らないけどさ、俺君の教育係なんだよね。教育係の仕事は、君に仕事のやり方を教えること。だから君が協力してくれたら、俺すっごく助かるんだよね~。あ、無理だったらそれはもちろん強要しないけど」


「……え?」


 何を言っているのか一瞬理解ができず、こぼれそうになった涙も引っ込む。


「俺の評価のために、君にも協力してほしいなーって。無理にとは言わないよ? でも君が少しでも協力したいと思ってくれてるのなら……ね? バンダナは持ってる?」


「え、ええと、ポケットに……」


「じゃあ大丈夫だね。それを体のどこでもいいから巻き付ければ、俺と同じ力が使えるようになるから!」


 とんとん拍子に進んでいく会話に、思わずストップをかける。


「え!? いや、俺、辞めるつもりで……!」


「俺が死んでもいいの?」


 高草木さんが右腕をぷらりと揺らす。影は腕どころか彼の首まで渡り、症状が進行していることは明白だった。思わず顔から血の気が引いていく。


「そ、それは……」


「俺と天使ちゃんが死ぬのを見たくなかったら戦って。逃げてもどうせ俺は死んじゃうんだから。……俺を死なせることだけは避けたいんでしょ?」


 高草木さんを見上げる。額には脂汗が伝っているし、影はどんどん進行しているが、彼は余裕そうに笑っていた。つまり彼は、迷惑をかけたくないのなら俺のために協力しろと、そう言っているのだろう。少し強引な気がするし圧も感じるが——俺の背を押すために強く言ってくれているような、そんな気もする。さらに強くエプロンを握り、高草木さんと視線を合わせた。細められた目の奥に、俺への期待があるのなら。


「あ、あの。高草木さん、気を遣ってくださって、ありがとうございます」


「えー? 君今俺に脅されてるんだよ? お礼を言うなんて変なのー。……ふふ、でもそうだね、覚悟決まったみたいだし、答えを聞いてもいいかな」


 高草木さんが左手で俺のポケットからバンダナを取り出し、俺の前に突きつける。鮮やかな青色に染められたそれは、仕事をしているうちによれてしまったのかくちゃくちゃだった。困惑して何もできずにいると、再度突きつけられる。咄嗟に慌てて受け取った。


「もう一度聞いていい? 迷惑がどうとか抜きにして、純粋に君のやりたいことは、何?」


 もはややけくそだったが、胸の奥底が締め付けられるような衝動と、ツンと鼻をさす涙が俺を突き動かした。ずっと誰かの力になりたかった。でも俺のせいで迷惑をかけてしまうから、それは嫌だと見ないふりをして、そこで自分自身への嫌悪感に苛まれて。出しゃばらないようにひっそりと生きていこうと思ったけれど、それでも、人のために行動したいという気持ちが抑えきれなくて。この店に来てから、その欲望は膨れ上がるばかりだった。


 俺にも誰かを救える力があるのなら。今度こそ、除霊の力で誰かの役に立てるなら。


「……ッ、あいつを倒して、みなさんの助けになりたいです!」


「よっしゃ! 新人君のデビュー戦だ!!」


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